ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

チェダゼミナールコミュの講義ノート その47

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
一時間目 「道徳教育論」

『習俗としての殺人行為』

道徳教育とは、人がジレンマやトリレンマに陥ったときに必要な教育だとされています。

それでは道徳とは何なのでしょうか。

簡単に言ってしまえば人としての一般常識とでもいいましょうか。

ただ「常識」と一括りにいいましても、あなたの常識と僕の常識は違うかもしれない。

時代や国によってもコモンセンスというものは違うのです。

近現代でこそ、殺人はいけないことだとされていますが、ではこれは地球が誕生してからずっとそうだったのですか。

中世ヨーロッパでは子どもは親の従属物、つまり単なるモノ扱いでした。

親はいつでも子どもを殺すことができましたし、教会に子どもを捨てるということもありました。

また「おば捨て山」なる言葉を耳にしたことはあるでしょう。

ギロチンも20世紀初頭まで事実上フランスでありました。

これは教科書には書いていない事実です。

また安楽死や尊厳死の問題もありますよね。

またネイティブインディアンの中に首狩り族という民族もいますよね。

彼らにとってある意味、人を殺すことが名誉なわけです。

これはわれわれの倫理観からすればありえないことでしょう。

人権は今でこそ当たり前のようにありますが、人権が当たり前でない時代のほうが圧倒的に長いのです。

僕の直感では、21世紀版おばすて山はもうすぐ復活すると思います。

だってこれだけの少子高齢化社会ですよ、お金がもちますか!?

経済活動如何で倫理や道徳なんてもの、一般常識なんてものはいくらでも変わります。

ただ僕はもちろん人を殺したり、弱者を切り捨てる世の中がいいとはもちろん思ってませんし、そうならないような世の中を構築することが社会学者や経済学者たちの一番の課題だと思っています。

イデオロギーとはなかなかの拘束力を持ちますね。

例えば13日の金曜日に赤い服を着る人は確かに減るだろうし、仏滅に冠婚葬祭をする人もやはり減るでしょう。

ただ、これらのことは何も科学的根拠のないゴシップに過ぎません。

僕はむしろ仏滅に結婚式をあげようかと思っているぐらいです。

結婚式会場の費用が半額ほどに抑えられるからです。

僕はホモエコノミカ(ク)スですから。

二時間目 「地理歴史科教育法」

この講義担当のT先生の名言集のひとつを紹介しましょう。

「教師は授業デザイナーである」

後もうひとつ。

読み仮名が解らないのだけれども「守破離」というものがあります。

書道用語なんですかね。

意味は、物事をするとき、始めはお手本を真似ること、先人の教えどおりにやること、とりあえずマニュアルをこなすことから始め、慣れてきたら、自己流をアレンジし、オリジナリティーを出していくという意味合いらしいです。

これは大事ですね。

僕はマイペースな性質で、始めからつい自己流、オレ流で行ってしまいがちですが、やはり最初は素直に学ばなければいけませんね。

三時間目 「人文地理学」

『産業クラスター』

安倍さん政権とりましたね。

山口県はもう9人も総理を出したことになります。

総理は歴代何人でしたかね、60〜70人ぐらいですか。

比率としては多いですよね、山口県。

しかも山口県は我田引水のような政治家はあまりいないような気がします。

つまり地元優先の政策よりも、国のために働く政治家が多いように感じられます。

漫画の世界で行ったら加治隆介です。

彼は鹿児島ですが。

でも確かに鹿児島出身者と山口出身者は尊敬できる人が僕の周りの友達でも多いですよ。

安倍氏がどのような人であるかは知りませんが、少なくとも経済政策は小泉路線とほぼ一緒のようですが。

五時間目 「韓国経済論」

韓国と我が国の関係はどうでしょう。

韓流ブームも一昔前となりましたが、韓国との関係は政冷経熱ですね。

まあ中国とも同じようなものでしょう。

つまり、政治はあまりうまくいかないが、民間同士の経済活動の交流はかなり進んでいるということです。

私も去年の誕生日にソウルの方に行ってきましたが、韓国の反日感情は表向きにはまったく感じませんでした。

単なる一人の上客といった感じでしょう、彼らからしたら。

近くて遠い国韓国。

そもそも世界史を紐解いていけば、隣国と仲の良い国というのはあまりありません。

隣国とは大抵対立するものなのです。

ただ、今はそんなことは言ってられません。

たとえ仲がよろしくなかろうと、中国と韓国と日本は近い将来同じ経済圏に組み込まれるでしょう。

通貨単位も30〜40年後には統一されるのかもしれませんね。

この講義の先生の話を皆がほとんど聞いておらず、先生に反日感情が芽生えやしないだろうかと、僕はハラハラしながらも、友達とおしゃべりしておりました(´゚ω゚):;*.':;ブッ

韓国の首都はソウル

日本の政令指定都市に当たる広域市は6つ。日本は14箇所かな確か。

釜山、仁川(インチョン)、大邸(テグ)、光州(クアンジュ)、大田(テジョン)、蔚山(ウルサン)

六時間目 「スポーツ科学演習・卓球」

やるからには全員に勝つよq(^-^q)

ってかこの講義の先生、柔道界ではちょっと名前の知れた人らしく、モスクワ五輪代表だったんだって。

ご存知の通り、日本は1980年のモスクワ五輪はボイコットしましたけどね。

ソ連がチェコに武力侵略したからでしたっけ!?

語句調べ 参照wikipedia

文化人類学 社会科学のひとつである、人類学の一分野である。人類学は一般に人類の進化や生物学的側面を研究する自然人類学とその社会的・文化的側面を研究する文化人類学に大別される。本来、文化人類学と言う呼称はアメリカにおいて用いられてきたもので、イギリスおよび多くのヨーロッパ諸国では社会人類学の名称が用いられている。両者の間には歴史的な相違が存在していたが、現在では研究内容がほぼ収斂し同じ分野の異称であると考えて差し支えない。またヨーロッパ諸国や日本においては民族学(Ethnology, Ethnologie)の名称も用いられている(民族学を一分野とする場合も多い)。また民俗学(Folklore)は隣接分野である。

広く捉えると文化人類学は、人類を進化の過程によって形作られてきた生物学的側面から捉える自然人類学に対して、自然とは対比される文化という側面から研究しようとする学問分野である。ここで言う文化とは進化の過程を経て形成される遺伝形質ではなく、人類が後天的に学習した行動パターンや言語、人工物の総体を指す。このような広義の文化概念をとった場合、文化人類学には言語学と考古学が含まれることがあり、アメリカではこのような広義のくくり方が一般的である。

これに対して狭い意味では、民族・社会間の文化や社会構造の比較研究として定義される。社会人類学や民族学というラベルはまさにこの狭く定義された文化人類学と同義である。ブロニスロウ・マリノフスキー以後、この分野では数ヶ月から数年に渡って研究対象となる社会に滞在し、メンバーの一員として生活するフィールドワーク(参与観察)の手法を用いることが一般的となった。

学問史
一般に人類学の学説史は、このマリノフスキーを境にして前史と近代人類学に分けられる。この時期、マリノフスキーが確立したフィールドワークの手法によってデータの体系的収集が可能になり、さらにその同時代人であるラドクリフ=ブラウンによってフランスの社会学者デュルケームの社会理論に基づいた構造機能主義理論が確立され、社会科学としてのその基礎が築かれた。

マリノフスキーとラドクリフ=ブラウンはともにイギリスを中心にして活躍したため(もっとも両者はともにアメリカで教鞭をとっている)、第二次大戦後は彼らの後を受けたイギリス社会人類学の伝統が人類学の本流として認識されるようになった。しかし、各国の人類学にはこれとは異なる伝統が存在しており、その中でもアメリカとフランスの伝統はしばしば強い影響力を持った。

特にアメリカには、フランツ・ボアズを中心とした独特の学派が受け継がれてきた。この学派では社会関係と社会構造に注目する社会人類学よりもより包含的なアプローチを取り、人間の慣習や社会制度、心理的傾向性、言語、物質文化と言った多様な要素からなる広義の文化に焦点を当てた。 この学派は、この幅広い文化の概念を用いて各民族(具体的には北米原住民)の固有文化を記述することに専念し、社会人類学のような理論化に対しては批判的であった。こうした姿勢は乏しい資料を基に自民族中心主義的な理論化を行った進化主義への反発から来ていると言われ、ボアズらはこのような進化主義的立場に抗してそれぞれの文化はそれぞれの価値において記述・評価されるべしであると言う文化相対主義を主張した。このように理論を排除する立場をとったため、アメリカ文化人類学派はイギリス社会人類学に対して理論的な発展では後れを取ったが、一方で社会関係にこだわらない包括的な立場を取り、言語や心理過程、地理的範疇や生態系にも焦点を当てたために、後に心理人類学(文化とパーソナリティ論)、生態人類学(新進化主義)、といった数多くの下位分野を生み出すことになった。

日本では、イギリスに留学して社会人類学を修めた中根千枝を招いた東京大学や都立大学(現首都大学東京)においてイギリス流の社会人類学が受容された。一方、関西では生態学者今西錦司の弟子である梅棹忠夫を中心とした京都大学人文科学研究所がアジア・アフリカ各地に探検隊を派遣して多くの研究を行った。その成果は大阪万国博覧会(万博)におけるメイン館の展示となり、その後同跡地には国立民族学博物館(大阪府吹田市の万博記念公園)が設立されて日本における文化人類学の研究拠点となった。生態学者今西錦司の影響下に発展した京都の人類学は霊長類学との協力が盛んで理系の人材が多く、そのため環境利用や生業、技術、進化など人類社会の生態学的側面に焦点を当てた優れた研究を行ってきた。 また、梅棹忠夫が50年代に著した文明の生態史観は人類学だけでなく、当時の日本の論壇に大きな衝撃を与えた。

文化人類学は様々な国でその国独自の事情を反映して多様に発展してきた。イギリスにおいては社会人類学、アメリカにおいては総合的な文化人類学、日本では生態人類学がそれぞれ各国の個性を代表していると言えよう。しかし、近年は交流の活発化に伴ってかつてのような国ごとの個性はそれぞれのフィールドごとに再編されつつあり、国による違いは徐々になくなりつつある。 また70年代以降、文化人類学がおもな対象としてきた発展途上国社会で急激に開発が進み(ポストコロニアル)、新たな社会問題が発生するようになるに伴って学問の性格も徐々に変化してきた。特に80年代以降は、開発、医療、エイズ、環境問題、教育、観光などの社会問題を扱う応用人類学の分野が急成長し、急激に多様化が進みつつある。さらに、エドワード・サイードのオリエンタリズムやポストモダンの潮流に関連して、文化人類学者が異文化を「書く」とはどういうことなのか、という学問の根幹に関わる問題も提起された。同様に人類学的行為の政治性や方法論・理念(文化相対主義、社会構築主義など)についての議論も盛んに行なわれている。

ルース・ベネディクト1887年6月5日 - 1948年9月17日 アメリカの文化人類学者。ニューヨーク生まれ。大学はヴァッサー大学に学んだ。卒業は、1909年である。その後1919年、コロンビア大学の大学院で学び始め、フランツ・ボアズの指導を受け、PhDを取得、1923年教員の1人となる。マーガレット・ミードは、彼女の教え子の1人である。彼女は、1930年代の初めまでアン・シングルトン(Anne Singleton)のペンネームで詩文も書いていた。彼女の『文化の型の捉え方』(1934年)は、あらゆる人間社会の中で現れてくる行動のかたちを記述する中での文化の相対主義を表現したものであった。(彼女の批評家たちは、これを全体の中の「ごく些細な一部」という言い方をする。) 1936年、彼女は助教授に昇任した。ベネディクトは、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参入するに当たって戦争に関連した研究や助言のために、召集した代表的な社会人類学者の1人となった。彼女のあまり知名度の高くない著作に、彼女がジーン・ウェルフィッシュと共に書いたパンフレットがある。これはアメリカ軍のために人種的な偏見について学問的な解説を企てたものである。軍は、軍事的な効率と関係する人種的に動機付けられた行動に関心を持っていたのだが、この著作物は、それについての完全な説明を網羅するまでには至っていない。
「菊と刀」
ルーズ.ベネディクトの『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword)は、日本文化を解明した文化人類学の名著である。『菊と刀』は、ベネディクトの戦時中の調査研究をもとに1946年に出版された。ベネディクトは、フランツ・ボアズより教わった文化相対主義の概念を日本文化に適用するべく、恩や義理などといった日本文化固有の価値を提唱した。倉智恒夫によれば、『菊と刀』の認識パターンは、フランス人によるイギリス考ルイ・カザミアンの『イギリス魂−その歴史的風貌』(1927年、現代教養文庫)と共通するものがあるという。ベネディクトは、日本を訪れたことはなかったが、日本に関する文献の熟読と日系移民との交流を通じて、日本文化の解明を試みた。『菊と刀』はアメリカ文化人類学史上最初の日本文化論であり、出版から50年以上たった現在でも不変の価値を持ち続ける古典的な著作と見なされている。『菊と刀』は日本文化の価値体系の独自性を強調する。しかし、最近ではそれを懐疑する傾向も見られる。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれていることに、批判の目が向けられている。日本文化は、近代日本国家が成立した明治維新以降に集大成された価値体系であり、多分に西洋思想の影響を受けているという批判である。ベネディクトのように、文化を心理的観点から不変の存在として理解しようとする試みは、時として歴史の偶然性をないがしろにする危険性がある。  
第二次世界大戦後
彼女は戦後も教育活動を続け、死のわずか2ヵ月前に漸く正教授に任じられた。1948年9月17日、ニューヨークで亡くなっている。

日本人論 日本人について論じる論、著作、報告のこと。日本人論の起源としては、古くは安土桃山や江戸時代の宣教師の母国への報告書や、海難・漂流体験からロシアやカナダなどを見る経験を得た日本人漁師や船頭の経験譚が挙げられる。幕末から明治にかけては、日本からの海外視察団による報告や、来日外国人による文化人類学的な観察記録やエッセイなどに日本人論を見ることができる。日清・日露戦争、そして二度の世界大戦を経て、海外で日本人の戦略や戦術、道義心、忠君愛国の背景にあるものへの関心が深まると、ルース・ベネディクトの『菊と刀』やオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』といった日本研究が進んだ。戦後には、日本経済の驚異的な躍進から再びその成功を支える社会的基盤に対する関心が高まって様々な日本人論が著されることになる。日本人を包括的に均一な集団としてとらえ、歴史的変遷や階級による相違を無視して、外国・異文化との比較を通してその独自性を論じるところを共通項とする論が多い。ベストセラーもいくつか出るほどの人気分野となっており、このような現象は日本を除いて世界に類がない、という見方がある。文化人類学、社会学的研究としての日本人論もある一方で、民族主義的心情に基づく日本人自身による自国、自民族の特殊性を殊更強調するように書いた論考も数多く出版されている。そのため、Peter N. Dale(1986)、ハルミ・ベフ(1987)、 吉野耕作(1992)他、日本人論を文化的ナショナリズムの発露の一形態として批判的に研究する学者もいる。現在では、「評論」であって学問ではないという見方が学界では一般的である。
日本人論の特徴
杉本とマオア(1982)は、日本人論の多くは以下の3つの根本的主張を共有していると指摘している:
個人心理のレベルでは、日本人は自我の形成が弱い。独立した「個」が確立していない。
人間関係のレベルでは、日本人は集団志向的である。自らの属する集団に自発的に献身する「グルーピズム」が、日本人同士のつながり方を特徴づける。社会全体のレベルでは、コンセンサス・調和・統合といった原理が貫通している。だから社会内の安定度・団結度はきわめて高い。 その一方、日本人論の論調はその時代時代の社会情勢を反映して変化してきている。例えば戦後の荒廃時は、民主主義国として再構築を目指す中、日本に独特な封建的残滓などがアメリカや西欧諸国と比較され批判的に検証された。高度経済成長期に入ると逆に日本の特殊性が肯定的に見直されるようになる。青木保(1990)は斯様な戦後日本人論の変容を4つの時代に区分している。

第1期「否定的特殊性の認識」(1945-54)
『菊と刀』(1948年)、『日本社会の家族的構成』(1948年)など
第2期「歴史的相対性の認識」(1955-63)
『雑種文化』(1956年)など
第3期「肯定的特殊性の認識」前期(1964-1976)、後期(1977-1983)
『「甘え」の構造』(1973年)、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)など
第4期「特殊から普遍へ」(1984-)
また、同じ日本人といえども、時代によって日本人の性質や性格は現在とは大きく異なるということも念頭に置かねばならず、様々な時代の様々な場所での旺盛な研究が待たれるものである。

マーガレット・ミード1901年12月16日 - 1978年11月15日 米国ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれの文化人類学者。ルース・ベネディクトとともに20世紀米国を代表する文化人類学者と評価されている。バーナード大学 (Barnard College) でフランツ・ボアズ (Franz Boas) の人類学講義を聞き、コロンビア大学で博士号を取得。 ポリネシア・サモア諸島で、1925年から1926年にかけフィールドワークを行なう。 1926年よりニューヨークのアメリカ自然史博物館で研究員補を振り出しに研究職を務め、また1954年からコロンビア大学で教鞭をとった。文化人類学の発展期にあって数多くのフィールドワークをこなし、精力的に研究を行った。また文化人類学を利用した社会評論や一般向け著作にも熱心に取組み、文化人類学の普及には多大な貢献があった。"gender"という用語はもともと身体的性を示す言葉として存在していたが、ミードは「社会的・文化的性」という意味でのジェンダー研究を行った先駆者でもある。著書の一部はジェンダーが社会的に構築されたものであることを立証するとしてフェミニストたちから注目され流用されたが、調査内容の欠陥に付いての指摘もある。また、ミード自身も「男女の役割が逆転した社会を発見した覚えはない」と語っている。マシュー・カルブレース・

ペリー 1794年4月10日 - 1858年3月4日 アメリカ合衆国の海軍軍人。アメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。日本の江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国させたことで知られる。日本語名は「彼理」。来航当時の幕府はオランダ語通訳を使用していたため、当時の文書にはオランダ風発音の「ペルリ」で表記された。
経歴
ロードアイランド州ニューポートで父はアメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド、母はセーラ・ペリー。3男として生まれる。兄はクリストファー・レイモンド・ペリー、オリバー・ハザード・ペリー。1809年に自身も海軍に入り、1812年からの米英戦争に2人の兄とともに参加する。1833年にブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年にアメリカ海軍最初の蒸気船フルトン号を建造する。同年海軍大佐に昇進し、1841年には同海軍工廠の司令官となった。蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父とたたえられた。1852年3月に東インド艦隊司令長官に就任、日本開国の指令(ただし発砲は禁止された)を与えられた。同年11月アメリカ大統領のミラード・フィルモアの親書を持ってバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲートミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はケープタウン・シンガポール・香港・上海・沖縄・小笠原諸島を経由し、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)浦賀に入港した。日本の江戸幕府の戸田氏栄・井戸弘道にフィルモア大統領の親書を手渡し、開国を要求したが、翌年までの猶予を求められ退去した。
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦サスクハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市金沢区の沖に迫り条約締結を求め、3月31日(旧暦3月3日)に神奈川で日米和親条約を調印した。帰国した後は遠征記などを記す。1858年3月4日ニューヨークで死去、享年64。墓所はロードアイランド州アイランド墓地。1853年7月8日に日本の江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ東インド艦隊の4隻の軍艦。日本人はこれを「黒船」と呼んだ。旗艦:「サスケハナ」 1850年12月24日フィラデルフィア海軍工廠で竣工 外輪式フリゲート:水線長76メートル、満載排水量3,824トン、乗員300名。 装備 10インチ砲3門、8インチ砲6門

ゼロエミッション 産業界における生産活動の結果排出される廃棄物をゼロにして、循環型産業システムを目指し、全産業の製造過程を再編成することにより、新しい産業集団(産業クラスター)を構築しようとする国際連合大学が提唱している構想である。分かりやすく言えば、廃棄物や廃熱として捨てられているものを必ず活用して、無駄に燃やされたり、埋められたりしないようにすることである。

東亜大学 英称:University of East Asia 山口県下関市一の宮学園町(新下関地区)にある私立大学。
設置者は学校法人東亜大学学園。
特色
通信制大学院の法学専攻は全国でも本学にしかなく、税理士試験における税法系科目の試験免除の資格が通信制で取れる事実上唯一の大学院として知られる。平成17年5月まで劇作家の山崎正和が学長を務めた。

習俗 社会の慣わし。風習。風俗。また、生活様式。

バースコントロール 産児制限。妊娠調節。受胎調節。略してバスコン。

インディアンサマー 北アメリカの晩秋・初冬のころの異常に暖かい晴天。日本の小春日和に相当する。風が弱く暖かい。老婦人の夏と呼ぶところもある。

茨城大学 茨城県水戸市文京二丁目1番1号に本部を置き、茨城県水戸市、茨城県日立市、茨城県稲敷郡阿見町にキャンパスを置く総合大学、国立大学である。1949年に水戸高等学校、茨城師範学校、茨城青年師範学校、多賀工業専門学校を包括して設置された。大学の略称は茨大(いばだい)。

ソウル特別市 大韓民国の首都。また、朝鮮民主主義人民共和国も、1972年までソウルを名目上の首都としていた。
概要
元は京畿道に属したが、1946年に独立し「特別市」となる。韓国にはソウル特別市のほか、6つの広域市が存在し、日本の政令指定都市に相当するものといえるが、それぞれ行政道には所属せず、独立した自治体として運営されている。人口密度は世界で一番高い都市と言われている。李氏朝鮮500年の王都で、四神相応の思想によって建てられた。なお「ソウル」は、朝鮮語で「みやこ」を意味する「ソホリ」が転訛した固有語である、など諸説いろいろあるがはっきりした語源はわからない。正式名称(漢城・漢陽・京城など)の変遷にかからわず古来より朝鮮民族はこの地を「ソウル」と呼んできたと言われている。また、元は朝鮮語固有の単語なので漢字表記は無く、通常はハングルのみで表記する。気候は亜寒帯冬季少雨気候で降水量が少なく、大陸性気候傾向を示す。ソウルの人口は韓国の経済発展に伴って急増を続け、1975年の680万人から1990年には1061万人にまで到達した。しかし翌年の1092万人をピークにその後は微減傾向が長く続いている。これはドーナツ化現象が進んだためと見られ、日本の首都東京が高度経済成長に伴って急速に拡大し、その後都心部の人口が減少していったことと状況が極めて良く似ている。ただ都市圏そのものは現在も拡大を続けていて、既に韓国全国民のおよそ4分の1がソウル市民、およそ半分が首都圏民という状態になっており、日本以上の首都一極集中が進んでいる。
歴史上の名称
「漢陽(ハニャン)」は李氏朝鮮の時代に使われた名称で、公式的には「漢城(ハンソン)」であった。中国、台湾など中国語を使う国では、ソウルに相当する漢字表記がないこともあり、長らくソウルのことを(旧名である)漢城といい、仁川国際空港近辺などの韓国の道路交通標識にもハングルと併記で「漢城」と表記されていた。ただし、新表記の「首爾(ショウアル)」(後述)が制定されたことに伴い、徐々に状況は変化している。

「京城」は日本統治時代(1910年 - 1945年)に使われた名称。1910年9月30日に施行された朝鮮総督府地方官官制に基づいてそれまでの「漢城府」から「京城府」となった(「府」は日本内地でいうところの「市」に相当)。歴史的仮名遣では「けいじやう」と表記。実際には1945年以降も数年間使われている。そもそも「漢城」は「漢(=中国)の街」という意味で有り、日清戦争での日本の勝利により清の冊封国の地位を脱した朝鮮の首都の名称として「漢城」は相応しくないとされたものと考えられる。ただし「京城」という名称は、元来首都を意味する言葉であることから、李氏朝鮮時代の公式資料の中でも見受けられ、日本統治以前より存在したのは疑いない。しかしながら現在の韓国では、日本によって強制的に変えさせられたとの認識が一般的で有り、差別用語と主張されることもある。一方で、一部の商店や企業名など(京城紡績、現在の京紡)には今なお「キョンソン」の名称が残っている。京釜線、京義線、京仁線、京元線、京春線といった鉄道路線名の「京」も「京城」から取られている。これらの路線名は日本統治時代に付けられたものであるが、「京釜高速道路」「京仁高速道路」などは独立後に命名されたものであり、ソウルと仁川の周辺を指す「京仁地域」も独立後に発生した地域呼称である。
なお、日本統治時代でも「京城」から外国へ出された郵便物への消印は「SEOUL」となっていた。
ソウル
かつては「ソウル」に相当する漢字表記は無く、長らくハングルと併記で「漢城(ハンソン)」(簡体字「汉城」)と表記されていたが、ソウル特別市庁は2005年1月18日から「ソウル」の中国語(漢字)表記を「首爾 (Shǒu'ěr) 」(簡体字「首尔」)と定めた。[1] [2] それに伴い台湾と香港の新聞とニュースは「首爾」と改めた。
一方、中国側では当初、「漢字表記は中国が決めるもの」として「首爾」の使用に消極的であったが、2005年中頃から中国青年報などのメディアや中国南方航空などの航空会社で「漢城」から「首爾」へと表記を改め始め、10月には中国政府も「首爾」表記への変更を発表した。

歴史
主要記事:History of Seoul
古くは百済の都・漢城が置かれており、隣接する河南市にある遺跡からはたくさんの遺物が出土している。西暦475年高句麗軍に陥落すると、百済は熊津(公州)に遷都し、統一新羅時代には漢山州と呼ばれ、757年には漢州の漢陽郡に改められた(小京は中原京が漢州の下に設けられた)。高麗時代には市域の北部は楊州、南部は広州と呼ばれ、1067年には三小京のひとつである南京が置かれた。1392年高麗の将軍・李成桂が威化島回軍によって政権を奪取し、1394年には開京(現・開城)から漢陽遷都を決行した。翌1395年に漢陽府は漢城府に改称し、これ以後、漢城(ソウル)は500年にわたって李氏朝鮮の都となる。李朝末期の時点では市内が5部49坊に細分化されていた。1910年日韓併合後、漢城府は京城府に改められ、日本の植民地政府である朝鮮総督府が置かれた(この場合の府は内地では市に相当する)。その後都市化の進行に伴い、1936年には周辺地域を併合して府域を4倍に拡大し、1943年には区制が導入されている(7区=龍山區・東大門區・城東區・西大門區・永登浦區・鐘路區・中區。なお、翌1944年に周辺を併合し麻浦區誕生)。朝鮮総督府の支配下で現在の景福宮・光化門・ソウル市庁舎近辺は政治・行政の中心、現在の明洞近辺は経済・商業の中心、龍山は軍事の中心(現在の在韓米軍基地が旧日本軍駐屯地)となった。また京畿道の道庁所在地でもあった(現在京畿道庁は水原市に移転している)。なお、余り知られていないが、関東大震災直後には日本の首都を京城に移すという「京城遷都」論が主張された事がある。
日本統治時代には水道や路面電車(京城市電、後のソウル市電)といった都市インフラの整備が進み、生活環境は大きく改善された。本町(鐘路)や明治町(明洞)、黄金町(乙支路)などの繁華街には近代建築が立ち並び、その賑わいは日本本土の大都市に勝るとも劣らなかった。日本統治といえど、京城府の職員は朝鮮人が中心であった。また京城帝国大学が設置されるなど文教政策にも力が注がれた。
1945年8月15日の「光復」後もしばらくの間、京城の名称が使われ、米軍政下の1946年10月18日京畿道の管轄から離れてソウル特別自由市が設置され、大韓民国が独立した1948年には韓国の首都としてソウル特別市となった。1950年6月に勃発した朝鮮戦争で市内は破壊され、韓国の首都は釜山臨時首都に移転した。停戦実現後1953年8月1日にソウルへ還都している。その後、韓国の高度経済成長とともに発展を続けて市域を拡大、1988年のソウル・オリンピック(韓国では88=パルパル=オリンピックということも)で名実共に国際都市となった。市庁の庁舎は日本統治時代からの古い建物を使っているが、隣接して新しい庁舎の建設工事を行っており、2009年に完成する予定になっている。
なお市内の昌徳宮や宗廟は世界遺産に登録されている。
清渓川漢江が市の中心を横切るように流れ、南北に隔てられた地域をそれぞれ江南、江北と呼ぶ。古くから発達したのは江北であり、宮殿や城壁などの史跡は江北に集中している。一方江南は新興住宅街として開発され、またオリンピック関連施設も江南に多く建設された。古くは舟が南北を繋ぐ交通手段であり、トゥクソムと麻浦が代表的な河港であった。他に鷺梁、松坡なども船着場として知られ名残を残している。近代以降は各所に橋梁が架けられ、交通手段としての船は廃れたが、遊覧船が市民や観光客に親しまれる。中州、汝矣島には国会などの重要施設や広大な公園がある。古くは蘭芝島や蚕室なども中州であったが、埋め立てや河の流れの変化により完全に陸続きとなっている。漢江以外では江北を流れる清渓川(チョンゲチョン)が知られる。日本統治時代から流域周辺には人々が集中し始め清渓川を含め流域の井戸水など水質悪化が問題となっていたのは当時の朝鮮総督府の水質試験所のデータからも明らかで、その当時から暗渠化の計画はあった。朝鮮戦争後の混乱期にバラックが川沿いに建設され、著しく水質が悪化したため暗渠とされ、後にはその上に清渓高架道路が建設された。高架道路の老朽化が問題となった2002年に、「高架撤去、清渓川再現」を掲げた李明博がソウル市長に当選、2005年10月に完工し、景観もさることながら、川を復元するという珍しい工事に加え、気温に良い影響を及ぼすなど世界的に注目されている。 ただし、以前の姿を復元するわけではなく、光化門交差点付近から漢江までの一部を近代的な親水公園のようにしたものである。水は主に漢江からの水を放流しており、一部は地下鉄から湧き出る水も利用している。
リトル東京
漢江の岸辺にある竜山区二村洞(イチョンドン)はソウル在住日本人、特に駐在員が数多く住む地域であり、ソウルのリトル東京とも呼ばれる。通常この地域は東部二村洞(トンブイチョンドン)と呼ぶ。韓国鉄道・地下鉄4号線二村駅が最寄駅。北には在韓アメリカ軍の龍山(ヨンサン)基地が広がり、ソウル中心部とは比較的孤立した地域で静かな高級団地が数多くある。もともと米軍基地が近かったことから二村洞付近には外国人居住者が多かったが、日本人の居住は日韓国交正常化以降、特に70年代に入り日本大使館員や商社駐在員などが住み始めた。外国人が居住することから不動産価格が高騰し、敷金が殆どない場合では同地域の団地の入居には最も安くても月家賃が200万ウォンをくだらない。日本の食材を売る日本人向けの各種商店はもちろん、居酒屋、銀行には日本人専用窓口があり、幼稚園には日本人クラスまである。(ただし日本人専用窓口は二村洞が初めてではなく、最も早くできたのは旧ソウル銀行=後にハナ銀行に合併=鍾路5街支店である。二村洞にあるものはこれをまねた。)
最近では、日本人学校のある開浦洞周辺などの江南地区や政府中央庁舎付近の再開発地区など日本人が居住する地域も分散化しつつある。

釜山広域市 韓民国南東部の都市。古くから交通の要衝として栄えた。釜山広域市は大韓民国第二の都市として、重要な役割を担い、また、大韓民国の主要都市の中で、もっとも日本に近い都市になっている。
歴史
古代は伽耶のエリアで、新羅に合併された時に居漆山郡になり、統一新羅時代の757年に良州(現在の梁山市)所属の東莱郡を設置、現在の市街地地域に東平県、機張郡に機張県が東莱郡の下に設けられているが、地域の中心は金海にあった。高麗時代の富山浦は蔚州の東莱県に所属する漁村であったが、対日防衛の要衝であり、李氏朝鮮時代には慶尚左道都万戸が置かれ、15世紀始めに浦所倭館が設置された。これ以降、対日貿易の拠点となり、江戸時代には対馬藩の草梁倭館が設置され、鎖国時代の日本で日本人が唯一、海外に居住できる場所となった。
1895年に慶尚道が廃止されて東莱府になったが、翌年に慶尚南道になり、近代の日本統治時代には日本内地との貿易港として発展し、1914年に釜山府(ふさんふ)が設置されて東莱郡と分離、同時に東莱郡は機張郡を統合した。1949年に釜山府は釜山市に改称、1950年に朝鮮戦争が勃発し、ソウルが陥落すると、釜山は1953年まで大韓民国の臨時首都となった。その後は1957年に出張所を区に昇格し、1963年に釜山直轄市に昇格、数回にわたる市域の拡張を重ねて1995年に釜山広域市に改称している。
長らく市庁は港に近い旧市街地の古い建物を使っていたが、1999年に蓮堤区に市庁の庁舎を建設して移転、裁判所等も蓮堤区に所在している。市庁跡地には高層ビルのロッテワールドが建設中で、2013年に完成する予定である。なお市の人口は近年まで増加の一途をたどり、一時400万人前後に達したが2000年以降徐々にドーナツ化現象によって減少傾向にあると言われる。

大邱広域市(テグこういきし)大韓民国南部の都市で、慶尚北道の道都。人口は約250万人で、ソウル、釜山、仁川に次いで韓国で4番目である。ただし、仁川はソウルのベッドタウンとしての性格も強いため、実質的には韓国で3番目の都市といえる。日本の横浜市(人口で2番目)と大阪市(実質的に2番目の都市)の関係と同じであるが、古都に近い大都市や大学が多い都市という点では京都に似ている。(但し大邱は古都ではない。)1997年5月に広島市と姉妹都市提携をしている。内陸の盆地に位置しているため、韓国内でもっとも暑い都市の一つといわれ、また冬の寒さもかなり厳しく、緯度は東京とさほど変わらないが、寒さは東北北部や長野県並みである。
行政
大邱は1392年から1896年まで慶尚道の道都であり、1896年に道制がしかれて以降、慶尚北道の道都である。1981年に直轄市に昇格し、1995年に広域市となった。1938年には115.65平方キロを面積としていたが、周辺地域との併合・分離を何度か行っており、広域市昇格時にほぼ現在の面積となっている。
略史
古代は新羅の蝟火郡達句火県で、統一新羅の景徳王在位期間の757年に寿昌郡大丘県に改称された。
高麗時代は寿城郡と呼ばれた。李氏朝鮮の時代より、大邱は慶尚道北部地域で最大の都市であり、慶尚道地域における行政上・経済上・文化上の中心都市であったが、現在ではその役割は国際貿易都市である釜山に受け継がれている。18世紀に大丘から現在の漢字の大邱に書き換えられている。日本統治時代の1914年に大邱府(たいきゅうふ)と達城郡は分離、独立後の1949年に大邱府は大邱市になっている。朝鮮戦争時、大邱のすぐ側を流れる洛東江(ナクトンガン)付近でもっとも激しい戦闘が行われたが、釜山とともに街の大部分は戦争中も韓国側が掌握し続けた。戦後、急激な発展をとげ、人口は10倍以上となった。1981年に大邱直轄市として慶尚北道から分離し、市域拡張を重ねて1995年に大邱広域市になり、慶尚北道の達城郡を合併している。
経済
大邱の主要産業は、繊維・金属・機械製造である。大邱周辺で生産されるリンゴの品質も東アジアでは著名である。1970年代から1990年代にかけて、ミス・コリアを多く輩出している。
観光
大邱でもっとも有名な公園はアプ山(アプサン、アプは「前」の意を示す固有語のため漢字はない)公園である。登山道の整備された山があり、寺刹、洛東江戦闘記念館などがある。ケーブルカーで展望台まで上ると八公山(パルゴンサン)を望むことができる。八公山はかつてから霊山としての歴史をもち、千年以上の歴史を持つと言われる把渓寺、桐華寺などのある仏教の山であり、日本の比叡山に似ている。達城(タルソン)公園は、1500年の歴史を持つともいわれる土城を中心としている大邱でもっとも古い公園の一つである。頭流(トゥリュ)公園は、スポーツ施設、レクレーション施設、文化施設なども数多く、大邱タワーも有名である。近郊の名所としては海印寺大蔵経板殿で知られる海印寺が挙げられる。近郊都市として、かつての新羅の首都であった慶州が挙げられており、この点では日本の京都と奈良の関係に似ている。

仁川広域市(インチョンこういきし)あるいは(じんせんこういきし)は、大韓民国西北部の都市。黄海に面した韓国を代表する港湾都市の一つである。人口は約260万人で、ソウル、釜山に次いで韓国で3番目である。仁川はソウルのベッドタウンとしての性格が強い。首都近郊の港湾都市という点で、また郊外地域が首都圏のベッドタウンに組み込まれている点や中華街を擁する点で、日本の横浜と似通った都市といえる。2001年に仁川国際空港が開港したことで韓国の空の玄関口となり、「韓国の横浜&羽田」という性格を持つこととなった。
概要
1883年に港が開かれたときには人口はわずか4700人余りであった。しかし漢江の河口に開かれた港はその利便性の高さから発展した。その当時は済物浦(チェムルポ)と呼ばれていた。2002年の日韓共催ワールドカップに合わせ建設が進められた仁川国際空港は自由貿易地域に指定されており、もう一つの自由貿易地域である釜山・鎮海自由貿易地域とともに金融・経済のハブとなるべく外資誘致を積極的に行っている。新空港近くの松島(ソンド)地区には韓国版シリコンバレーと呼ばれる情報産業団地(松島情報化新都市)も造成中である。仁川は近代都市としての顔を持つ一方、江華郡など広大な農村部も含み、市の面積の21%は水田であり、44%は森林である。ソウルとは地下鉄で結ばれており、共通の運賃で利用することが出来る。このため、仁川からソウルへの通勤客も多く、その近さゆえに1つの経済圏を形成している。また、プロ野球チームのSKワイバーンズ、プロサッカーチームの仁川ユナイテッドFCが本拠地としている。
歴史
仁川は先史時代から人が住み、仁川を始め永宗島・江華島で新石器時代及び青銅器時代の遺跡が発掘されている。 特に江華島の三郎城と塹城壇は古朝鮮とかかわる遺跡である。百済の始祖伝説によれば、仁川は沸流が建国した彌鄒忽の都だった。仁川はもともと百済に属したが、5世紀以降は高句麗や統一新羅の領土となり、買召忽と呼ばれていた。統一新羅の景徳王の時に名称が変更されて仁川は邵城県、富平は長堤郡、江華島は海口郡、甕津郡は瀑池郡に属した。高麗時代、仁川は王室と深い関係を結び、慶源郡、仁州、慶源府に昇格した。江華島は940年に県が設置された後、1232年にはモンゴル帝国の侵略に抵抗するため開京の都を移したところである。李氏朝鮮時代、邵城県は1413年に仁川郡と改称されて仁川という名前が初めて登場した。海岸の湊は済物浦と呼ばれる。近代開国期に仁川は丙寅の役・辛未洋擾などで外国艦隊と交戦し、日朝修好条規によって1883年開港したため西欧の文物が仁川港を通じて流入した。1882年には済物浦沖の米軍艦上で朝米修好通商条約が調印された。条約港として発展し、日本統治時代に仁川府(当時の読み方、じんせんふ)が設置され、1949年に仁川府は仁川市と改称した。 1950年9月、米軍は仁川上陸作戦を敢行し、朝鮮戦争の戦局を挽回した。1981年仁川市は仁川直轄市に昇格、1995年江華郡・甕津郡(大阜面は安山市に編入)及び金浦郡黔丹面が編入されて仁川広域市となった。

光州広域市(こうしゅうこういきし、クァンジュこういきし)は大韓民国の都市。朝鮮半島の南西部、全羅南道に八方を囲まれる形で位置する。光州事件に象徴される民主化の聖地として知られる。京畿道にも同音の地名が存在するが、こちらは広州市になる。
歴史
百済時代には武珍州、統一新羅時代には全国九州の一つである武州と呼ばれ、高麗時代以降光州となった。植民地時代の1931年に光州面が光州邑に昇格、さらに1935年に光州府に昇格した。独立後の1949年に光州市と改称され、1986年に光州直轄市として全羅南道から分離。1989年に全羅南道の松汀市と光山郡を合併して1991年に地方自治制実施、1995年光州広域市に改称した。1914年に首都京城とを結ぶ鉄道(湖南線)が敷設されたことに伴い綿織物生産、精米施設、醸造施設などの近代的な産業が勃興した。1967年には工業地区に指定され、特に自動車工業が発達した。ただし現時点では、地理的な条件等もあって他の広域市と比較するとやや立ち遅れている感は否めない。なお1929年には日本の植民地支配に抵抗する光州学生独立運動、1980年には軍事独裁政権に抵抗する光州事件が起こり、韓国史の舞台となった。

大田広域市(テジョンこういきし)は大韓民国の都市。忠清南道の道庁所在地(広域市自体は道に所属しない)。韓国で5番目の大都市である。5区と79行政洞よりなる。古来より儒城(ユソン)温泉が知られていたが、公州所属の農村地帯に過ぎなかった。ゆえにこの地域を「大きな田畑」を意味する固有語でハンバッ(한밭、Hanbat)と曖昧に指し示していた。後に植民地体制下の自治体統廃合で「大田」と漢字が当てられ、鉄道京釜線・湖南線などが開通して交通の要衝となり、急速に発展、都市として地理的概念が定着した。1993年には科学EXPOが開催され、市内にハイテク団地「大徳研究団地」を有するなど科学技術都市として知られる。また、韓国鉄道公社の本社所在地にもなっており、中部地域の中心都市という点や高速鉄道の運営会社の本社所在地では日本の名古屋に似ている。

蔚山広域市(ウルサンこういきし) は大韓民国南東部に位置する広域市。
地理
日本海に面し、釜山広域市から北へ70km離れている。韓国の広域市の中では一番面積が広い。
現代自動車のお膝元であり、自動車の生産高で大韓民国一位である。現代尾浦造船や現代重工業など現代グループの企業城下町でもある。また海岸沿いに韓国最大の石油コンビナートが広がり、工業都市の様相を示している。郊外の蔚州郡は山岳地帯で、1000メートル以上の高い山があり、海水浴場もある。
区の部分は工業都市、郡の部分は農村も存在する典型的な都市・農村の複合都市になっている。
歴史
古代は辰韓の領土で、新羅時代は屈阿火県と呼ばれ、統一新羅時代は河曲県と呼ばれていた。高麗時代は当初興礼や鶴城と呼ばれていたが、11世紀に蔚山の古称である蔚州に変更、李氏朝鮮時代の1413年に蔚山郡になっている。蔚山広域市中区塩浦洞に1426年から1509年まで塩浦倭館が設置され、中世の三浦倭館のひとつであった。蔚山旧市街から湾を隔てた南岸にあり、現代自動車工場敷地となっている。当時は蔚山旧市街に置かれた蔚山郡庁と慶尚左道兵馬節度使の管轄下にあった。1494年には約150人の日本人が住み、1509年の三浦の乱によって閉鎖された。文禄の役で、1593年、現在の市の南部の海岸近くに加藤清正により西生浦倭城が築かれた。慶長の役で、1597年に現在の市の中心部に蔚山倭城が浅野幸長らにより築かれる。築城まもなく、朝鮮・明連合軍がこの城を包囲した(蔚山城の戦い)。
17世紀以降は蔚山都護府になり、1895年に蔚山郡になっている。1910年からの日本統治時代には工業都市・捕鯨基地として繁栄し、1931年には蔚山面(村)が邑(町)に昇格し、1937年には東面(村)が方魚津邑(町)に昇格している。大韓民国成立後、1950年に勃発した朝鮮戦争の時、開戦から3ヵ月後の9月10日に北朝鮮軍が蔚山付近まで迫った。朝鮮戦争終結後も国内有数の工業都市として発展し、1962年に蔚山邑(町)と方魚津邑(町)が合併して蔚山市に昇格、1995年には蔚山郡を合併して1997年には蔚山広域市に昇格している。2002年に行われた日韓共催のFIFAワールドカップの開催地となり、ブラジル対トルコ戦(予選ラウンド、本戦も開催)などを開催した。
交通
日本統治時代には内地からの直行航空便があった(満州航空が運行)。大韓民国成立後は蔚山空港が設けられ、金浦国際空港との航空便(大韓航空、アシアナ航空)が1時間に1本ほどの割合で運行されており、済州国際空港との路線も1日1往復設けられている。ただし、日本からの航空便やフェリー、水中翼船の直行便が多数ある釜山から市外バス(日本の急行バスに相当)で1時間半ほどの距離なので、釜山経由で行くのが一般的であり、ソウルからも高速バスの本数が多い。韓国鉄道の東海南部線には蔚山駅があり、ソウルからのセマウル号が運行されているが、本数が少なく、釜山方面は朝晩のみの運行である。高速道路は京釜高速道路と蔚山高速道路が市内を通っている。なお、2010年開業予定のKTX第2期線の蔚山駅が蔚州郡内に設けられることになっている。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

チェダゼミナール 更新情報

チェダゼミナールのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング