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チェダゼミナールコミュの講義ノート その58 

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一時間目 「道徳教育論」

フロイトの精神分析は科学的ではもちろんありません。

精神とは目に見えないものだから、臨床心理学はある意味解釈学なわけである。

まあ、そうであるにしても心理学を学ぶことは、重要であることには変わりはないでしょう。

うつ病も決して今に始まった病気ではありません。

ちょっと前までは、うつ病だというと、その社会集団からはじかれていました。

だから皆、心の病を抱えながらも、それをオープンにできない風潮があったのですね。

しかし今はちょっと違います。

うつ病は誰でもかかりうる病気であるという認識が広まり、鬱の人は鬱であると言えるようになって来たのです。

結局のところうつ病とは、何が原因なんでしょうか。

私は金曜4時間目の「心理学(教職)」を受講していて、「青年期とうつ病」というテーマでプレゼンをしなければなりません。

結局、親の教育次第でしょうね、心が強くなるか、弱くなるかは。

生まれてきた段階では、心の強さに、皆、差はないでしょう。

人生にはいくつもの、乗り越えなければならない壁やパラドックス(矛盾)があります。

それもそのはず、世の中は矛盾でできているのが基本構造なのですから。

いちいち物事を紳士に真面目に受け止めていたのでは、身が持ちませんからね。

ガキのころ、思春期のころ、親に反抗することは悪いことなのでしょうか。

弱いものいじめはいけないことなのでしょうか。

確かにいけないことなのかも知れませんが、これは体験してみて初めてわかることなのかもしれませんから、体験したほうがよいということもありますね。

こういった意味でも、世の中には矛盾だらけなことがたくさんあります。

さて、フロイトが定義する心的構造は

?エス 本能 イド
?イッヒ 自我 エゴ
?ユーバイッヒ 超自我 スーパーエゴ

ミスチルの「Es」は本能という意です。(多分ね)

超自我とは言い換えれば「自己規制」や、こだわり、自分だけのルールという意味合いで捕らえていただいて結構です。

皆さんはかつていやな事だったのに、今ではそれを求めていることって結構あるでしょう。

これも矛盾のひとつですよ。

かつては学校に行くのが苦痛だったのが、今では学校に行きたくてたまらないとか。

根拠はないですよ。

先ほどもいったように、臨床心理学は科学的に説明できるものではありませんから。

けれどなんとなく説得力はあるでしょう。

またスーパーエゴには、やってはいけないことをやる前に自覚して、やらない、という意味合いもあります。

どうなんですかね、自分は。

駐車違反やら、スピード違反やら、まあその他細かいことにしても、誰にも迷惑をかけないように生きているのかと言われれば、いいえ、たくさんの人に迷惑もかけているし、社会のルールを守らないときもありますよ。

けれども、その社会のルールも基本的には矛盾した構造になっているのです。

いちいちそれを律儀に守っていたのでは身が持ちません。

守れなかったことで、クヨクヨして、うつ病にかかる人は、世の中が矛盾でできていることを気づいてないのかもしれないですね。

たとえば、親は確かに敬わなければならない存在だが、決して完璧な人間ではないでしょう。

親も人間ですから、親の言うことが必ずしも正しいとは限らないですよ。

法律にも悪法はありますよ。

人間は自分がかわいいから、人にやさしくするのですよ。

二時間目 「地理歴史科教育法」

学習指導案の書き方、難しいですね。

教材観、生徒観、指導観を完璧に書けたら、かなりいい授業ができるような気もするのですが。

三時間目 「人文地理学」

教育実習に来年行きますが、実習生は基本的に教師からも生徒からも信用されていないそうです。

だから、実習生が授業をしたところは、実習期間が終わった後に、先生がもう一回授業をするそうです。

俺はそれをさせないような授業を目指そうと思います。

結果はどうなるかわかりません。

けれども、失敗するイメージを浮かべるだけでは前に進みませんから、とりあえず完璧な授業をするということをここで宣言しておこうと思います。


ところで、福岡市を人文地理的視点で見てみると、面白いことがわかります。

あくまで私の主観ですが、福岡の副都心(香椎・大橋・西新)において、香椎、それと博多の港湾のある箱崎地区は、大橋・西新に比べて若干デフレ傾向にあるような気がします。

特に飲食店が安いような。

それともうひとつ。

人文地理の知識と経済学の知識を絡めて、スターバックスの企業戦略を見てみると、これがまた面白い。

スターバックスはコーヒーを高価格で売っていますが、スターバックスがターゲットにしているのは低所得者なんですね。

矛盾しているでしょ。

けれどスターバックスの立地を見てみてください。

近くにマクドナルドや吉野家はありませんか!?

逆にスタバは六本木ヒルズのすぐそばにあるでしょうか!?

つまりスタバは低所得者層に、高い買い物をさせることで、コーヒーを売っているのではなくステータスや優越感を売っているのです。

つまり飲食店というよりもむしろ、サービス業なのかもしれません。

これも私の主観であって、科学的根拠は何もありませんから、異論があってもおかしくありません。

五時間目 「韓国経済論」

韓国経済が東アジアの奇跡といわれるほどまで成功できた秘訣とはなんなんでしょう。

政策そのものよりも、政府の腕のよさ、優秀な官僚機構にあるらしいです。

でも、その韓国がモデルにしたのは日本の官僚機構の成功があったから、日本を真似たんでしょう。

今、日本は官から民へとか言われていますけど、官僚の人達は、難しい国家試験を突破してるだけあって、伊達じゃないですよ。

官僚達は、ちょっと失敗すると、集中的に非難を浴びますが、日本の官僚達ってやっぱりすごいですよ。

彼らがいなかったら、日本はここまで発展してこれなかったかもしれないですよ。

つまり、今当たり前のように海外旅行に行ったり、車を乗り回したり、ご飯を残したりしていますけど、それらはある意味官僚達のおかげなんです。

日本はコーポレートガバナンス(企業統治)はあまりうまく行ってませんが、官僚のガバナンスはきっちりできていました。




自我 哲学および心理学における概念。

哲学における自我
自我 (ドイツ語 das Ich, 私とも)は自己意識ともいい、批判哲学および超越論哲学において、自己を対象とする認識作用のこと。超越論哲学における原理でもある。初期フィヒテの知識学においては、自我は知的直観の自己定立作用 (Selbstsetzung) であり、哲学の原理であるとともに唯一の対象である。自然はこれに反定立される非我 (das Nicht-Ich) であって本来的な哲学の対象ではない。したがってフィヒテにおいては自然哲学の可能性は否定される。これに対し、他我 (das Anders-Ich) と呼ばれる個別的人格の可能性は、非我と異なり道徳性において承認されかつ保証され、この構想はシェリングおよびヘーゲルから様々な点で批判された。一方フィヒテ自身もこの自我概念にあきたらず、後期フィヒテにおいては自我は我々(das Wir)および絶対者 (das Absoloute) の概念へと展開される。 すなわち、後期ドイツ観念論においては、もはや自我は体系全体の中軸概念としては扱われなくなる。

シェリングはフィヒテの自我概念を摂取し、『自我について』(Vom Ich) で自我の自己定立性を、無制約性と結びつけた。自我論文においては、物(das Ding)である非我一般に対し、無制約者 (das Unbedingte) としての自我は「物(Ding)にされないもの」として対置させられる。そのような自我の特質としての無制約性が自由である。ここにおいて思惟の遂行としての哲学すなわち無制約な自我の自己知は、自由な行為 (Handlung) となり、カント以来の課題であった知と行為の一致は、ただ自我の自由においてのみ一致する。又、シェリングはフィヒテが否定した自然哲学を主題的にとりあげ、『超越論的哲学の体系』において自我の前史・自我の超越論的過去としての自然という構想を得る。さらに進んで、『我が哲学体系の叙述』では、自我すなわち主観的精神と客観的自然はその原理において同一であり、無限な精神と有限な自然とは、即自において(それ自体としては)無差別な絶対者であるといわれる。これによってシェリングの同一哲学の原理である無差別(Indifferenz)が獲得される。 このような思想において、主観的なものとして取り上げられるのはもはや自我ではなく、むしろ精神であり、また精神における主観的なものとしての知また哲学となる。後にヘーゲルは『精神の現象学』でこの絶対者概念を取り上げ、このような同一性からは有限と無限の対立そのものを導出する事が出来ないと批判した。そのようなヘーゲルの体系では、自己意識は精神の発展・教養形成の初期の段階に位置づけられ、もはや初期知識学のような哲学全体の原理としての地位から退くのである。

一方、シュティルナーはフィヒテの自我の原理をさらに唯物論的に発展させ、自我に価値を伴わない一切の概念をすべて空虚なものとした極端な個人主義を主張。国家や社会も自我に阻害するものであれば、排除するべきであるという無政府主義を主張した。

精神分析学における自我
自我は精神分析学上の概念で意識のある機能の中心のこと。水準としての意識は意識を参照。ここではジークムント・フロイトの理論における自我に関する超自我(ちょうじが)とイド(エスとも)についても説明する。

自我
自我は意識層の中心の機能で、イドからの要求と超自我からの自己の規制を受け取り、感情を現実に適応させる機能である。
イド(エス)
イドは無意識層の中心の機能で、感情、欲求、衝動をそのまま自我に伝える機能である。イドは視床下部のはたらきと関係があると思われる。
超自我
超自我は上の二つの層をまたいだ機能で、ルール、道徳観、倫理感、自己の規制を自我に伝える機能を持つ。この機能がイドや自我を強く押し付けているとき、自我がエスの要求を通すことができずに防衛機制を働かせることがある。超自我は前頭葉のはたらきと関係があると思われる。



リビドー 日常的には性的欲望または性衝動と同義に用いられることがままある。これは「性的衝動を発動させる力」とするフロイトによる解釈から継承したものである。一方で、ユングは、すべての本能のエネルギーの本体のことととらえた。二人が決別した原因は、リビドーの解釈の違いが大きいといわれる。 対義語にデストルドーがある。


スプロール現象(sprawl-げんしょう)は都市郊外部のスプロール化(urban sprawl)を指し、都市が無秩序に拡大してゆく現象を指す。スプロールとはむやみに広がるといった意味。

問題点
都市が発展拡大する場合、郊外に向かって市街地が拡大するが、この際に無秩序な開発が行われることをスプロール化と呼ぶ。計画的な街路が形成されず、虫食い状態に宅地化が進む様子を指す。

通常、都市郊外の小規模な農地などが個別に民間開発される場合、土地利用の合理性や周囲の道路との接続はあまり意識されないまま、もっぱらその土地の形状に合わせて、住宅地などが整備される。

このため、開発区域内は整理されていても、開発区域同士の間に計画性がなくなることになる。また、郊外農地の地権はあぜ道などにより区画されていて整形されてない場合が多いため、それに併せて整形が不十分となる。

これにより、道路網が不十分なため自動車の渋滞を招いたり、住宅の密集による災害時の脆弱性などにつながり、都市機能が低下する。一度スプロール化した地域では、地権の細分化、地価の上昇などにより、改善は非常に困難になる。

対策
いったんスプロール化が進展した後は、改善が困難になるため、対策はスプロール化の防止が主眼となる。

スプロール化防止に有効なのは、公的機関などによる大規模な区画整理である。区画整理を都市開発に先立って行うことで、敷地を整形にすることが可能になり、都市機能が向上する。しかし、区画整理にも地権者の合意が必要なため、中々事業が進まない事例も多く見受けられる。

都市を新設する際に、計画性を前面に押し出し碁盤の目のような街路などを形成する方法がある。東アジアの古代都市や、近代においてはアメリカや北海道の都市などがそれにあたる。しかし、都市がその計画範囲を超える場合は、スプロール化する可能性がある。都市の地図などで、都心部が合理的な区画になっているのに対して郊外が無計画化しているものが見られるのは、このためである。例として、北米の都市は、近代的な都市計画に基づいて設計されたが、モータリゼーションの進展により都市範囲が飛躍的に拡大したことなどから郊外でスプロール化が散見されるようになった。

欧州各地に設置されたローマ都市では都市城壁が、都市の拡大そのものを抑制しており都市計画の合理性が保たれる結果となっている。これは、首都のローマ市が無計画に拡張した反省からであると考えられる。

一方こうして形成された住宅地は、計画性に乏しいが故に逆に土地区画、住宅の種類や形態、住宅の供給年代の多様性をもたらしている。このため住民の年齢構成の偏りや多様な所得階層の存在という特徴も有し、そのため計画的に形成されたニュータウンで指摘されるような人口減少や急速な若年層の減少、高齢化といった諸問題を緩和させているという側面も持っているといえる。

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