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日本領土竹島コミュの朝鮮戦争と対馬、竹島年表

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事の発端は李承晩の領土的野心。
最初は対馬侵略を狙う、口実は「韓国固有の領土を取り返す」
それが朝鮮戦争を引き起こした原因ではなかろうか?
対馬侵略に失敗した李承晩、
今度は、サンフランシスコ講和条約の調印から発効までの間に行動を開始し、日本の警察力・防衛力の空白時期を狙い済ました様に竹島占領は行なわれている。
竹島に関連する韓国側の歴史観は、このときに作られたと推測できる。

エンコリよりコピペと補足
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&page=20&nid=2377580

1947年5月3日:日本国憲法施行

1948年4月3日:済州島四・三事件(南側の単独政府樹立に反対する、南朝鮮労働党の済州島党の武装蜂起)

1948年8月13日:大韓民国が建国し初代大統領に李承晩(イ・スンマン)就任
1948年9月9日:朝鮮民主主義人民共和国も成立。

−−引用−−
朝鮮戦争開戦の経緯

========

1948年10月:麗水・順天事件一時的な内戦状態。(南部への韓国軍移動)

1948年10月:済州島全域に戒厳令。軍事弾圧始まる。(南部への韓国軍移動)

1948年11月:李承晩大統領は国民に対して対馬返還宣言

1949年1月:李承晩大統領は日本と連合国(進駐軍)に対して対馬返還請求

1949年1月:北津戦役が終結。中国人民解放軍が北京を解放。
金日成に武力統一への大きな影響を与える。
1949年1月:李承晩は政府樹立直後の新年記者会見で日本に対馬島返還を要求。
1949年2月:韓国軍一斉に釜山に集結開始(対馬返還の後押しの為と推察)(南部への韓国軍移動)

 筆者談:北朝鮮というあきあらかな敵が存在するにも拘らず、内戦と日本への無意味な対抗心の為に、
     南部に軍事力を集中させてしまいましたね・・・
     (日本へは領土的野心と言っていいでしょう)

1949年3月:韓国軍は釜山で揚陸訓練開始。アメリカ陸軍第24軍は対馬上陸の為の演習と判断

 筆者談:プサンの演習を知ったマッカーサーは激怒。明らかに対馬を想定したこの演習は、
     日本を防衛していたマッカーサーへの裏切りと判断されました。
     軍事物資の停止、24軍の撤退へと繋がります。
     ちなみにこの事実、韓国では隠蔽されているようですね。

1949年5月:マッカーサー李政権への軍事物資援助を停止
1949年6月:アメリカ24軍本体が本国に撤退。
     韓国には国連監視団600名のみ在留。防衛上の直接的な後ろ盾を失う

1949年12月:北朝鮮全軍が5ヶ月にわたる冬季戦闘訓練に入る

1950年1月:金日成の要請にて中国軍朝鮮籍兵士の第二次移籍を承認。
移籍部隊は1万4千に達し,北の全兵力の1/3を占める。
1950年1月:米韓軍事援助相互協定が調印。韓国側は軍事支援強化を求めるがアメリカはこれに応ぜず。

1950年1月:米国務長官「西太平洋の防衛線は日本・琉球・フィリピンを結ぶライン上」と発言。
     朝鮮半島へ影響力放棄と北に誤認される。(アチソンライン)

1950年3月:金日成、スターリンに対し侵攻時の支援を要請。毛沢東の承諾を条件に金日成の要請を受諾。
(武器支援のみ)
1950年5月:金日成、中国を訪問。南侵問題について協議し、毛沢東の南北開戦を支持と支援を取付ける。
(人的支援も含む)

1950年5月:韓国の国会議員選挙で李承晩与党が大敗

 筆者談:北朝鮮が明らかに戦争準備を実施している中、韓国は産みの親であるアメリカに突き放されて行きます。
     原因は度重なる激しい内紛と、アメリカへの要求に辟易したのが原因でしょう。

     この時期に大きな朝鮮戦争開戦への原因が生まれます。中国、ソ連の強固な軍事支援を得た金日成、
     対して様々な我がままから、アメリカの後ろ盾を失った韓国。
     しかも軍配備は南方偏重のままです・・

     まるで北に「侵略」の決断を迫るかのような韓国の状況でした。

1950年6月10日:北朝鮮大機動演習を開始。全師団が南部国境地帯への移動を開始。
1950年6月11日:韓国陸軍本部、非常警戒令を発令。
1950年6月17日:韓国軍全軍部隊に国境地帯への移動命令。(実際には準備途中で開戦となってしまいました)

 筆者談:目前で大規模な演習が始まって、やっと韓国も現実にめざめたのでしょうか?
南方偏重の軍配備を改めようと準備を始めました。
残念ながら部隊が到着すれば直ぐに最大戦力で戦闘できるわけではありません。
     対馬なんかに色目を使わないで、塹壕や戦車止めの設営に尽力していれば、
緒戦の被害も減ったでしょう。

1950年6月22日:北朝鮮軍最高司令官金日成、全面的南進作戦命令を発する。
1950年6月24日:ソウルで陸軍会館の落成式開催。韓国陸軍本部、非常警戒令を解除。

 筆者談:金日成の南進命令が下った2日後、なんと陸軍のお役人は陸軍の建物の落成記念の日に、
     非常警戒令を解除しちゃいました。非常警戒令下では盛大に「宴会」ができないからでしょうか?
     この翌日、北の南進が開始されるわけです・・・・ 色々想像させられますね。

1950年6月25日:北朝鮮軍南進 朝鮮戦争へ

 筆者談:非常警戒令の取り下げで「休日」となった韓国軍に北は襲い掛かりました。 合掌・・
     南部偏重の軍配備の為、緒戦の防御線を維持できなかった事や、
アメリカが日本防衛重視に移行していた事実は見逃せませんね。

========
--引用ここまで--

1949年12月29日:サンフランシスコ講和条約の草案(Draft Treaty of Peace with Japan)を作成
その中で日本の領土に竹島を含む、とされた(ChapterII Territorial Clauses, Article 3)。
※以降の草案は日本領土を規定する方式から日本が放棄する領土を規定する方式に変更

1950年6月30日:やむなくアメリカ軍は釜山へ再上陸し南朝鮮を解放

1950年7月頃:韓国軍警が大田で政治犯1,800名を集団処刑

1950年夏頃:国民保導連盟事件(交戦とは直接関係ない無抵抗の韓国民衆(過去共産主義者だった人)30万人以上が韓国軍により虐殺されたという事件)

1950年8月10日:日本・警察予備隊発足

1951年、居昌(コチャン)事件
1951年、国民防衛軍事件

1951年7月から休戦会談

1951年7月19日:(外交文書)草案に対して、梁裕燦・韓国駐米大使より米国政府に要望書が出される。 (Wikiソース参照)

1951年8月2日:(外交文書)再度韓国大使より要望書が米国政府に提示される。

1951年8月10日:(外交文書)当時の米国国務次官補ディーン・ラスクより、当該書簡が米国政府の最終的な回答として韓国政府に提示される。
(Wikiソース参照)

1951年9月8日:サンフランシスコ講和条約&日米安保調印

1952年1月18日:韓国は突然竹島を含む領海の線引き(李承晩ライン)を一方的に宣言
 以後は日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぐ

1952年4月26日:日本・海上警備隊発足

1952年4月28日:サンフランシスコ平和条約 発効
 (日本は済州島・巨文島・欝陵島を放棄/竹島は当然放棄していない)

1952年10月15日:日本・保安庁設置

1953年1月12日:韓国政府は「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示

1953年2月4日:第一大邦丸が拿捕され漁労長が射殺される。
 拿捕された日本船の数328隻・抑留者数3929人・死傷者数44人
 損害額は当時の金額で90億3100万円

1953年6月27日:日本国海上保安庁と島根県が竹島の調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てる。難破後、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させる。

1953年7月12日:竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲する。以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。

1953年7月27日:朝鮮戦争停戦(韓国大統領は停戦内容を不服として調印式に出席せず)

1953年10月15日:日本人が立てた杭を抜き標石を設置、標石には1952年8月15日と記載されている。

1953年10月23日:海上保安庁の巡視船2隻が竹島に近付いて韓国の領土標識を撤去し、日本の領土表示を設置

1954年1月18日:韓国が領土標識を設置

1954年6月11日:韓国・海岸警備隊を竹島に派遣

1954年7月1日:日本・自衛隊発足

1954年8月10日:韓国・竹島に無人灯台を点灯

1954年8月15日:ヴァン・フリート特命報告書を作成。非公式に竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を韓国に伝達した等の事を大統領に報告。
(Wikiソース参照)

1954年9月2日:韓国政府が竹島の武力占拠を決定

1954年9月25日:日本政府竹島問題の国際司法裁判所への付託を韓国に提議。
1954年10月28日:韓国政府が日本政府の提議を拒否。

1954年11月30日:韓国側が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃をくわえる。

1954年、李承晩・四捨五入改憲

1956年、野党副大統領、張勉(チャンミョン)の襲撃

1956年4月:韓国警察鬱陵警察署警官8名が島に常駐。

1958年、政敵である進歩党党首曹奉岩(チョボンアム)のスパイ容疑での処刑

1965年6月22日:日韓基本条約調印、竹島問題は紛争処理事項とされる

1977年2月5日:福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と発言。

1982年11月16日:韓国、竹島を天然保護区域に指定(独島天然保護区域)。

1996年2月9日:竹島の接岸施設に対し、池田行彦外相が抗議
1997年11月6日:韓国、500トン級船舶が利用できる接岸施設完工。

1998年12月:韓国、有人灯台設置。日本政府は抗議。

2004年1月:韓国、竹島を図柄にした切手を発行。日本政府は抗議。

2004年2月17日:日本郵政公社、竹島の写真付き切手の発行を拒否。

2004年3月1日:「我が国最東端の領土」と韓国側がテレビ中継を実施。

2005年3月16日:島根県議会が、竹島の日(2月22日)条例を可決。

2005年6月9日 : 慶尚北道議会が10月を独島の月とし、日本との交流を制限する条例を制定。

2006年4月6日: ヨルリン・ウリ党の金元雄(キム・ウォヌン)議員がラジオ放送にて国際法上で領土紛争地域化する戦略を発表。

Wikiソースの資料
1951年7月19日付け米国草案(サンフランシスコ平和条約)に対する韓国側意見書
http://ja.wikisource.org/wiki/FRUS

ラスク書簡の訳文(韓国側意見への回答)
http://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9B%B8%E7%B0%A1

機密文書ヴァン・フリート特命報告書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E7%89%B9%E5%91%BD%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8

コメント(1)

以前、対馬の不動産屋がウハウハで朝鮮人に物件を売っているニュースを見ましたが、「これが売国奴か。」とあらためて認識しました。
すっごくわかりやすい売国行為だと思いませんか?

こうして、竹島、対馬は朝鮮に。
尖閣諸島とその周辺海域は支南に。
北方領土はロシアに。
そのうちどこかの国が沖縄は・・・。
いや、九州は・・・。
いやいや四国は・・・。
・・・・・・。



アブねー!!!!!

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