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芝田進午の人類生存思想と現実コミュの芝田進午氏と東京唯物論研究会その5

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5【「哲学の根本問題」について】
中村:平子さん、島崎さんのお二人とも疑問だと言われているのは、物質と意識の問題が先決問題であるということはどういう意味で、本当にそうなのかという問題ですよね。北村さんはやっぱり唯物論である限りは、それが先決問題であると。
北村:しかしそれは出発点にすぎないんです。私の実践的唯物論あるいは、実践的哲学というのは、そこから出発するんですよ。そして、基本的な考え方としては、理論と実践とを媒介とする実践化された哲学の地平では、もはや事実学と規範学との理論的分離が克服されており、常に、事実認識と価値判断との結合が図られている、それ故実践を志向する哲学は、決して単なる事実学にとどまるものではなく、同時に規範学であって、より正確に言えば、実践的哲学は事実の認識機能と事実に対する規範的批判的権能とを併せ持つというべきである、という考え方なんですよ。これは、マルクスにもエンゲルスにもあんまりはっきりと出ていなかった点です。当時のマルクス、エンゲルスの段階ではですね。哲学の規範的批判的な機能というのは、もちろんマルクスたちの思想の中にはあるんです。けれども、それが非常にポジティブな形では主張されてなかったんです。そういう意味でも、現代のマルクス主義というか、マルクス亡き後、マルクスになり変わってマルクス主義を発展させるという立場から、「実践哲学の復権」という主張をしたんです。哲学が、事実の認識と記述にのみ任務を自己限定し、いっさいの価値判断を断念するのであれ
ば、それは哲学の自殺を意味する、哲学の存在理由への疑念の多くは、哲学が規範的批判的権能を放棄しがちなところから生じている、現代の政治、経済、社会、技術の状況こそ、哲学にその規範的批判的権能の行使を求めているので、哲学は自らの規範的批判的権能を堅持することによってのみ、哲学の名に値すると、そこまで踏み込んで、考えております。
中村:すべての判断が価値判断であるというのは正しいと思いますが、物質が意識に先行するという「哲学の根本問題」の北村さん流の解釈では、違う形で立てられているんだと思うんですよ。
北村:事実学としての哲学というのは繋がっているんだと思います。哲学の根本問題を基礎にしているのですからね。ただね、哲学の根本問題では、規範的な主張というものがでてこないんです。それは接ぎ木しなければならない。私は「補完マルクス主義者」をもって任じています。
平子:北村さんに対する質問ですけれども、事実学と規範学の二つをあらかじめ区分して、そこから議論を出発させてしまう、このような枠組みを哲学に持ち込んだのは、新カント派です。マックス・ウェーバーもそうですが。しかし規範性を抜き取った事実だけをこちら側に置いて、反対側には事実学で扱う対象を全部抜き取られた規範だけが置かれる、それでは牛乳をクリーム部分と、脱脂部分とに分けるようなものです。ある論理操作が加わって初めて、規範と事実が分離されてくるのではないのですか。
つまり腑分けされる以前の生活過程を出発点として、事実と規範をめぐる諸問題を統一的に考察するという点が、初期マルクスの哲学構想の一番根本的なエッセンスですから、北村さんが、事実学と規範学を統一させると言われたのは、まさに『ドイツ・イデオロギー』の基本命題、それから、フォイエルバッハテーゼの基本命題であり、そこから規範性を消去してしまった哲学がマルクス・レーニン主義哲学なのです。あるいはもっとエンゲルスにまで遡ってもいいです。ですから、マルクスの思想、もっと遡れば、石川光一さんが研究されている一八世紀の唯物論的啓蒙思想を含めて、すべての哲学的命題は倫理性を持っ
ているという立場で一貫しているわけです。
北村:私もだいたい同じような考え方です。私はこう書きました。「マルクス主義は、科学性と実践性との統一を原理的に目指している。にもかかわらず、マルクス主義においてもしばしば両者の分裂が起こり、両極への偏向が生じ、それがさらに科学主義(例えばルイ・アルチュセール)と人間主義(ジョン・ルイス、プラクシス派など)といった潮流にまで、分岐するに至っている。このような理論状況をみるにつけて、哲学における科学性と実践性との弁証法的統一の必要性をますます痛感しないわけにはいかない。この課題はすべての哲学の死活を制するものと言っても過言ではない。今日哲学は現実の中で、生きた哲学としてのアイデンティティーを証す必要に迫られているが、それを果たすには、実践の優位のもとで哲学の科学性と実践性との統一を再確立することがどうしても要求されてくるのである」(『哲学と人間』)と。
ソ連の哲学は、多かれ少なかれ科学主義の色彩を帯びていました。七〇年代の「雪解け」の時代になると、倫理学・美学などが非常に台頭してきて、ソ連哲学の様相が相当程度変わりますけども、しかし、科学主義というのは、ずーっと底流にあったんです。
平子:それを克服されたいという気持ちは理解できます。しかし「科学性と実践性は分かれたものではなく、それを統一する必要がある」という表現が気になります。その場合、科学性とは何か、実践性とは何かが、すでに自明であるように語られております。ところが、科学性と実践性とははたして分離可能かということを考えていったら、右側には科学性、左側には実践性を置くという区分はできません。ですから、まずは科学性も実践性も含めた生活過程とでもいうような場面を思考の出発点としてきちんと設定して、そこから科学性として限定可能なものをどうやって抽象化するか、どういう手続きでそれを行うのか、そういうことを考察しなければならないと思います。
北村:もちろんそうですよ。
島崎:さっき僕が『ドイツ・イデオロギー』にそって述べたこと、つまり自然科学の真理性も、産業と交易という実践に媒介されて成立するということですね。
中村:そうなると、物質と意識の問題が先決問題であり、それに基いて事実の認識機能と事実に対する規範的機能を統一する、という北村さんの主張とはずいぶん違ってくるわけですよね。
北村:先決問題であるということは出発点であって、それですべてが済んでしまうというものではありません。認識論は哲学を方向づけますが、それ以上には出ません。
島崎:精神と自然、意識と物質、概念と実在の関係がそれぞれ認識論的といわれるとき、この精神、意識などは人間一般のそれであって、レーニン『唯物論と経験批判論』では、そうした問題設定になっています。しかし、よく読むと、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』では、世界を支配し規定するのは精神か自然かという、何か世界観的な設定になっている。前者は精神が世界を貫くという意味での、ヘーゲルらの客観的観念論の立場ですね。近代ではたしかに、人間の意識と物質という認識論的関係が重視されますが、しかしその背後には世界のあり方そのものの問題が隠れているわけです。ここで、認識の前提にある物質や外界は何ぞやという問いが成り立つはずで、さらに、エンゲルスによると、それは分からないというのが「不可知論」の立場であるわけです。だから以上の意味では、世界観的問題の枠内で認識論的設定があると考えていいのではないですか。エンゲルスはそののちに、精神と自然のあいだで、どちらが歴史的に最初かと問うているわけです。
北村:その通りであって、現実の生活過程というのは、物質的なものも意識的なものも一体になっているわけですね。そこから、やっぱり理論的な抽出ね、この理論的抽出ということが哲学の哲学たるゆえんだと思うんです。
島崎:その理論的抽出に関してですが、労働を考察するさいにも、自然を大前提に道具という物質的なものを媒介にするという自然中心の唯物論的見方と、労働で働く目的意識や自然支配に力点を置く(ヘーゲル的な)観念論的見方の両方が成立するのではないでしょうか。ここに唯物論と観念論のひとつの区別があります。
北村:私の佐藤批判論文の注ですけれど、佐藤さんの見解について私の見解を対置しているところがあります。佐藤さんは、唯物論の唯物論性は人間の歴史形成行為の中で初めて意味を与えられる、と主張していますが、これに対して、人間は自らの歴史形成行為、生産活動や労働を通じて外界の実在についての確信を得たのであって、だからこそ、外界の実在の理論的承認が唯物論と観念論を分かつ分水嶺としてすべての哲学者に突きつけられるに至ったのである、と私が批判しているんです。佐藤さんの議論は、人間の具体的な行為からの理論的抽出の意義を過小評価し、再び具体的行為に還元しようとの謬論に他ならない、しかし具体的な行為から、我々は理論的な抽出を行わなければならない、そうでなければ哲学にならない、というのが私の言いたいことなんです。
島崎:自然、精神、意識などの理論的抽出が必要というかぎりでは、おっしゃるとおりです。それでマルクスの理論的抽出の仕方こそが唯物論からのそれであって、それこそ合理的とみなされるわけです。つまり人間はまず観念や意識で生きているものではなくて、「一個の活動的自然存在」であり、『ドイツ・イデオロギー』では、生産関係の中ですでに結合している「現実的諸個人」にこそ注目し、そこから哲学、道徳、価値意識の生成を説いたわけです。理論的抽出とそこからの全体的再構成のあり方に哲学的営みがあるのでしょう。
北村:『ドイツ・イデオロギー』でも具体的な歴史的な生活過程のなかで、人間が労働し、生活しているということを前提にしながら、理論的な抽出を試みているわけですね。理論的な抽出という営為が、私は非常に大事だと思うんですけれどね。佐藤さんなんかは、理論的な抽出ではなくて、具体的な歴史的な行為に戻せと主張しているんです。
中村:ちょっと違うと思いますがね。
北村:いやいや、まさしくそうなんです。それが佐藤論文のキ−・ノートなんです。
島崎:結論的にいって、現実の世界観的認識を大前提として、認識論、弁証法という抽象的過程を扱う分野が抽出されるといってはまずいですか。
北村:佐藤さんはシュミットに依拠しているんだけど、シュミットまでいくと、物質じゃなくって質料であって、Materialismus はMaterial-Ismus(質料主義)だというんです。
島崎:僕はシュミットは不十分だと考えます。労働概念はマルクスだと二面的で、自然を素材にそれを目的意識的に変革していくという側面と、人間と自然の間の物質代謝の客観的過程という側面をもちます。
後者が現代のエコロジーで強調されているのですが、シュミットはこの後者の側面を承認できていません。
前者だけだと、人間は自然を支配するという(実践的)観念論になりかねません。マルクスの実践的唯物論では、環境問題への対応を含む物質代謝の議論があるのですが。
北村:佐藤さんはこういうことを言っているんですよ。「マルクスの唯物論はまさしく質料主義として、人間と自然との質料転換(物質代謝)を人間的自由の転換の場とするために、物質化された関係の廃絶を不可欠とする実践的唯物論だったのである。」これは、物質ではなく、質料だというシュミットなんです。
島崎:そうすると結局、「実践的唯物論」といわれる立場にもいろいろと細かな、ひょっとすると決定的な違いがあるわけですね。さらにそこを問題にすべきでしょう。僕は物質をアリストテレス的な単なる質料とは見ないで、自然(物質)を自己発展する力を内包するものと考えます。その自然の自浄能力を越えたところに環境問題が発生するわけです。
北村:今の議論ね、島崎さんが言われたことは、そんなに私とは違わないんだと思うんです。
島崎:僕自身はだから、認識論をマルクス主義の一番重要な課題としません。
北村:私だってすべて認識論に尽きる、というようには考えていませんよ。
島崎:それに尽きないというより、一番の課題ではないということではないでしょうか。昔は、弁証法・論理学・認識論がマルクス主義の最大の課題だったわけです。僕も専門的にやりました。
北村:哲学の根本問題の認識論的性格というのは、先決問題であるけれども、しかしそれは、出発点にすぎないんですよ。
島崎:その問題も根拠づけられなければと思います。先決といっても、先決にできない(笑)。
平子:物質一般と意識一般のどちらが先かという問題は、立場決定としてどちらが正しいのかということを果たして論証できるのでしょうか。定義の中に、物質とは意識から独立に存在するものであると定義してしまえば、これは論点先取ですから、物質が有利に決まってしまいます。
北村:論証の問題ではなくて、それは先ず人間的経験の問題ですよ。
平子:それでは佐藤さんと同じではないですか。やはり実際の経験に依拠して、哲学的な立場決定の核心が得られるということではないでしょうか。
北村:それはもちろん。だが終始経験のレベルにとどまっていては哲学にならないんですよ。
平子:ですけれども哲学的議論を展開するわけですから、それでは答えになりません。「終始経験のレベル」に留まっていたら、そもそも哲学的言説は生まれません。哲学への要求が、「経験のレベル」からいかにして、またなにゆえに、生まれてくるのか、それをきちんと哲学的に....反省することが重要なのだと、私は考えます。
島崎:そこでたとえば、フォイエルバッハの第二テーゼですが、人間の意識が真理に達するかどうかは実践の問題であるということで、実践が真理の基準だといわれてきたわけです。マルクス主義の真理性も単純に論証できないのではないでしょうか。本当にいい社会、共産主義社会が出てくれば、観念論は最終的に根拠を失うでしょう。論証、観察と実験は重要ですが、哲学は簡単に論証できないと。
平子:たとえば哲学の倫理性の問題などが入ってくるでしょう。
島崎:イデオロギーだから理論的に端的に決着がつかない。
北村:それは事実の問題と違いますからね。
中村:なにか空中戦模様になってきましたね(笑)。まだまだ、話し合いたいこともおありだと思います。そして、当初の予定では、これからの唯物論哲学研究のあり方などについても話題にしたいと考えていたのですが、予定の時間も大幅に過ぎていますので、それは別の機会にということで、今日はこれで終わりにさせていただきます。長時間、有難うございました。
2011年09月18日 08:58

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