>90年6月6日、当時はDISCO色の強かった株式会社 三倶が全総力を上げENDMAXをOPEN >プロデューサーで、音楽制作部の部長であった、DJ Dr小山さんが私にOPENは物凄いDJをNYのプロダクションYWAから、連れて来る。その様に聞いていたもののまさか、あの伝説PARADISE GARAGEでPLAYしていたLARRY LEVANが本当に来るとは夢にも思わなかった。 >友松は、ベンツの運転頼むぞ!と、軽く流され、引き受けたのがきっかけす。テイクケアって一人で、やる物じゃないだろうと、疑問に思いながら、実は、わくわくしていた。 >成田空港で降り立った一向の数にまず、驚き、その中に、HISAさんもいたようなき気がします。 >全日程で、1週間あまり、無事にこなし、最後には、重大な勤めを果たし、ほっとしていました。Larryとも、すっかり打ち解け、彼が日本にてPLAYした4回の内、ENDMAX自身が呼んだのは2回。それでも、私は、常に4回とも彼に、ホテルに呼ばれ、すっかり、友人となっていました。最後の、ハーモニーツアーの札幌へ行く前日に、ホテルに呼び出され、まるで、これが、最後かのように私の為に、DATからイコライジングしなおし、カセットテープにメッセージを書いてわたしてくれました。 To my friend in Japan.Thank you for every thing!Listen and Enjoy!!!!musicmusicmusic、To Tom'Thank you.DANCING is the key!Thank you.LARRY your friend.スペルは、あえて、そのまま書きました。まちがっていても。NY語としてとらえています >これが、最後の、メッセージでした。 >今でも、そのTAPEは、我が家にかざっています。何故か、上海人である妻もそれが、一番の高価なもであると、わかっているみたいです。 >Larryには、本当にお世話になりました。私がNYへ、行った時も当時のCLUBトラックス、LOFT、サウンドファクトリーへ引き回され、どこへいってもVIPのLarryといると、自分までVIPに成った気がしたものです。 >彼が亡くなった日、92年11月8日は、1日中、落ち込んでいました。DJ NORIさんが名古屋の自宅にMICKさんと田中りつこさんと来てくれた時。Larryが亡くなったのは。我々が短時間に2度も日本に呼んでしまった事が原因にあるともいっていました。 >彼のたぐいまれな狂気ともいえるPLAYは、MIXの綺麗さに重点を置かず常に瞬時に、フロアーの空気と、空間を読み取り、MIXする為に下を向く事無く、フロアーの空気の変化に常にむきあっていました。まるで、ターンテーブルを自由自在に操り、マジシャンの様でした。 >きっと、東京が気に入り、もし、生きていたならば、長いスパンで、滞在していた可能性は否定できません。 >私事ですが、耳の内耳障害で現在苦しんでいます。聞こえません。大きすぎる音、逆に、小さすぎる音駄目です。でも、Larryは心で音を拾え。体で音圧を体験しろ。 >耳鼻科で。酷い検査結果の帰りも、最近は落ち込みも少なく、立ち上がり、お気に入りのレーベルRENAISSACE DJエルナン、富家君、LarryのCDを僕成りの聞こえる解離レベルで楽しんでいます。 >最後に、Larryは、差別を嫌います。わがままでしたが、優しい神様みたいな人でした。彼が、2度目にクリスマスにENDMAXに来てくれた時が、一番、思い出深い出来事がありました。綺麗な花屋が、目黒にあって、そこの、おばあさんと2時間もはなしていたのです。時間もないのに。また、相手も英語を話す事が出来ないのにですよ。本当に、彼の凄さを分かったのは、亡くなった後でした。出直日本に来ると聞いた瞬間、少しだけいやな気分にもなったぐらい、わがままな、女王様でした(笑い) >私が、CLUB YELLOWに転職したのち、数多くのNY DJ達が、一同に口にそろえて言われました。とくに、今に輝くDJ ルイは{俺でさえ、PARADISE GARAGEのDJブースには、入れなっかたのに、何でお前が写真、一緒に写っているんだ}と。今でこそ、だれでもDJを語り、飯を食ってますが、当時(日本も一緒)DJブースは神聖な場所であり、だれでも、DJにはなれず、選ばれた者だけがそこで輝ける職業でした。いい意味で、裾は広がりましたが?