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三輪明神コミュの大神神社「摂社末社所管社(雑社)」

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 この大神神社(おおみわじんじゃ)境内には日本最古の道として有名な南北に通る道『山の辺(へ)の道』が桜井市金屋の海石榴市から天理市石上神宮、更に奈良へと北上する延長約26kmの道で三輪から天理市石上神宮迄の道のり15kmを旅します。山の辺(へ)の道、周辺の名所も紹介します。周囲を小高い山に囲まれた大和盆地で東南にある三輪山のふもとから東北部の若草山に通じる道で大和盆地の東端を山々の裾を縫うように三輪から奈良へ通じる道。また、この道のもう一つの魅力は『記紀』や『万葉集』にたびたび登場する地名や旧跡が次から次へとあらわれ、訪れる人を神話や古代ロマンの世界へいざなってくれる道です。取り巻く自然との営みがつくりあげた美しさがあり、鳥の声や山の音を聞き四季の草花の合間を歩きながら見えてくる遠く二上山・大和三山の眺望も美しいところです。

 現在、山の辺(へ)の道、その起点は桜井市金屋の海石榴市です。この市は政治の中心が大和盆地の南部にあった頃に栄えた場所です。大和平野には南北にまっすぐに走る官道として上ツ道・中ツ道・下ツ道の三道が七世紀初めに造られました。山の辺(へ)の道は、これらの道より古く上ツ道のさらに東に位置し村と村を結ぶ生活道です。歌垣で有名な海石榴市から三輪大神神社(おおみわじんじゃ)境内を通り、景行陵、崇神陵を経て石上神宮、更に奈良へと北上する道で古代の面影を残しています。今も万葉人の息づかいを伝えているところです。海石榴市から石上神宮までの道は古社寺や古墳、万葉歌碑をはじめ多彩な伝承の舞台が展開し、知らぬ間に古代神話の世界に誘ってくれるでしょう。『古事記』に山の辺の道の勾の岡の上(ほとり)に崇神天皇陵、山の辺(へ)の道の上に景行天皇陵があると記されます。

摂社末社携帯端末用地図↓
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摂社末社PC修正用地図↓
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1oQ01DSFiztQjAod_l7LwrHwwBlE&usp=sharing

大神神社【別宮・摂社・末社・雑社】
【別宮】村屋坐彌冨津比賣神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)
【境内社摂社】村屋神社(むらやじんじゃ)
【境内社摂社】服部神社(はっとりじんじゃ)
【境内社末社】久須須美神社・恵比須神社(くすすみじんじゃ・えびすじんじゃ)
【境内社末社】市杵嶋姫神社・物部神社(いちきしまひめじんじゃ・もののべじんじゃ)

【摂社】狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわのあらみたま)
【摂社】檜原神社(ひばらじんじゃ)延喜式内社
【摂社】高宮神社(こうのみや)
【摂社】磐座神社(いわくらじんじゃ)
【摂社】活日神社(いくひじんじゃ)
【摂社】玉列神社(たまつらじんじゃ)延喜式内社・玉列神社境外末社摂社「素盞鳴神社」
【摂社】神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)延喜式内社
【摂社】綱越神社(つなこしじんじゃ)延喜式内社
【摂社】神御前神社(かみごぜんじんじゃ)
【摂社】若宮社(わかみやしゃ)・大直禰子神社
【摂社】率川坐大神御子神社(いさがわにいますおおみわのみこじんじゃ)延喜式内社
【摂社】率川阿波神社(いさかはあはのじんじゃ)延喜式内社

【末社】御炊社(みかしぎしゃ)
【末社】祓戸神社(はらえどじんじゃ)
【末社】神宝神社(かむだからじんじゃ)
【末社】市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)
【末社】天皇社(てんのうしゃ)
【末社】琴平社(ことひらしゃ)
【末社】貴船神社(きふねじんじゃ)
【末社】八坂神社(やさかじんじゃ)
【末社】事比良神社(ことひらしゃ)
【末社】金拆神社(がなさきじんじゃ)
【末社】天宮社(てんぐうしゃ)
【末社】神室神社(かむろじんじゃ)
【末社】大峰社(おおみねしゃ)
【末社】玉列祓戸神社(はらえどじんじゃ)
【末社】金山彦神社(かなやまひこじんじゃ)
【末社】猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)
【末社】愛宕社(あたごしゃ)
【末社】富士神社(ふじじんじゃ)・厳嶋神社(ふじいつくしまじんじゃ)
【末社】大行事社(だいぎょうじしゃ)
【末社】春日社(かすがしゃ)
【末社】久延彦社(くえひこじんじゃ)
【末社】三輪成願稲荷神社(みわせいがんいなりじんじゃ)
【末社】春日神社(かすがじんじゃ)・住吉神社(すみよしじんじゃ)
【末社】豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)
【末社】事比良神社(ことひらじんじゃ)

所管社は摂社・末社に属する社として同じ境内に鎮座する社。
【所管社】御誕生所社(おたんじょうしょしゃ)
【所管社】大峰社(おおみねしゃ)
【所管社】賃長社(はにながしゃ)
【所管社】金比羅社(こんぴらしゃ)
【所管社】稲荷社(いなりしゃ)
【玉列境内】誕生石(たんじょういし)
【大神神社境内】夫婦岩(みょうといわ)
【若宮境内】御饌石(みけいし)

神社では「幸魂 奇魂 守給 幸給(さきみたま くしみたま まもりたまひ さきはへたまへ)」 三度心のなかで唱えて下さい。魂には二つの種類があり一つは幸魂で幸福の魂、もう一つが奇魂で奇跡の魂。簡単に言うとHAPPYでLUCKYにしてくださいと言うことです。

コメント(34)

磐座信仰『素盞鳴神社』・・
奈良県内の大きな神社や寺院、多くの宗派・教派では新型コロナウイルスに罹患された方々のご快復と早期の感染拡大の終息を願うご祈祷が行われています。この神社は朝倉駅近くに鎮座しており、久しぶりに素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)へお詣りしました。この神社は近鉄朝倉駅から東に数分の所に鎮座しており、三輪の明神(大神神社)の摂社・玉列神社の境外摂社です。この神社は暴れ者で有名な神「素盞鳴命」を祀られる社です。神社拝殿の奧には、小さな社が祀られてますが、その社を守るように巨大な磐座が鎮座します。この磐座をご神体とする自然崇拝ということから、かなり歴史の古い神社だと思います。本社の玉列神社境内に、この素盞嗚神社の遙拝所があることから、重要視される境外摂社です。また疫病退散の「蘇民将来」伝説をもつ神でもあります。
日本一の『大鳥居』(地図に登録済)
大神神社と言えば日本一の大鳥居、昭和59年10月13日の昭和天皇ご親拝を記念、御在位60年を奉祝して建立され昭和61年5月28日に竣功しました。高さ32.2m、柱間23m、笠木長40.86m、本体重量は185tの偉容を誇る鳥居です。鳥居を支える亀腹(かめばら)・饅頭(まんじゅう)とよばれる台石も巨大です。
また大神神社大鳥居は非常に頑丈な材質で耐候性鋼板でできており、耐久年数1,300年と伝えられてます。大神神社境内にある展望台の大美和の杜からは大和三山(耳成山・香具山・畝傍山)と共に大神神社の大鳥居も眼下に見ることができます。現在鳥居の高さは日本で二番目ですが、大和城上郡の大神大物主の大鳥居、日本一の鳥居と言えます。
元伊勢『桧原神社』(地図に登録済)
檜原神社は三輪そうめんの産地、車谷の里を眼下に眺め、御神体は三輪山磐座とされます。この神社には本殿も拝殿もなく三ッ鳥居があるだけです。日本書紀によると崇神天皇が天照大御神を豊鍬入姫命(トヨスキイレヒメノミコト)に遷され、磯城神籬(しきひもろぎ)を立て祀った倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)とされます。また、三種の神器の内の剣・鏡を安置したのが、この場所と伝えられます。後に天照大御神は伊勢に遷され、その後は檜原神社として引き続き祀られているため、元伊勢(もといせ)ともよばれます。境内には昭和六一年十一月に豊五日豊鍬入姫命を祀る鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎。万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ山の辺(へ)の道の歌枕となり、西につづく檜原台地は大和国中を一望出来る絶好の場所でした。また、過去には本社である大神神社拝殿のような大きさの拝殿がありましたが、落雷により出火焼失し、以後再建されることもなく現在の姿になりました。
食物を司る『御炊社』(摂社末社地図登録済)
御炊社(みかしぎしゃ)社の祭神は御膳津神(みけつかみ)で食物を掌る神です。御膳津神は穀物、食物の神であることから大神大物主に差し上げる神饌(食事)を掌る社です。他に食物を掌る神として大宜都比売神(おおげつひめのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、宇迦御魂(うかのみたま)、豊受大神(とようけのおおかみ)、若宇迦乃売神(わかうかのめのかみ)などの神です。宇迦御魂は稲荷(いなり)の神の異称。三狐神(みけつかみ)とも当て字したので狐に当てられたとも。この社にお詣りすることで、三輪山に登拝したことになります。
大神神社参拝記録用紙・・
大神神社に詣りされた時の記録用として、月日を記入できるフォーマットを作りました。別宮や摂社・末社所管社にお詣りした記録用にお役に立てれば幸いです。リンクからの直接印刷は無理ですが、PDFファイルをダウンロードした後、印刷していただければ問題なくできると思います。
https://drive.google.com/file/d/1xeuOSrOaIgdqaElYJpeg__lHOz0_xdx7/view?usp=sharing
特別な場所『山の神遺跡』(摂社末社地図登録済)
三諸の神奈備(三輪山)に位置する、山の神遺跡は原始信仰の面影を残す遺跡であり、四世紀後半〜五世紀前半の遺跡といわれます。1918年に古墳時代の祭祀遺跡が発見されたところです。三輪山は山自体が神であり学術調査は出来ませんが、この遺跡は民有地ということもあり、発掘調査が行われました。この調査は三輪山の祭祀を研究するうえで貴重なところであり、出土した遺物の一部は大神神社境内の宝物収蔵庫に展示しています。写真は3枚しか投稿出来ないので、3回に分けて投稿します。
新緑の中、箸墓古墳からの参道を通ってのお詣りです。
大神神社摂社・檜原神社は三輪そうめんの産地、車谷の里を眼下に眺め、御神体は三輪山磐座にあることから、この神社には本殿も拝殿もなく三ッ鳥居があるだけです。日本書紀には崇神天皇が天照大御神を豊鍬入姫命(トヨスキイレヒメノミコト)に遷され磯城神籬(しきひもろぎ)を立て祀った倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)と記されます。また、三種の神器の内の剣・鏡を安置したのが、この場所と伝えられており、後に天照大御神は伊勢に遷され、その後は檜原神社として引き続き祀られているため、元伊勢(もといせ)ともよばれます。

YouTube → https://youtu.be/c5Djyq8wuiE
摂社『神御前神社』(摂社末社地図掲載済)
神御前神社(かみのごぜんじんじゃ)は大神神社の北西に位置する茅原の郷。占いの場所として知られる神浅茅原(かむあさぢはら)伝承地に末社・富士神社・厳島神社の近くに鎮座します。祭神は第七代孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」です。日本書紀によれば、第十代崇神天皇の御代、度々起こる国難を憂いた天皇が「神浅茅原(かむあさぢはら)」に八十万神(やそよろずのかみ)を集めて占い、神意を問うたところ、大物主が倭迹迹日百襲姫命に乗り移り「我をよく敬い祀れば天下は平穏になるであろう」と答えたので、神託に従い丁重に祀りを続けたところ、国内は平穏になりまりました。
その後、倭迹迹日百襲姫命は、大物主の神妃として鬼道を用いて神意を伺い朝廷に貢献しました。時が経つにつれて倭迹迹日百襲姫命は、大物主が昼には現れず夜にだけ通ってくるので、ある時「どうかもうしばらく留まってください。明朝謹んであなたの端正なお姿を拝見しとうございます」と願ったところ、大物主は「では明朝お前の櫛笥の中にいるから驚かないでくれ」と答えました。姫は不思議に思いながらも夜明けを待って、櫛笥を開けると中に美しい紐のような小蛇が入っており、それを見た姫は思わず驚き叫んでしまいました。怒った大物主はたちまち人の姿に化身し、天空に舞い上って三輪山へ帰りました。姫は空を仰ぎながら深く後悔し、尻もちをついてしまいました。その時、箸が陰部に刺さり亡くなりました。姫の亡骸は「大市墓」に埋葬、人々はこの陵墓を「箸墓」とよぶようになりました。この箸墓は大阪山(現在の香芝市穴虫付近)」の石を手渡しで昼は人が運び、夜は神が運び造られたと伝わります。本殿後方には三輪山を望む事ができ、大物主が見守っておられます。
末社『市杵島姫神社』(摂社末社地図掲載済)
狭井神社境内にある鎮女池の畔に鎮座する市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)は桜井市大字茅原に鎮座する大神神社末社・厳島神社から勧請した神社です。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)です。素戔嗚命の御子神であり、古事記では天照大神と素戔嗚命の誓約(うけい)から生まれた神とされます。市杵島姫命は海の神、水の守護神とされ、安芸の宮島の御祭神として広く知られます。弁財天とよばれ七福神の中で福徳財宝、美容と芸能を司る神でもあります。また市杵島姫命は朝鮮半島と日本を結ぶ海路を守護する海の神として、朝廷からも信仰されてました。
末社『貴船神社』(摂社末社地図掲載済)
貴船神社(きふねじんじゃ)は山の辺(へ)の道を北へ、狭井川を過ぎた右手に鎮座します。鳥居が木立に隠れ、その奥に社殿がありますが、気付かずに通り過ぎる皆さんも多い社です。祭神は淤加美神(おかみのかみ)、オカミとは古く「水を司る龍」を意味し水神でもあります。記紀では伊邪那岐命がが火の神である加具土命(かぐつち)を斬ったときに、剣の柄についた血から闇淤加美神(くらおかみ)・高淤加美神(たかおかみ)が生成したと記されます。勧請由緒・時期など不詳です。祠の右手(南向き)には三輪山「辺津磐座」の一つとされる磐座が鎮座します。
昔の卯の日神事(大神祭)には、貴船神社に必ず神饌を捧げて祝詞を奏上したと伝わります。この卯の日祭は崇神天皇が卯の日に大神祭(おおみわのまつり)を始められて以来、大神祭が「卯の日神事」とよばれるほどに卯の日がご神縁の日であり、その干支の日を大切にして毎月行われるものとされます。
余談ですが・・
河瀬直美監督が製作された「桜井三輪素麺VP」で女優さんが「神様が居るのかなぁ・・なんちゃって」という場面の神社です。
■神様の里で、生まれたそうめん 三輪そうめん↓
https://youtu.be/VWRSKmmZW8U
摂社『磐座神社』(摂社末社地図掲載済)
活日神社に続いて山の辺の道の参道を歩くと左手に現れる「くすり道』を過ぎ、少し歩くと右手に原始神道の流れを残す磐座神社(いわくらじんじゃ)が鎮座します。この社は社殿がなく、磐座を神座とする形態が原始の神道の姿を伝えている社です。神の鎮まる頑固な岩(磐座)をご神座として少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀ります。三輪山の麓にある辺津磐座(神が鎮まる岩)が点在、その一つでもあります。
少彦名神は別名「神農さん」ともよばれる薬の神でもありますが、この神は大物主と協力し、国土を開拓・開発につとめ医薬治療の方法を定め、人間生活の万般・福徳の守護神です。
また磐座神社は別名「三穂神社、石神皇后神社、岩上皇后社、岩倉社、岩倉祠、岩上宮、石上社」とよばれ存在したことが明らかにされています。三穂神社、皇后神社の名から、かつては大物主の后神である三穂津姫命(みほつひめ)を祭神とする神社とも伝わります。岩上、石上からは岩神、石神に通ずる信仰も少なかれ存在したということです。
末社『富士神社・厳島神社』(摂社末社地図掲載済)
富士神社・厳島神社は古木の下、木造鳥居の後ろの石垣(古墳石室)の上に鎮座する珍しいお社の一つです。祭神は玉垣内、右に富士社(木花咲耶姫命・このはなさくやひめ)、左に厳島社(市杵島姫命・いちきじまひめみこと)が鎮座します。鎮座地の茅原は占いの場所として知られる神浅茅原(かむあさぢはら)伝承地で、大和政権最強のシャーマン(呪術師)である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を祀る摂社・神御前神社が斜め向かいに鎮座します。
神々の託宣があった茅原で祀られる富士・厳島神社は大神神社系列社の中でも古くから祀られていた神社とされます。富士神社は富士山の麓に祀られる浅間神社の系列で、燃え盛る火の中で子どもを産んだ木花咲耶姫が祀られ、厳島神社の祭神は摂社・狭井神社の鎮女池に祀られている市杵嶋姫神社は当社の分霊です。市杵島姫命は素戔嗚尊と天照大神との誓約により生まれた、宗像三女神の一柱であり福岡の宗像神社、宮島の厳島神社の祭神です。
余談ですが、この社は弁天古墳(べんてんこふん)の上に建てられており、古墳石室を見ることができます。覆土も無く石が露出しており、発掘調査も行われてないので詳細は謎とされています。古墳の羨道は南向きに開口し両袖式で石室内部に刳抜式石棺の蓋が見えます。三輪山麓の後期古墳で石棺が残るのは珍く、また古木の根が石室を取り込むように生えており、古墳の歴史を物語っています。TVではパワースポットとして紹介されており、この古木が剥がされた覆土の代わりに石室を守るように取り囲み覆い被さるように根を張り巡らしていることから特別な場所(パワースポット)と言われてます。この古墳に眠る主を古木が朽ち果てるまで守る姿は何とも言いようのない不思議な思いに駆られます。
摂社『狭井神社』(摂社末社地図掲載済)
狭井神社は主神として大物主の荒魂(あらみたま)を二千余年前、垂仁天皇の時代に祀られたとされます。配神として大物主神、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたら)神武天皇の皇后、勢夜多々良姫(せやたたら)五十鈴姫の母、事代主神です。狭井神社の社名の由来は山百合の古名の「サヰ、サイ」からといい、神社近くに流れる「サヰ川(狭井川)」の川辺には山百合が多く咲き誇っていたと伝わります。
狭井神社に祀る荒魂は勇猛さの反面、粗野で時には人に祟りを及ぼすような霊力であり、神の「怒り」を示しているともいわれます。その力強いご神威から病気平癒の神として信仰が篤いとされます。4月18日の鎮花祭は上古からの由緒をもち「薬まつり」の名前でも知られます。当日は大阪の道修町を初め近畿の製薬会社の皆さんが参拝に訪れ薬を奉納されます。祈祷参拝時には「狭井大神(さゐのおほかみ) 荒魂(あらみたま) 守給(まもりたま)へ 導給(みちびきたま)へ」と唱えます。
また拝殿の左手奥には「薬井戸」があり、の井戸より湧き出る神水は、万病に効く「くすり水」とされ、多くの皆さんが水を求めて健康祈願されてます。造り酒屋の皆さんや素麺を作られる皆さんは年初の商品の造り始めには、この狭井の神水を用いるとされます。
神社拝殿右側からは三輪山の登拝口がって入山することができます。登拝所要時間は2〜3時間で往復することができます。標高467mの山頂には摂社・高宮神社(こうのみや)、奥津磐座に大物主、中腹には中津磐座に大己貴命、山麓では辺津磐座に少彦名命が鎮座します。
摂社『活目神社』(摂社末社地図掲載済)
活日神社(いくひじんじゃ)は酒造りを行う杜氏(とうじ)の祖神を祀る社です。祭神は高橋活目命。
当時、国内に疫病が流行し混乱を極めた際、崇神天皇に命じられ大物主大神に供える神酒を造った掌酒(さかひと)で杜氏(とうじ)の祖神とされます。
高橋活日命(たかはしのいくひのみこと)は日本書紀・崇神天皇条によるところ天皇に神酒を献じた時、※1「この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久(いくひさ)」と詠って献じたとされ、大物主神のご神助により、会心の美酒を造ることが出来たと記されます。このことで高橋活日命は酒造りの神として敬われることになりました。崇神天皇に召され、三輪の神にお供えする酒を造った高橋活日命を祀る、我国でも唯一杜氏の祖先神(一夜酒の神)として祀られ酒造関係者からも特に信仰が篤い社のひつです。
高橋活目命は日本書紀の崇神天皇紀に崇神天皇八年(720年)四月の庚子(かのえね)の朔(つひたち)乙卯(きのとのう)に「高橋の邑の人活日(いけひ)を以て大神の掌酒(さかびと)とす」と記されます。
また一夜にして美味しい酒を造ったことから古くは「一夜酒社(ひとよざけのやしろ)」ともよばれ、酒まつり等で舞われる神楽「うま酒みわの舞」は活日命が詠んだ詩で作曲作舞されたそうです。我が国最古の大神神社と日本酒の関係も、深い繋がりがあります。三輪の大神は酒造りの神であり古い時代から大神神社に醸造を司る人が存在したことが分かります。
※1「この神酒は、私の神酒ではありません。倭の国を成した三輪の大物主神(おほものぬしのかみ)がお作りになった神酒です。幾世までもいく久しく いく久しく栄えあれ」と詠い、崇神天皇に酒をすすめました。
この詩に対し、崇神天皇は「味酒(うまさけ) 三輪の殿(との)の 朝門(あさと)にも 押し開かね 三輪の殿門(とのと)を」と詠いました。意味は、一晩中飲み明かし「三輪の拝殿の戸を朝開いて帰っていこう。三輪の拝殿の戸を」と返歌しました。
余談ですが、大神神社のご神体は三輪山(みわやま)です。昔は神に捧げる酒のことを神酒(みわ)と発音しており、さらに古来の人々は神のことを(みわ)と発音したそうです。この社には全国各地から酒造関係の皆さん方が多くお詣りに来られます。
末社・久延彦神社
久延彦神社(くえひこじんじゃ)は三輪山の麓、大美和の杜展望台西方に鎮座し、本殿は春日造の桧皮葺です。祭神は久延毘古命(くえびこのみこと)。神代の時代、大国主命の国作りを大勢の神々が手伝いますが、少彦名命の名前だけは誰も知らなかったのです。しかしこの久延毘古命だけは、その神が少彦名命であることを知っており、大国主命や他の神々に教えたと伝えられます。

この神の知恵は世に類なく優れていて古事記には「足はあるかねど天下の事を尽(ことごと)に知れる神」と記されています。この事から、久延毘古命は案山子(かかし)です。ただ立っていることしか出来ない案山子ですが、常に世の中を千里眼の如し見渡している事から、なんでも知っている神として信仰され、特に受験合格・入学・進学・就職等の成就安全をまもる知恵の神として多くの人々に信仰されています。この神社には、それぞれの願い事を書いた「願かけ絵馬」が数多く掛けられています。また祭神の久延毘古命は案山子の化身から、田の神・水の神でもあります。地元ではは「くえひこさん」とよばれ親しまれ、県内はもとより全国から受験生や学生などお詣りする人々が絶えない神社のひとつです。

久延毘古命の正体ですが、なんと案山子(かかし)です。ただ立っていることしか出来ない案山子ですが、常に世の中を見渡している事から、なんでも知っている神様として信仰され、古事記にもこんな逸話が残っています。 大国主命の国作りをたくさんの神々が手伝いますが、少彦名命の名前だけは誰も知らなかったのです。しかしこの久延毘古命だけは、その神様が少彦名命であることを知っていて、大国主命にお教えになられました。古事記に「足はあるかねど天下の事を、尽に知れる神と記されている神様」と記されている知恵の神様です。

社殿前の展望台は、大美和の杜展望台より視界が良く、眼下には大鳥居、大和三山や日本神話の故郷・金剛葛城山、二上山などが一望できることから、皆さんが携帯やカメラで撮られるビューポイントの一つです。
摂社『大直禰子神社(若宮社)』・末社『琴平社』(摂社末社地図掲載済)
大直禰子(おおたたねこ)神社は奈良時代に神仏習合の姿をとり、大神神社の神宮寺として「三輪寺・大神寺(おおみわでら)」とよばれ、鎌倉時代には「大御輪寺(だいごりんじ)」として栄えました。中世には三輪流神道が、この地より広まり各地方に多大の影響を与えたと伝わります。明治の神仏分離までは大御輪寺の本堂として若宮の大神と共に国宝である本地仏「十一面観音」として奉安併祀されていました。現在は日本最初の国宝となり、多武峰参道沿いの聖林寺に安置されてます。この神社は昭和六二年より三年に亘り解体修理が実施され、応永十九年(1412年)の姿に重要文化財として復元されたものです。
祭神の大田田根子(おおたねこのみこと)とは第十代天皇で崇神天皇の時代、国内に疫病が流行し国民の多くが死亡し容易ならざる国状となった時、天皇の御夢に大物主があらわれ「吾が児、大田田根子(大直禰子命)を以て吾を祀らしめたまわば立ちどころに平らぎなむ」と告げました。その時、天皇は大直禰子命を探し出し、大物主を祀る祭主(かんぬし)として丁重に祀ると、たちまち病気は止み国内は平安となり富栄えたと、古事記・日本書紀に記されます。また神社境内池の畔、東側には大物主を祀る末社・琴平社が鎮座します。
この神社の境内には「神饌石・安産岩」が鎮座します。神饌石(しんせんせき)は、正月元旦の神火祭時に、若宮社のすぐ東方にある久延彦神社に対する神への供え物、神饌(しんせん)を置く石として使われます。長い石段がある久延彦神社の逢拝所として、ここから遥拝することもできます。安産岩については、名称から安産に霊験のある岩石とされ親しまれます。
摂社『綱越神社』(摂社末社地図掲載済)
綱越神社(つなこしじんじゃ)の祭神は祓戸大神(はらえどのおおかみ)。この事から綱越神社は夏越の社とも言われ、旧6月晦日の大祓「夏越の祓」が厳粛に行われる古社として広く世に知られ、社名の綱越は夏越から転訛したとか、綱を超えて(綱越)三輪山を遥拝したからともいわれてます。7月31日の例祭は「御祓祭(おんぱらさい)」の名から通称「おんぱらさん」とよび、神社参道には露店が並び多くの人々で賑わいます。
大神神社大鳥居の南に位置し、一の鳥居の参道入口となる三輪馬場先に鎮座します。この神社は由緒があり社名は古く延喜式神名帳に記されます。また貞観元年(859)正月には神位が贈られました。この神社南方には万葉集で有名な初瀬川(泊瀬川)が流れており、大神神社の重要な神事「卯の日神事」においては大神祭の奉仕に先立ち、その前日に神主以下奉仕員が必ず綱越神社に出向き、初瀬川で「垢離(こり)取り」を済ませ、祓の儀を綱越神社で行いました。その後、大神神社の神事を行うことが許可されたそうです。現在は7月30・31日の両日、御祓祭(おんばらまつり)が盛大に執り行われ、特設の茅輪をくぐり無病息災を祈る人々で賑わいます。
茅輪をくぐるときは「水無月の 夏越の祓へ する人は 千歳の命 延ぶというなり(みなづきの なごしのはらへ するひとは ちとせのいのち  のぶというなり)」「思ふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓へつるかな(おもうこと みなつきねとて あさのはを きりにきりても はらえつるかな)」「蘇民将来 蘇民将来(そみんしょうらい そみんしょうらい)」など唱えます。
末社『祓戸社』(摂社末社地図登録済)
一般のGoogle地図では「祓戸神社」と記載されてますが、正しくは「祓戸社」です。
祓戸社(はらえどしゃ)の祭神は瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)・速秋津姫神(はやあきつひめのかみ)・気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)・速佐須良姫神(はやさすらひめのかみ)です。この社は心身を祓い清めてくれる、強力な祓戸の四神が祀られます。二の鳥居から神社にお詣りするときは先ず、祓戸社にお詣りします。一の鳥居手前にある綱越神社にお詣りされてる場合は省略してもよいとされます。
祓えの意味合いとして、神社は神々が鎮まる神聖な空間です。ところが、私たちは日常生活の中で辛い事や悲しい事など様々なストレスを感じ、知らず知らずのうちに「穢れ」を身体にまとっています。そこで、神社にお詣りする前には手水舎で手や口を清めることで身も心も清らかにします。このように、穢れなどを除き清めることを「祓え(はらえ)」といいます。古事記では伊邪那岐命(いざなきのみこと)が「黄泉(よみ)の国」から帰った際、祓えをして穢れを除いたと記されます。『筑紫の日向の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)に到りまして、禊(みそ)ぎ祓(はら)へたまいき』と記されます。

余談ですが、神々の祓戸システム・・
皆さんの罪穢れを川の瀬にいる瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)が川から海に持ち出し、海にいる速秋津姫神(はやあきつひめのかみ)が罪穢れをしっかり受け止め、海に強風を起こす気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ))が、罪穢れを地底の国へ吹き放ち、地底の国に居る速佐須良姫神(はやさすらひめのかみ)が、その罪穢れを持ってさすらっている間に消えてしまうという強力な浄化システムです。
良縁成就『夫婦岩』(摂社末社地図掲載済)
夫婦岩(めおといわ)は、その昔「大和国に年久しき夫婦のもの有と云古跡なり」と言われ、そろって延命長寿を成しとげた仲の良い夫婦の暮らしていた、その古跡がこの二つの岩とされ、二つの磐座が仲良く寄り添っている形から「夫婦岩」とよばれ親しまれてます。この磐座は、二の鳥居から新緑の中、火除け橋を渡ると左に祓戸神社、その隣に「夫婦岩」があります。その名の通り四方を瑞垣(みずがき)に囲まれた中、大小の二つの岩が白い玉石に包まれるように仲睦まじい姿を見せています。また、この岩は三輪山の三ヶ所の神座の内、辺津磐座(山裾の磐座)の一つとして室町時代には「聖天石」と記されますが、今では二つの岩が仲良く並ぶことから「夫婦岩」とよばれるようになりました。
三輪に伝わる昔話・・
昔、三輪の里に仲の良い夫婦が暮らしており、毎朝かかさず三輪明神にお詣りしておりました。ある日のこと、朝日が昇る前の薄暗いときの出来事です。何時ものように祓戸でお祓いをしていた時、辺りがぼんやりと明るくなってきて、何気なくフッと東の方を向くと驚くような出来事が起こったそうです。何と! 目の前に大物主の姿が現れ夫婦を見ながら優しく微笑んだそうです。夫婦は驚きましたが、思わず大物主に手をあわせると朝の日差しと共に、その姿が消えていきました。その後、この夫婦には子供や孫に囲まれ、延命長寿を全うしたそうです。この夫婦の古跡が「夫婦岩」と伝えられています。この事から「夫婦岩」は「良縁成就・夫婦円満・子授け」を願って祈るようになったと伝えられています。
末社・神宝神社(かむだからじんじゃ)は本社前から山の辺の道を南に出てすぐ、左手(東側)奥の山麓に鎮座します。祭神は家都御子神(けつみこのかみ)、熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)、御子速玉神(みこはやたまのかみ)の熊野(ゆや)三神、別名は熊野(ゆや)権現、三所(さんしょ)権現とよばれる神々が祀られます。古くから三宝荒神の信仰もあり、財宝の神としても広く崇敬されています。神社左手には本社の禁足地でもある神域を見ることができます。
また元旦に本社から御神火が奉納され、真っ先に神事が執り行われます。これは繞道祭(にょうどうさい)とよばれ、三輪明神の年頭を飾るご神火の祭典であり国家、御皇室の安泰と国民の幸福を祈ります。繞道祭に用いられるご神火は、新年の始まりの午前零時を期して、拝殿の東方の禁足地内で宮司によりきり出され、拝殿大床の燈籠に移し置かれます。宮司により祝詞奏上の後、ご神火を小松明に点し2人の神職が拝殿内を走り出て、拝殿前の斎庭で待つ3本の大松明に火が継がれます。そして、先入道(さきのにゅうどう)・後入道(あとのにゅうどう)とよばれる2本の長さ約3mの大松明と、少し小さめの神饌松明の計3本を氏子の若者がかつぎ、神職と共に山麓に鎮座する摂末社19社を巡拝します。
余談ですが、繞道祭の「繞」とは「めぐる」という意味合いです。ご神火が境内のご神火拝戴所に移されると、待ちかまえていた参拝者の皆さんが先を争って持参の火縄やカイロに火を移しとります。このご神火はそれぞれの家庭に持ち帰られ、神棚のお灯明や雑煮の祝火に用いられ、一年間の無事息災が祈られます。大和の正月は繞道祭で明けるといわれる年初の勇壮な火の祭典、繞道祭は浄火を尊んできた日本人の古代からの信仰を今に受け継ぐ神聖な神事です。【写真】最後は「先入道(さきのにゅうどう)・後入道(あとのにゅうどう)・神饌松明(しんせんたいまつ)」です。
末社『天皇社』(摂社末社地図登録済)
天皇社(てんのうしゃ)は神宝神社から山の辺(へ)の道に戻る左の小高い山の上に鎮座します。祭神は第十代崇神(すじん)天皇を祀ります。崇神天皇は宮を三輪明神(大神神社)摂社・率川神社境内(奈良率川宮・いさがわのみや)より、三輪山麓の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)に遷り歴史上初の画期的な政治を行い、祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家(大和朝廷)の基盤を整えたとされる御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称されます。毎年11月14日には祭神の聖徳を称え「崇神天皇奉讃祭(すじんてんのうほうさんさい)」が執り行われ、神楽「磯城の舞(しきのまい)」が特別に奉奏されます。

崇神の御代に皇居に天照大神、大物主大神の二柱を祀ってましたが、天照大神は倭笠縫邑(桧原神社)に遷し、大物主大神は大田々根子命(若宮社)を祭主とし三輪山に祀り、天社・国社を定め、東海や北陸、西国、丹波の四方に皇族四道将軍「大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)」を派遣、教化を盛んに取り入れました。それに伴い産業交通を発展させ、国民の福利を進め大和朝廷の基礎を築きました。

大物主大神については、崇神の御代に民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。これは三輪山の神、大物主大神が起こしたと「お告げ」を受け、天皇は神の意に従い神の子孫となる大田田根子(おおたたねこ)を探し出しました。そして大田田根子命に託し、三輪山に大物主大神を祀ったところ、祟りが鎮まり疫病が治まったとされます。
末社『三輪成願稲荷神社』(摂社末社地図登録済)
三輪成願稲荷神社(みわじょうがんいなりじんじゃ)は三輪明神の神宮寺「平等寺、大御輪寺、浄願寺」の三寺院が知られます。その中のひとつ、浄願寺(尼寺)は鎌倉時代の正応3年(1290年)に鎮守社として創建されました。その後、明治時代の廃仏毀釈により寺の跡に稲荷が勧請されました。祭神の宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)の別名は稲荷大神。配祀として市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后(じんぐうこうごう)が祀られます。
この社の本殿は二間社流造・三社形式で入母屋造、瓦葺の中にあって特徴的な造りです。三輪成願稲荷神社は全ての食べ物を司ると共に商売繁盛・開運招福・念願成就の願いが叶うと伝えられています。また手前には神社の歴史を物語る土塀が出迎えてくれてます。
摂社『神坐日向社』(摂社末社地図登録済)
御子ノ森(みこのもり)に鎮座する、神坐日向社(みわにますひむかいしゃ)の祭神は櫛御方命(くしみかたのみこと)、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)、建甕槌命(たけみかづちのみこと)親子三代の神が祀られます。この社の鎮座地は旧平等寺跡の西端の高台に位置し、建武三年・延元元(1336年)動乱の幕開けとなり、京都を離れた後醍醐天皇(南朝)の吉野遷幸の折、これを迎えた桜井地域の土豪である、三輪神主「大神勝房(三輪西阿)」の三輪城の跡で城山ともよばれます。また明治維新後に社名が誤って入れ替り三輪山山頂に鎮座する摂社・高宮神社(こうのみやじんじゃ)は「神坐日向神社」であり、現神坐日向神社は「高宮社(こうのみやしゃ)」が本当の社名です。この神社境内入り口左には高宮神主家の家宅があり、この地のよび名も地元では高宮(たかみや)とよびます。平安時代の「延喜式」神名帳にも記される古社で、御子神を祀ることから神社の古絵図に「御子宮(みこのみや)」として描かれています。高宮神社の高宮とは三輪明神(大神神社)の神主の姓で「大神→三輪→高宮」と変化しました。
祭神の追記として、古事記によるところ大物主は陶津耳命(かもたけつのみのみこと)の娘・活玉依毘売(いくたまよりびめ)と結婚、櫛御方命(くしみかたのみこと)をもうけられました。 この櫛御方命の子が飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)。その子が建甕槌命(たけみかづちのみこと)。その子が意富多多泥古(おおたたねこ)、日本書紀では大田田根子と記されます。この子孫である大田田根子は、崇神天皇の御代に三輪山の神主となり、三輪明神(大神神社)初代神主の祖となります。
※建甕槌命は鹿島神宮祭神「建甕槌命」とは別神とされます。
末社『大行事社』(摂社末社地図登録済)
大行事社(だいぎょうじしゃ)は本社三輪明神(大神神社)の南に位置し、現在の平等寺四つ角を東に進んだところに鎮座、石段上に鳥居が立ち、祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)、 加屋奈流美神(かやなるみのかみ)、 八尋熊鰐神(やひろのわにのかみ)が祀られます。三輪駅から少し西方に位置する、三輪坐恵比須神社(みわえびすじんじゃ)の元宮です。日本最古の山の辺(へ)の道の始発点で有る「海柘榴市(つばいち)」が栄えていた頃、当社の分霊を祀られてましたが、初瀬川の氾濫で海柘榴市が度々流されてからは三輪の町中に移され、三輪坐恵比須神社となりました。そのことから日本最初市場を守る三輪坐恵比須神社とも称されます。毎年二月六日の初えびすの日に、三輪素麺などの初相場が立ち価格が決められ、古くから商工業の市場の御守護神として篤い信仰を集めます。
祭神の詳細・・
事代主神は大国主命の子で古事記によれば、国譲りを要求する高天原からの使者に対し、父の大国主神に代り国譲りの誓約をしました。神々の託宣の神とされ神のお告げをのべる役割をもつとされる。
加屋奈流美神は記紀には現われないものの、出雲国造神賀詞では、大己貴命(おおなむちのみこと)が皇孫の守護神として倭国の周りに鎮座させた四座「大物主大神、 阿遅志貴高日子根神( あぢしきたかひこねのかみ)、事代主神、加屋奈流美神」の中の一座で加屋奈流美神(飛鳥神奈備三日女神)として飛鳥坐神社に鎮まります。
八尋熊鰐神は書紀・神代紀(第六の一書)に、事代主神が大きな鰐(八尋熊鰐)と化して、三嶋溝杭(みしまのみぞくい)の玉櫛姫(たまくしひめ)の処に通い、神武天皇の皇后である蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を生んだと記され、事代主神と同神とされます。
末社『春日社』(摂社末社地図登録済)
末社・春日社(かすがしゃ)は大行事社右横の道路を東へ進むと、大三輪教本院の堂舎に突き当たります。そこを左手に進むと小高いところに石畳の参道があります。参道を少し登った先に木立に囲まれるように鳥居が立ち、春日造の小祠が鎮座します。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、斎主命(いわいぬしみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめのかみ)の春日四神を祀ります。この春日四神は奈良の春日大社から勧請されたということですが、勧請由緒及び時期などは不明とされます。小さな社ですが、禁足地でもある境内の広さは摂末社の中では一番の広さを誇ります。
また神社境内や近隣は旧平等寺跡とされ、江戸後期の絵図には「本堂、奥の院、不動堂、鐘楼」などの伽藍が描かれ、東奥に鎮守社らしい一画が描かれおり、現在の春日社の前身と思われます。大行事社から春日社へ至る小路の左手、北側の草木に覆われた古い石垣の上に平地が残り、江戸時代までは、大神神社の神宮寺として、同じ神宮寺であった大御輪寺(現大直彌子神社)を凌駕する大伽藍を有する盛況を極めたと伝わります。明治維新後、廃仏毀釈により完璧に破壊され、現在は何も残っていません。尚、現在の平等寺は明治二十三年六月十日に河内から移された翠松寺とされます。
末社『事比良社』、所管社『稲荷社』(摂社末社地図登録済)
末社・事比良社(ことひらしゃ)、所管社・稲荷社(いなりしゃ)は三輪明神から、山の辺(へ)の道を南へ進み、金屋の石仏から数十メートル進むと、左の小高い丘の上に鎮座します。参道は少し見っけにくい神社ですが、境内からの見晴らしは中々のものです。また境内は狭く南側を除いて雑木の混じった竹藪に囲まれており、竹の新緑が快いところでもあります。祭神として向かって右に鎮座する社末社・事比良社は大物主神(おおものぬしのかみ)で一段高い石畳に鎮座します。向かって左に鎮座する所管社・稲荷社は宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)です。この竹藪の東側には末社・八阪社が鎮座します。
末社『八阪社』、所管社『大峰社・賃長社・金比羅社』
いよいよ、皆さんにご紹介できる三輪明神の摂社末社は残すところ、二つの鎮座となりました。そんな中、今回は三輪大字金屋の中央に鎮座する末社の紹介です。私のご先祖さんも、この神社のお世話をしてました。

末社・八阪社(やさかしゃ)は金拆神社へ向かう道中、標識が立てられる、民家の間に参道があります。深い木立の中に立つ鳥居を進み、急勾配の石壇を登り切ったところ、珍しい拝殿のひとつ、建物の真ん中を参道が通る形式の割拝殿があります。拝殿が閉まってることが多く、右に回ると境内にでます。石垣の上には朱色の瑞垣と土塀に囲まれた神域、その中には春日造りの社、左から所管社・賃長社(はにながしゃ)、末社・八阪社、所管社・大峰社(おおみねしゃ)が鎮座します。境内右手に、同じく大神神社末社・金比羅社(こんぴらしゃ)が鎮座します。

祭神として八阪社は素盞鳴命(すさのをのみこと)、大峰社は山の神である大山祇命(おおやまつみのかみ)、賃長社は長寿祈願の神である磐長姫命(いわながひめのみこと)、金比羅社は大物主命(おおものぬしのみこと)です。金比羅社の祭神は三輪明神の大物主大神とは神格が異なります。特徴として八阪神社の灯籠には「牛頭天王」とあり、昔は牛頭天王ともよばれていた可能性があります。神域内に並んだ左手の賃長社の側面には槌の紋が描かれており、他の八阪社、大峯社には三巴紋が描かれてます。

現在の社名は八坂神社とよばれますが、祭神を素盞鳴命とすることから江戸時代までは、防疫神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀る牛頭天王社として村人から崇敬されていたと伝わります。明治初年の神仏分離により牛頭天王が排され、社名を八坂神社へ、祭神は同一神格の素盞鳴命と変更されました。江戸期かそれ以前に、疫病除けの防疫神として勧請されたと思われますが状況は不明です。この神社は近隣村落の鎮守社というのが原点であり、三輪明神の末社となったのは、明治以降で比較的新しいと言うことです。また神社の祭礼は神楽なども行われ華やかな時期もありました。毎年の10月9日の例祭には、地元の老若男女がそれぞれの役割を帯びて集まり、朝6時からおこなわれるという。古い信仰が姿をかえて残っています。
末社『金拆社・天宮社・神室社・大峰社』(摂社末社地図掲載済み)
皆さんにご紹介できる三輪明神の摂社末社は残り一社となりました。そんな中、今回は三輪と慈恩寺の境にある末社・金拆社(かねさきしゃ)の紹介です。この神社は瑞垣に囲まれた老樹を中央に拝する形式で、原初の神祀りに近い存在です。同座として末社・天宮社(あめのみやしゃ)、末社・神室社(かみむろしゃ)、末社・大峰社(おおみねしゃ)が祀られます。また摂社・綱越神社と同じく、神事の際には重要な社の一つでもあります。
鎮座地は八阪神社から玉列神社へ向う道中に位置します。桜井市立学校給食センターの東側に位置し、駐車場の東の端に、三輪山へ登る道があります。三輪山の南の口に当るところでもあり、狭い階段の下には「入山禁止」の立て札が立てられます。また現在では学校給食センターが有りますが、昔はこの地一面、鬱蒼とした不気味な竹林に覆われており狸や狐に化かされるので、気を付けろと言われていたところでもあります。また、この神社は三輪山の山中にある磐座(奥津磐座)の遥拝所としての役目があるとされます。
祭神として末社・金拆社には宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)、綿津見神(わだつみのかみ)の子で、阿雲連(あづみのむらじ)などの祖(おや)とされます。「拆」は信濃の佐久郡を意味し、信濃国更級郡の氷銫斗賣(ひかなとめ、ひがのとめ)神社の氷銫と関係深いとされ、同じく綿津見神の御子で安曇宿禰(あづみのすくねつぐなり)の祖である穂高見命(ほたかみのみこと)と同神とする説があります。
末社・天宮社の祭神は天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと)
古事記に大物主は陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘・活玉依毘売(たまくしひめ)と結婚、櫛御方命(くしみかたのみこと)をもうけました。 この櫛御方命の子が飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)、その子が建甕槌命(たけみかづちのみこと)であり鹿島神宮の建甕槌命とは別の神です。その子が意富多多泥古(おおたたねこ)、日本書紀では大田田根子と記されます。子孫の大田田根子は、崇神天皇の御代に三輪山の神主となりました。
末社・神室社の祭神は龍神である闇淤加美神(くらおかみのかみ)です。
古事記に伊邪那岐神が火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った時、 その剣の柄に集まった血が、手の指の股から洩れ出てできた二神を闇淤加美神、闇御津羽神(くらみつはのかみ)とよばれます。
末社・大峰社の祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)
日本書紀では伊邪那岐神が火の神である迦具土神を斬ったときに生まれた、大山津見神は山を司る神「山神」です。また別名の和多志大神(わたしのおおかみ)の和多は綿津見・海神(わだつみ)であり海を司る意味合いもあります。大山津見神を祀る本源の神社、大山祇(大三島)神社の杜伝では山・海兼備の神であるとされます。この神は各地に祀られており、主祭神以外にも境内の小祠や石に祀られていることが多く見られます。
摂社『玉列神社』
末社『祓戸社、金山彦神社、猿田彦神社、愛宕社』
いよいよ皆さんに紹介する三輪明神(大神神社)摂社末社の紹介は玉列神社(たまつらじんじゃ)境外末社・素盞鳴神社(すさのうじんじゃ)を除き最後となりました。また全ての摂社末社別宮の詳細はアナウンスから見ることが出来ます。それに準じてグループ内の「摂社末社地図」に全ての鎮座地や詳細、写真などを掲載させていただきました。
それでは玉列神社の紹介です。この神社は鳥居から本殿背後に三輪山を仰ぐ形式で鎮座します。この神社は延喜式神名帳に「大和国城上郡玉列神社」とある式内社で、大神神社の境外摂社となります。大神神社から山の辺(へ)の道を南へ初瀬街道に沿う慈恩寺集落の小高い丘の上に鎮座します。「玉列」は玉を貫ねるという意味で「魂貫(たまつら)」、魂を延々と受け継ぐ意味合いがありそうです。
一説に雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はせあさくらのみや)伝承地の間近(三輪山南部)に鎮座する事から王権による三輪山祭祀の南礼拝所として創祀されたと伝わります。
祭神は玉列王子神(たまつらおうじ)で、大物主の御子神(みこがみ)と伝えられます。配祀として天照大御神、春日大御神が鎮まります。初瀬谷に於ける最古の神社でもあり、江戸時代より玉椿大明神(たまつばきだいみょうじん)として地元の皆さんに親しまれます。神の名に相応しく、神社境内には200種約500本の椿が植えられ昔より「玉列のつらつら椿」として有名な神社で遠く京阪神、東海地方に至るまで厚い信仰を集めてます。また同じく「金色のお砂」は招福のしるしとして尊ばれています。
境内には末社「金山彦神社(かなやまひこじんじゃ)、猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)、愛宕社(あたごしゃ)」が拝殿右(東側)に鎮座します。金山彦社の祭神は金山彦神(かなやまひこのかみ)、鉱山・金属・鍛冶などを司る神。猿田彦社の祭神は佐田毘古神(さるたひこのかみ)、道案内の神(塞神・道祖神)、交通安全の神。愛宕社の祭神は火産霊神(ほふむすびのかみ)、火を司る神で「かまど神」ともよばれます。この三神は「かまど三柱大神」と信仰されている事から「火」を扱う人々=製鉄に携わるタタラ民が関係ありそうです。
末社『高宮神社(旧神坐日向神社)』
高宮神社(こうのみやじんじゃ)は三輪山頂上近くに鎮座。昔は社殿などは無く、杉木を神木(奥の杉)として祀られました。現在は一間社春日造の小祠が鎮座します。高峯神社、神峰社、上宮ともよばれます。高宮神社の祭神は日向御子神(日向王子)、日向(ひむか)とは「日に向かう、日を迎える、日を拝する」を意味し、日向御子神とは日神(太陽神・天照大御神)信仰における日神の御子(王子)です。
高宮神社の由来の一つとして、倭姫命世紀では崇神天皇六年、宮中から出された神鏡(天照大御神)を倭笠縫邑に祀った豊鍬入姫(とよすきいりひめ)は、鎮座地を求めてこの地を出立し各地を転々とした後、崇神五八年には現在の高宮神社の鎮座地である、弥和乃御室嶺上宮(みわのみむろのみねのうえのみや)に還り、二年間奉斎したそうです。この事から、いわば大物主命が鎮座する三輪明神の奥宮で行われた、というのが極めて意味深いものです。この後に倭姫命(やまとひめのみこと)による伊勢巡幸遷座と続きます。

思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更何と磐座や。

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