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芝田進午の人類生存思想と現実コミュの編集者芝田暁の疾駆〜文化活性化の炎〜[増補版]

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2020-01-13 11:01:43 | 政治・文化・社会評論


1:芝田暁とは?
 圧倒されるような情熱で、人生を疾駆していった。芝田暁54歳。芝田進午の次男として、高校大学と早稲田で学ぶ。芝田暁の恩師高橋敏夫教授は、暁氏の著作『共犯者―編集者のたくらみ』(駒草出版2018年11月)の解説「きらめく非常識へ跳躍する共闘者たち」でこう記している。
【引用開始】
これは、もう芝田暁しかいない。
 徳間書店、幻冬舎、そしてみずから創業したスパイスで活躍、多くのベストセラーを生み出し若くしてエンターテインメント系編集者のレジェンドと言祝がれ、ノンフィクションや実録ものの制作にも携わったのち、今は朝日新聞出版にいる芝田暁の話を学生に聞かせたい、と私は切望した—。 (中略)
 講義概要にはこう記した。ノンフィクションは、事実をただ記述する事実追認型のジャンルではない。個々のノンフィクションライターが、確固とした思想と、独自の取材方法と、独特な文体によってつくりだす事実発見型のジャンルであり、その発見にもとづく事実批判型(さらに「事実をのせている構造」批判型)のジャンルである。
文学部の学生には、表現者志望の者と同じぐらい編集者志望の者がおり、表現者とともに作品制作にかかわる創造的な編集者の日々を知りたいという要望があった。
 これは、もう、芝田暁しかいない—。
【引用終了】
芝田暁は、早大で高橋敏夫教授に学んだ。幻冬舎等で著者を援護する「共犯者としての編集者」を続けた。昨年6月9日、「平和のためのコンサート」会場で購入。熱意溢れる好著だ。暮れ12月22日永眠。闘病生活も綴られている。芝田進午・貞子ご夫妻のご次男である。幾度か著作の中で見た両親やご家族への言葉に胸が熱くなる想いがした。

2:大月書店・徳間書店・幻冬舎・スパイス
 高校時代自由奔放にアルバイト生活を過ごしていた著者は、早く大学を卒業して社会人として働きたいと思った。当時大学生の就職活動は四年生になってからで、大学四年になると、待ちに待った就職活動が始まった。
 著者は「父がかなり知られた左翼の学者なので、たぶん一般企業は無理だろう」と判断し、マスコミ企業のジャンルで、テレビ・新聞社と吟味して出版社を選んだ。
 講談社、集英社、小学館、光文社を受け、唯一大月書店から内定をもらった。1988年4月、入社。
「大月書店は民主的で従業員を大切にする雰囲気なので決して悪い会社ではなかった」。
こう著者は述べる。けれど三つの違和感から居心地が悪く、辞めたら会社に迷惑をかけるから最低一年間はがんばろうと決める。学生時代から古典は別として現代小説はほとんど読まなかった著者は、「このミステリーがすごい!」(宝島社)を読んでから、船戸与一、志水辰夫、北方謙三、逢坂剛、大沢在昌らを次々に読破。小説にしかできないリアルで圧倒的な世界観に、文藝編集者に強く関心をもつようになった。
 一年数か月が過ぎて、宮崎駿を輩出した「月刊アニメージュ」などを出していた徳間書店で「文藝書籍編集部」の求人を知り、中途採用試験に合格し採用された。
 以後、徳間書店で59冊の単行本を編集している。小松左京、西村寿行、花村萬月、山田正紀、荒巻義雄、井沢元彦、吉岡道夫、赤川次郎、浅田次郎、梁石日(ヤン・ソギル)ら20人の作家の作品である。徳間書店入社とともに西村寿行を担当した。当時西村寿行と大藪春彦は徳間書店にとって最重要作家であるが仲が悪く、担当者は絶対に重ならないように会社の不文律があった。『紺碧の艦隊』の荒巻義雄も著者が担当した。初期の浅田次郎の作品を編集し続ける。最初は売れなかったが『鉄道員』(ぽっぽや)で直木賞を取ると、あっと言う間に屈指の人気作家に昇りつめ、今は直木賞選考委員を務めている。
 また著者が手掛けた山田正紀の『おとり捜査官』シリーズは、徳間書店、幻冬舎文庫、朝日文庫と出版社を移して、三社からタイトル(題名の漢字)や装丁を変えて続いた。テレビ朝日からテレビドラマ化され松下由樹が主演し2017年現在で20作のロングシリーズとなる。初期作品の担当プロデユーサーは、のちに『相棒』シリーズの立役者となる松本基弘である。
著者は徳間書店の労働組合書記長も歴任した。徳間書店徳間康快社長は傑物だったが、日中合作の大作映画『敦煌』などに投資して膨大な借金を抱え経営危機に陥っていた。経営者側と労組の板挟みで疲れきっていた。
 そんな著者を、幻冬舎が招いて、七年間在籍した徳間書店から幻冬舎へ移動した。
幻冬舎社長見城徹は、安倍首相と懇意になっていく。だが芝田暁にとり活躍の職場となった。事実、国立感染研(旧国立予研)の主任研究員で敬虔なクリスチャンの新井秀雄が、内部から感染研の安全性に疑問を感じ『科学者として』を2000年11月に幻冬舎から出版。この科学者の学問的良心の著作は、芝田暁が応援したことと推測する。
 幻冬舎で著者は66冊の著作を編集者として尽力する。数々の取り組みに見城轍社長のもとで活躍しつづける。梁石日の『血と骨』は、徳間書店オピニオン月刊誌「サンサーラ」で連載されていた。今は休刊となったが、小生も月刊誌「サンサーラ」に関心をもっていた。著者と梁石日との交友は信頼感につながり、サンサーラ休刊後は、「『血と骨』の出版を幻冬舎から出させてください」という芝田暁の願いに梁石日は静かに笑いながら快諾した。
 1998年1月に発売されると、見城徹は朝日・読売・日経・毎日に全五段の広告を打ち、初版1万五千部は破格の部数だったが、十万部売れ重版された。その後山本周五郎賞を1988年3月に受賞した。『血と骨』は2004年11月に公開。その過程はかなり著者の制作構想や計画とは異なる力学で苦闘の中で映画化に辛酸を舐めたことが綴られている。それでも映画化を実現した崔洋一監督はじめ制作側裏方の奮闘を讃えている。
 著者は、幻冬舎文庫も創刊に取り組み、自社から出版した単行本の梁石日と浅田次郎の 二冊を文庫にする担当となった。
 毎日新聞社会部編『破滅 梅川昭美の三十年』を幻冬舎アウトロー文庫に収録した。この親本は1979年に晩聲社から出されている。晩聲社は幻冬舎アウトロー文庫に収録することを快諾。社長の和多田進は、芝田進午社会学部教授の教え子で、著者は自らが学生の時からの知り合いであったそうだ。
 徳間書店に続き、幻冬舎でも、宮崎学、大谷明宏、森村誠一など多彩な人物の著作を「共犯者」として尽力し続けた。
 幻冬舎を円満退社後に、自らの出版社「スパイス」を2004年に創業している。森村誠一の「写真俳句」など異例の売れ行きをおさめる。西村健の「笑い犬」も出版した。
出版不況下で、経営者としてたえず会社のやりくりに、睡眠や食事も不十分な過酷な日々が続く。2007年1月、スパイスを廃業した。

3:森村誠一と宮崎学のあたたかさ

 森村誠一の奥さんから真心のこもった御品と十万円をいれた封筒と手紙が添えられていた。
【引用】1
「この度のことは残念でしたけど、またいつかご一緒にお仕事できると信じています。本の出来栄えもさることながら、芝田さんが一所懸命に売ろうとしてくださった姿勢に、大出版社には無い熱いものを感じ、感動致しました。私達も長生きして、是非また芝田さんに本を作っていただくことを楽しみにしています。 森村」

  著者は、「編集者冥利に尽きると感じいってしまい、いくら感謝の言葉を思い浮かべようとしても適切な言葉が見つからず、ただただその場に呆然と立ち尽くした。」

【引用】2
 しばらくして宮崎学からも電話があって、
「おおっ、芝田。久しぶりだな。元気か?渡したいものがあるから全日空ホテルまで取りに来てくれ」と言われて何だろう、と思って宮崎が打ち合わせでオフィス代わりにしているラウンジに行くと宮崎が「取っとけ」と封筒を私に渡したので中身を開けると十万円が入っていた。
 私が恐縮して本当にすいません、助かりますとお礼を言うと、
「おおっ、芝田。男は会社を潰した数だけ大きくなるんだ。もう一回、出版社をやって何回でも潰せ!また良い本をつくろうな」
と宮崎学は笑顔で叱咤激励してくれた。
 私はうれしくて、
「いやあ、私は宮崎さんみたいには、とてもなれませんよ。とりあえずサラリーマンに戻ります」と笑って言い返した。

 私は宮崎学の器の大きさに改めて感動し、思わず涙腺が緩んだ。【引用終わり】

4:広範な影響
 著者はスパイス廃業後、ポプラ社一般書責任者を一年余り務め、2008年から朝日新聞社の出版部門が独立した朝日新聞出版の創業に合わせて入社し、文藝編集長などを経て宣伝プロモーション部に所属した。

 また、アメリカ在住の作家小手鞠るいは『炎の来歴』(新潮社)のあとがきを以下のように記している。著者が小手鞠るいの作品を編集したのは朝日新聞出版『私の神様』一冊だったが。
【引用】
 この小説を書いているあいだ中、私は、ひとりの女性が私たちに呼びかけてくる声を聞いていた。そして今も、彼女から届けられた命の言葉に感電したままでいる。

世界を
すべての人間が人間らしく
平和に生きる場所にするか
それとも破滅させるか
それを決める責任は
みなさんの手にあるのです。

 アリス・ハーズの残した書簡集『われ炎となりて』と、哲学者・社会学者であられた芝田進午氏の著書『ベトナム日記 アメリカの戦争犯罪を追って』を私にご提供くださった、芝田氏のご子息、芝田暁氏に心より感謝いたします。
2018年4月
                   小手鞠るい
【引用終わり】

5:継承者芝田暁
 芝田暁は、芝田進午の平和と人権の思想を見事に継承し、それを人々に伝えていた。
だが2016年に50歳でがんを発見。入退院を7回繰り返し、完治したと思えたが、2018年に再発し50日入院を余儀なくされた。
2019年6月に新宿で開催された第20回平和のためのコンサートでは、実行委員会の皆さんと芝田暁、芝田潤(芝田進午貞子ご長男)らご家族も受け付け会場で円滑な運営に携わっていた。出版のお祝をつげ、「書評を書いて送りますよ。」と付け加えた。氏は、穏やかな笑顔で頷かれた。

私は、2020年に芝田貞子様のはがきで喪中と知り、呆然とした。

芝田進午の「人類生存の哲学を求めて 実践的唯物論への道」を大衆文学の現場で見事に継承した。54歳の人生を、堂々と生き切った。私は学生時代芝田家を数度訪問したことがある。まだ小中学生期の潤さん、暁さんをお見掛けした。お二人の息子さんの爽やかで理知的な姿が彷彿とする。芝田進午のご著作の一節に、ベトナムがアメリカ帝国主義を破り、完全勝利をとげた時に、家族がベトナム支援の研究と実践を担い続けた父に皆でお祝いの場を設けてねぎらったエピソードが記されている。進午氏亡き後も貞子さんを中心に家族が「平和のためのコンサート」を20年間も持続している。そのひとりである芝田暁の死は哀しい死ではない。多くのひとびとに芝田家の平和と生きる権利のための営みを思い出させる想いの夭逝だ。  合掌

コメント(1)


WIREDさん

「イイネ」に厚くお礼申し上げます。

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