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日蓮原理主義を破折する会コミュの白法隠没の邪義を破釈する

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 これは、アメリカ、カリフォルニア州のある街であった事であるが、これについて説明と考察をする。
 
【5年前、地元に住むダン・ステーブンソンさんという男性が、60cmほどの小さな仏像を買い、自宅前にある道路のカーブに置いてみたという。

すると、まず初めにポイ捨てが減り、不思議と掃除をする人まで現れた。更に、壁からは落書きが消えたうえに、麻薬を売る人間や売春婦はどこかへ去っていったというのだ。

今となっては、地元のアジア系(ベトナム)の仏教徒がお供え物やお花で飾り付けたおかげで、小さなお寺と化している。

また実際に、警察が発表した統計にもその仏像効果は表れていた。

2012年から2014年にかけて、窃盗事件は3件に、麻薬や売春の逮捕者は0人になり、総合して犯罪件数が82%も減っていたという。

仏像を設置したスティーブンソンさんは白人であり、仏教徒でもない。また、地元住民にも仏教を信仰する人は少なかった。

今となっては、祠は地域住民の象徴と化している。
ここに住む人々はは仏教徒ではないにも関わらず、この祠の前に集まっておしゃべりをしたり、犬の散歩を兼ねてお参りをしていく。
ここは人々の憩いの場になり、とても素敵になった。

気まぐれで置いた仏像には、宗教や人種を越えて自然と人が集まってきていた。

もしかしたら、仏像には悪い心をよけ、良いものを引き寄せるパワーのようなものがあるのかもしれない。】

という事だが、良く考えてみよう。

 アメリカ人が仏像を設置した途端、非行が減り、アジア系(ベトナム)の人々が祭祀を始め、次第に周りに伝播して、街の犯罪率が激減したという事だが、

 日蓮さんの論法では、末法では像法時代の仏法は役に立たず、かえって、仏像には悪鬼鬼神の類いが宿り、仏像は破棄するか、拝んではならない。との主張だったはずであるが、
 この記事が本当であるならば、仏像を拝んで、祭祀するだけで、犯罪率が激減している。アジア系仏教だから、日蓮さんが糞扱いした上座部仏教であろう。

本来ならば、僧侶による開眼供養で、入魂するのがベストなのだろうが、それでも、祭祀するだけで、荒れた街がこう変わるとは
(゚o゚)/!!。

それが、本当の功徳とやらかも知れない。
 
 日本でもゴミ捨て場に鳥居を設置するだけで、不法投棄が激減するという話を聞いたことがある。

日蓮さんが言う、
【末法になったら、神社、仏閣に正神・神仏が去って、代わりに、悪鬼鬼神・魑魅魍魎の類いが住む】
と言う屁理屈は、仏教の歴史や仏教学(日蓮原理主義以外)からみても、インチキ・デタラメであるが、

【日蓮さんが生誕して立宗してから、神社仏閣から神仏・菩薩・正神等が去って、代わりに悪鬼鬼神・魑魅魍魎が住みつく】と言う屁理屈は、普通に考えてみて、絶対あり得ないと、歴史を学んだ者ならばわかるはずである!?。

 日蓮原理主義者は、日蓮末法仏論や日蓮教学によって、あたかも実際にそれが正しいと思い込んでいるが、日蓮さんは像法時代の元天台宗僧侶。
末法仏でも何でも無く、日蓮教学は良く分からない論理で一見正しく思えてくるが、五時経判とか日蓮教学を裏づける根拠は全てデタラメ・・・。

 実際にそれらが論破されると、ただの難しい言葉を使った目眩まし、屁理屈と良く気が付くはずである。

 何より日蓮本仏論は後世の創作であり経典にも書かれておらず、ただの凡人である日蓮(自称菩薩)がこの世に出現するだけで、神社仏閣の神仏が去って悪鬼鬼神が代わりに宿ると言う理屈は、あまりにもぶっ飛んだトンデモ理論である。絶対にあり得ないことである。
 もしかしたら、可能性として考えられることには、既存の神社仏閣の神仏を悪鬼鬼神として破棄させて、他の神仏なり霊体等をこっそり新たに神仏としてすり替えて祭祀させているのでは?と思わせ無くは無い理論ではあるが・・・。
日蓮さんの御書から考察してみると・・・、

【木絵二像開眼之事

仏には三十二相がある。すべて色法[物質的存在]である。最も下の千輻輪より終りの無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なので書いたり作ったりできる。梵音声の一相だけは不可見無対色なので書くことも作ることもできない。
仏滅後は木と画の二像がある。これは三十一相であり梵音声は欠けている。故に仏ではない。また心法も欠けている。生身の仏と木と画の二像を比較するならばその差は天地雲泥である。ではどうして涅槃の後分には「生身の仏と滅後の木画の二像の功徳は等しい」などと説かれているのか。また大瓔珞経には「木と画の二像は生身の仏には劣る」と説いているのか。
木と画の二像の仏の前に経を置くとき、三十二相が具足する。ただし心法がなければ三十二相を具えるといっても、必ずしも仏ではない。人界・天界にも三十二相あるからである。木と絵の三十一相の前に五戒経を置けばこの仏は転輪聖王と等しくなる。十善論という書を置けば帝釈天と等しくなる。出欲論という書を置けば大梵天王と等しくなる。しかし全く仏ではない。
また木と絵の二像の前に阿含経を置けば声聞と等しくなる。方等や般若のさまざまな会座で説かれた共般若を置けば縁覚と等しくなる。華厳・方等・般若の別・円の経を置けば菩薩と等しくなる。しかし全く仏ではない。
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼尊・大日如来の印真言は、名は仏眼・大日といっても、その義は仏眼・大日ではない。例えば、仏といっても華厳経は円仏ではない。名にはよらないのである。
三十一相の仏の前に法華経をご安置すれば必ず純円の仏となる。故に普賢経に法華経の仏を説いてこうある。
「仏の三種の身は方等より生ず」
この方等は方等部の方等ではない。法華をさして方等という。
またこうある。
「この大乗経はすなわち諸仏の眼である。諸仏はこれによって五眼を具えることを得る」
法華経の文字は仏の梵音声という不可見無対色を可見有対色の形にあらわしたので、顕と形の二色となった。消滅した梵音声がかえって形をあらわして文字となって衆生を利益するのである。
人が声を出すには二つある。一つには自身は思っていないけれども、人をたぶらかそうとして声を出す。これは随他意の声である。(二つには)自身の思いを声にあらわすことがある。したがって意が声とあらわれる。意は心法・声は色法であり、心より色をあらわす。また声を聞いて心を知る。色法が心法をあらわすのである。色心不二であるがゆえに二つあらわれる。仏の御意があらわれて法華の文字となったのである。文字は変じてまた仏の御意となる。したがって法華経を読まれる人は文字と思ってはならない。すなわち仏の御意なのである。
故に天台大師の釈にこうある。
「請を受けて説く時はただこれは教の意を説く。教の意とはこれは仏意である。仏意はすなわち仏智である。仏智はいたって深い。このゆえに三止四請する。(法華経の説法には)艱難がある。余経と比べると余経は容易である」
この釈の中で仏意というのは色法である経文をさして心法であるという釈である。
法華経を心法と定めて三十一相の木と絵の像に刻印すれば、木と絵の二像の全体は生身の仏となる。草木成仏というのはこのことである。
故に天台大師は「一色一香無非中道(形あるものも香りあるものも妙法でないものはない)」といわれ、妙楽大師はこれを受けて釈に「ところがまたともに色香中道を許しても無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」といわれた。
華厳宗の澄観が天台大師の一念三千を盗んで華厳経に加え、「法華・華厳ともに一念三千である。ただし華厳は頓頓である。先に説かれてからである。法華は漸頓である。後で説いたからである。華厳は根本である。先の説法だからである。法華は枝葉等である」などといって我が理を得たりと思っている。その意は山のようである。しかしながら一念三千の肝心である草木成仏を知らない事を妙楽大師に笑われている。
今の天台の学者等は、我こそは一念三千を得たりと思っている。しかし法華経を華厳経と同じあるいは大日経と同じといっている。その義を論ずれば澄観の見解を出ず、善無畏・不空と同じである。結論をいえば、今の木と絵の二像を真言師が供養するならば実仏ではなく権仏なのである。さらに権仏でもなく形は仏に似ているが意はもとの非情の草木である。またもとの非情の草木でもなく魔であり鬼である。真言師の邪義が印や真言と成って木と絵の二像の意となってしまうからである。例えば人の思いが変じて石となることがある。倶留外道と黄夫石のようにである。
★法華経を心得た人が木と絵の二像を開眼供養しなければ、家に主人がいなく盗人が入り、人が死んだときにその身に鬼神が入るのである。
今真言をもって日本の仏を供養すれば、鬼が入って人の命を奪う。鬼を奪命者という。魔が入って功徳を奪う。魔を奪功徳者という。鬼を崇めるため今生では国を滅ぼす。魔を尊重かるため後生には無間地獄に堕ちる。
人が死ねば魂は去り、その身に鬼神が入れ替って子孫を亡ぼす。餓鬼というのは自分を喰らうというがこのことである。
智者がいて法華経を讃歎して死骨の魂とするとき、死人の身は人身・心は法身となる。生身得忍という法門がこれである。
華厳・方等・般若の円を悟った智者は死人の骨を生身得忍とする。涅槃経に「身は人身であっても心は仏心と同じである」というのはこれである。
生身得忍の現証は純陀である。法華経を悟れる智者が死骨を供養すれば、生身即法身となる。これを即身という。去っていった魂を取り返して死骨に入れてその魂を変えて仏意とする。成仏とはこれである。
即身の二字は色法であり、成仏の二字は心法である。死人の色心を変えて無始の妙境・妙智とする。これがすなわち即身成仏である。
故に法華経にこうある。
「所謂諸法の如是相は死人の身、如是性は同じく心、如是体は同く色心等」とある。
またこうある。
「深く罪と福の相に通達してあまねく十方を照らされる。微妙で浄らかな法身は相を具えること三十二である」
上の二句は生身得忍・下の二句は即身成仏を示している。即身成仏の手本は竜女である。生身得忍の手本は純陀である。】

以上、木絵二像開眼之事という文面の中に、

法華経を心得た人が木と絵の二像を開眼供養しなければ、家に主人がいなく盗人が入り、人が死んだときにその身に鬼神が入るのである。 

との文言が出てくるが、
逆に返すならば、日蓮原理主義的仏法こそが上手い事屁理屈こねて、既存の仏門や諸作法等を破棄させて、表向きは法華経ではあるが、実態は従来の神仏を礼拝させずに敬遠させて、正体は定かでは無いが、他の神仏なり霊体に帰依させているのではないか?という疑惑が浮上して来るのだが・・・・・。

如何せん、霊能者か阿闍梨、仏教に熟知した者で無いと判別しようが無い。 
 日蓮原理主義者は日蓮宗から始めて、日蓮原理主義以外の仏教を学習し、邪見を改めるべきである。

コメント(8)

木絵二像開眼之事の内容について

【結論をいえば、今の木と絵の二像を真言師が供養するならば実仏ではなく権仏なのである。さらに権仏でもなく形は仏に似ているが意はもとの非情の草木である。またもとの非情の草木でもなく魔であり鬼である。真言師の邪義が印や真言と成って木と絵の二像の意となってしまうからである。例えば人の思いが変じて石となることがある。倶留外道と黄夫石のようにである。
 法華経を心得た人が木と絵の二像を開眼供養しなければ、家に主人がいなく盗人が入り、人が死んだときにその身に鬼神が入るのである。
今真言をもって日本の仏を供養すれば、鬼が入って人の命を奪う。鬼を奪命者という。魔が入って功徳を奪う。魔を奪功徳者という。鬼を崇めるため今生では国を滅ぼす。魔を尊重かるため後生には無間地獄に堕ちる。
人が死ねば魂は去り、その身に鬼神が入れ替って子孫を亡ぼす。餓鬼というのは自分を喰らうというがこのことである。】

という記載があって、一見もっともらしい理屈ではありますが、法華経の歴史を紐解くならば、鳩摩羅什によって中国に法華経が伝来した際、本来のインド版法華経から印と真言を省略し、一念三千の理屈を新たに付け加えた事から推測すると、真言で開眼供養をすると本尊に魔物や悪鬼鬼神の類いが入るという理屈には、元々法華経に印と真言が付随していた事から矛盾が生じる訳であって、日蓮上人は勘違い、早とちりをした可能性が出てきます。
正確には、天台宗で創作された一念三千の理論の根拠となる十如是は、鳩摩羅什が法華経を漢訳した際に、意訳して付随させたものであって、本来の法華経には無いものです。
 また、法華経に陀羅尼が付随していて、インド版法華経には印と真言が付いていたことから推測するに、法華経の修法は真言をもってして開眼供養を行い、神仏を本尊に降ろすのが正当な作法であると、論理的に推測されます。
 
 
 題目の根幹である妙法蓮華経は、鳩摩羅什が意訳によって創作したものであります。
 一方、真言陀羅尼は神仏の法味となるものであり、仏典に記載された神呪であります。
 鳩摩羅什の造語である妙法蓮華経は、何ら正統性を持たず、チンケなものであることが推測されます。
 日蓮上人が糞扱いしている念仏ですら、阿弥陀如来(元【法蔵菩薩】)の誓願により創作されたもので正統性がありますが、題目は鳩摩羅什の造語に帰依(南無)しているという意味であるので、何ら正統性は無いものと推測されます。
 鳩摩羅什が意訳して翻訳した法華経にも、本来は印と真言が付随していたことから、真の法華経は真言陀羅尼をもってして開眼供養し、神仏を降ろすのが正統な作法であったと推測されるわけですが…、
 
 そうならば、日蓮上人の言う題目等をもってしての日蓮流作法での開眼供養には、明らかに他の神仏を降ろしているのではないかと考察されるのですが…、

 それがいったい何の神仏でどんなものであるのか疑問が生じます。

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