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労働組合運動・労働問題関連コミュの加藤寛・慶応大学教授(三木武夫首相のブレーン)の証言。録音テープ有り。

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加藤寛・慶応大学教授(三木武夫首相のブレーン)の証言。録音テープ有り。

日本労働運動史、労働争議史研究は、労働者側からの情報ばかりで書かれてきた。

階級闘争は労働者や左翼の「一人相撲」ではない。相手(敵)=資本家、公安警察、軍隊(自衛隊)があっての闘争である。

竹田誠『王子製紙争議』は会社、警察、自衛隊の「極秘文書」を使って書かれた日本史上、最初の階級闘争研究である。

竹田誠は、この著作によって日本の労働運動、労働争議研究の世界の頂点になった。

竹田誠の実質的指導教官=山本潔・東京大学教授は「『王子製紙争議』は君が死んだ後も残る仕事であり、従来のどの労働争議研究よりも優れた業績だ」と手紙に書いてきた。

加藤寛の証言によれば1970年代の自民党の各派閥の領袖(田中角栄、福田丈夫、三木武夫、中曽根康弘、角栄の1の子分である後藤田正晴・元警察庁長官)が、

「このまま革マル派を放置すれば、革マル派が官公労を乗っ取り、革命が成功する可能性が60%〜80%もあると考えていた」と証言した。

この証言は録音してあり、その録音テープは多数のJR関係者、革マル派関係者が所有している。

以下は加藤の証言である。

「社会党、共産党、過激派など恐れていなかった。私達自民党の最高幹部は社共連立政権が出来てもイギリス労働党政権よりも、はるかに保守的な政権が出来ると確信していた」

「過激派の火炎ビン、爆弾テロも恐れていなかった。それらは警察によって充分、取り締まる事が出来るものだからである」

「日本の労働運動は官公労中心の運動である。民間の組合が御用組合になっていても、国鉄、郵政を中心とする官公労を革マル派が支配すれば革命が成功してしまう」

「自民党最高幹部が恐れていたのは、官公労の中に秘密裏にアメーバーのように細胞分裂を繰り返しながら浸透していく革マル派だけだった」

道理で、中核派、解放派の仕業(内ゲバ)であるかのように装った公安警察、自衛隊による革マル派系の労働者、学生に対する大量殺人が70年代、80年代に実行されたわけだ(竹田)。

加藤寛「三木武夫首相は革マル派と仲良くしようと言っていた。革マル派を宥和懐柔して体制内的組織に変質させた上で革マル派を味方にして革命を防ぐというのが三木首相の考えだった」

「それに対して弾圧によって革マル派を壊滅させるべきだと提唱したのが田中角栄・元首相、その子分で公安警察の大ボス・後藤田正晴副総理(元警察庁長官)であった」

1970年代の自民党は三つの保守政党が合併して出来たものであった。

最大派閥が旧自由党の佐藤栄作首相・田中角栄首相・後藤田正晴副総理の派閥である。

第二の派閥が旧民主党の鳩山一郎首相(現在の民主党の鳩山元首相の祖父)・福田丈夫首相の派閥である。

大三の派閥が旧国民協同党書記長=三木武夫首相の派閥である。

佐藤栄作は国鉄官僚であり、アメリカ軍情報部の国鉄三大謀略(下山事件、三鷹事件、松川事件)を活用して国鉄労働者の大量解雇を実施し、その功績を吉田茂首相に認められて政治家になった人間である。

佐藤栄作首相が実施した重要な政策は「沖縄返還」と「国鉄マル生」である。

佐藤栄作は「沖縄返還」を国民的祝賀としようとしたが、沖縄労働運動に強力な影響力を持つ革マル派による「核基地付き自由使用返還反対」「沖縄返還による本土の核武装化反対」の闘争に悩まされた。

1972年5月15日の沖縄返還の日は「祖国復帰」をバラ色に描いてきた祖国復帰協議会三党(社会党、共産党、社会大衆党)に対する弾劾集会の日となった。

「国鉄マル生」は国鉄の革マル派、動労、国労を破壊するための攻撃だったが、革マル派、動労、国労は、1971年、佐藤栄作に全面勝利した。

佐藤栄作の恨みを晴らさんと佐藤栄作の1の子分=田中角栄首相は国鉄労働者に対して大量処分、大量逮捕、大量起訴の攻撃を行ったが、動労、国労は、弾圧を粉砕し、動労は1973年、日本史上、初めてのゼネストを牽引した。

そして、翌年1974年の動労内革マル派が牽引したゼネストには650万人が参加した。

敗戦直後1947年2月1日に予定され中止された「2.1ゼネスト」に参加する予定だった労働者は210万人に過ぎなかった。

革マル派主導のゼネストには、その3倍以上の労働者が参加した。

1975年「スト権奪還ストライキ」では9日間、日本全土の国鉄が止まった。

「田中金脈問題」「ロッキード事件」で自由党系の田中角栄を失脚させ、東京地検特捜部に逮捕させて拘置所に投獄した元国民協同党の三木首相、元民主党の福田首相は、「革マル派と仲良くするための政策を実行し始めた」(加藤寛の証言)。

福田丈夫首相は、スト権奪還ストライキの後、田中角栄が解雇、逮捕、起訴させた革マル派活動家を中心とする62名の動労、国労の組合員を復職させた。

この福田首相の措置は、田中角栄・後藤田正晴の子分である公安警察官僚の面子を「丸つぶれ」にした。

加藤寛は証言した。

1978年3月26日「過激派に成田空港管制塔を占拠・破壊させたのは後藤田正晴である」

「この結果、成田空港の開港が二カ月も遅れ、福田丈夫首相の国際的威信に傷がついた」

管制塔破壊の実行犯は、第4インター、ブント戦旗・日向派、プロ青同という泡沫セクトの赤ヘル集団であったが、直接の司令官は三井警察庁長官であった。

この事件は、田中角栄を逮捕させた福田首相に対する田中派警察官僚による復讐でもあった。


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