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新・クラシックが好きだ!コミュのミニマルミュージックはお聴きになりますか?

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とあるネット古書店(CDやDVDも扱っている)で、CDのジャンル分けに気を向けると、スティーヴ・ライヒやテリー・ライリーが「イージーリスニング」「ヒーリング」扱いされていて、たいへん悲しい思いをしました。20世紀現代音楽の一分野として、確固たる一大潮流を起こし、その後のミュージックシーンにも大きな影響を与えた「ミニマルミュージック」がそんな扱いをされていて憤りを感じたものです。今、「ミニマル」を聴き直して、ミニマルミュージックの地位向上を一緒に、考えてみませんか?聴いていて気持ちいいですよ。

コメント(37)

テリー・ライリーの"in C"
グローバリゼーションによる均質化の一方で、あらゆる物がその出自のコンテクストを喪失し分断された状態の、その両方が混在し、交錯し、相克し、響き合い、ズレ、出会っては別れる。
現代社会の縮図そのもののような音楽に思えます。
ライヒの「ディファレント・トレイン」も、神無き時代の人類の叙事詩のように思えますね。
ところで、ミニマルミュージックって何なんですか?
よくわかりません。先日、E テレで久石譲さんが音楽について語られておりましたが、そのなかで確かミニマルが出てきました。彼のスタートはミニマルだったって。なんか延々ととしたリフレイン?果てどないフレーズの繰り返し?何故そうするの?そうしなくてはならないの?そこにどんな意味や狙いがあるの?土素人の僕にも解るように御説明願えませんか?
あ、そうた。この間、バッハミニマルというアルバム聴きました。凄く良かったです。ピアノデュオによる演奏かな。
>>[3]
 「バッハミニマル」が気持ち良く聴けたのなら、説明は不要かと思いますが、リフレインは基本的に「気持ちいい」ものです。
 今では無料で様々な演奏が、ネットで聴ける(観れる)ので、ミニマルミュージックやテリー・ライリー、スティーヴ・ライヒ等々キイワードにして、実際に聴いてみてください。気持ち良さが解る、と思います。
 理論的なこと、歴史的なこと等々知りたければ、躊躇わずググりましょう。
>>[4]
有り難うございます。
ご多用中の返信、感謝致します。
>>[3]


私はミニマル・ミュージックとは、単に、延々としたフレーズのリフレインやシークエンスではないと思っています。

時間の経過とともに、微かに変化する音程や音価あるいは音色。
ドゥルーズ言うところの「反復と差異」。

トニックからサブドミナント、ドミナントを経てトニックに解決する機能和声の展開、あるいは第1主題と第2主題の相克から解決に至るソナタ形式、それらの西洋近代音楽の「形式」とは全く異なる音楽の展開がミニマル・ミュージックにはあります。

喩えるなら、植物がゆっくりと細胞分裂を繰り返し、つる草を伸ばして、一見変化に気づかないようでも、ゆっくり徐々にその姿を変えていくその様を見るように、聴く。
そこには、西洋近代音楽としての「クラシック音楽」において大成した機能和声、調性システムやソナタ形式とはまた違ったドラマの展開があり、生命の営みを感じられるように思えます。
それは、異なる音楽間における優劣ではなく差異。

文化の中心は一つではなく無数に存在するという「構造主義人類学」の音楽版、という見方も可能でしょう。

「マタイ受難曲」がキリストの受難を描いたように、ライヒの「ディファレント・トレインズ」には、神無き時代の人間の受難が展開されているように思えます。

私はミニマル・ミュージックを、そのように捉えています。
>>[6]
有り難うございます。
参考になります。また、色々教えて下さいませ。
>>[6]
見て聴いてしまいました。
日曜夜のNHK E テレ。
スティーヴ・ライヒさんのダブルセクステッド!
もしや、あれがミニマル?楽しいですね。
ラベルのボレロのリズムの刻みの繰り返しは、ミニマルとは呼ばないのでしょうか?
メロディーが変化し過ぎるから駄目なのかしらん。
>>[8]
ミニマル・ミュージック。
近代西洋音楽の機能和声やソナタ形式の、主題や調が変奏、発展し、ドラマを生む推進力となって、進展・高揚していく。
その機能和声やソナタ形式の否定、「反復と差異」は、ある意味で近代西洋音楽と歩調を合わせる進歩史観、西洋的史観の否定、まさにポストモダンの音楽とも言えるでしょう。

その一方で、繰り返しによる一種の瞑想状態に誘う、トピ主のkawakamingさんが仰る「バッハミニマル」が気持ち良く聴けたのなら、説明は不要かと思いますが、リフレインは基本的に「気持ちいい」と、その状態に誘うものでもありますね。

加えて、アフリカのピグミーの、ユニゾンともポリリズムとも歌ともつぶやきともつかない民族音楽、あるいは川のせせらぎ、波の音、カエルの大合唱といった、はじまりも終わりもドミナントやトニックも、主題の展開もない自然現象の「サウンドスケープ」もまた、広義のミニマル・ミュージックとも捉えていいのではいいでしょうか。
もちろん「ボレロ」も。

ライヒ、86歳の今もなお現役でいるのは、このミニマル・ミュージックの持つ「心地よさ」「瞑想」あるからゆえのことという気もしますね。

ちなみに、今週のClassic TVは、ライヒと並ぶミニマルミュージック界の旗手テリー・ライリー。
こちらも楽しみです。
今日のClassic TVは、ライヒと並ぶミニマルミュージック界の旗手テリー・ライリー。
この番組の切り口には、時々疑問を感じたり、トホホになることもあるけれど、今日は無駄な要素を一切そいだミニマル・ミュージックをテーマにしていることもあって、シンプルにテリー・ライリーの魅力そのものに焦点を当てたもので、なかなか好感が持てる内容でした。

遠近法や明暗法、筆触分割などといった(西洋)絵画の技法。
対位法や旋法、和声学といった(西洋)音楽の技法。
それらのメソードやエクリチュールは、作品の仕組みや成り立ち、構成を把握するうえで、確かにより深い理解をもたらす契機にはなるでしょう。

しかし、メソードやエクリチュールといった尺度で捉え、その枠内に収めることと、「分かる」あるいは「楽しむ」こととは、また違うことのように思えます。

明確な始まりも終わりも無く、刻一刻と色彩と構図を変える夜明けや夕暮れの景色は、決して遠近法や明暗法を表現しているわけではないですし、対位法や旋法、和声学を知らなくても、カエルのオーケストラや川のせせらぎ、潮の満ちひき、波の間にまに「音楽」を感じることはできますし。

「音楽に浸ることで、私たちは自由になり、違う領域・次元の住人になれるのです」
〜テリー・ライリー

私は、ミニマル・ミュージックについて、詳しく存じている訳ではありませんが、
好きでよく弾く曲に、
ジェーン・カンピオン監督の映画『ピアノ・レッスン』のために、
マイケル・ナイマンが作曲した、『楽しみを希う心』(“The Heart Asks Pleasure First”)、
があります。

主人公の女性は、言葉を話さない代わりに、ピアノを弾き、自らの心の内を表現します。
奏でられる旋律は、ミニマルに繰り返される小規模な主旋律が、
音域を広く行き来するわけではないですが、
バリエーション豊かに、また繊細に、変化し、
静寂の中に住んでいるように見える彼女のうちにこもる、様々な情動を、
抉るように深く、またときに激しさをもって、聴く者の心に響かせます。

最近、ピアノの先生にご助言をいただき、
譜面の指示を全て拾い上げながら、演奏することがいかに難しいか、痛感しております。

ベヒシュタインのピアノは、その中低音域の、奥行きのある深い音色により、
ある種の「哀しみ」を、想像以上に表現しやすい、と個人的に思っており、
この曲をとりわけ、ベヒシュタインで自在に弾きこなせたなら、
自分でも大変、満足することこの上ないだろう、と思っております。

>>[12]
こんにちは。
お久しぶりですね(^^

>主人公の女性は、言葉を話さない代わりに、
>ピアノを弾き、自らの心の内を表現します

「言葉で伝えきれなくなったとき,音楽がはじまる」
〜ドビュッシーの言葉より。

言葉には言霊(ことだま)が、音楽には言語では伝えきれない自らの心の内「音霊(おとだま)」が宿るように思えます。
音に音霊を宿すのは、弾き手の思いと力量。
さささんの思いは「ミニマルに繰り返される小規模な主旋律」の繰り返しの中に、そしてベヒシュタインのピアノに、どのような移りゆく音の思いを乗せるのでしょうか?
私もそのような、自分だけの思いがこもった演奏ができるよう目指しています。

言語と,そして言葉で表現し得ないものを表現する芸術と,
私たちはその両方から,それぞれの魔力を得ることができますね。
マイケル・ナイマンも良いですね。昔、買ったOSTをCDの腐海(笑)に失くしてしまい、2枚目を仕方無く、買いました。今夜は「ピアノ・レッスン」を聴きながら眠るとするかな ?
>>[12]
ナイマンのピアコンをたまに聴いて、リフレッシュしております。
ベヒシュタインというピアノが最近話題になっていますが、ファツィオーリとはどのような違いがあるのでしょうか?
そう言えば、矢野顕子さんが現在、ベヒシュタインをお弾きになっているとか? ついこの間迄、ハンブルクスタインウェイを弾いていたのにね。
ところで、ベヒシュタインのピアノで弾かれたアルバムって何かご存知でしょうか?
よろしければご紹介下さいませ。
なんだ!ナイマンって良いのは「ピアノ・レッスン」だけじゃないか?! 慌てて何枚も買って損した〜(泣)。
>>[17]
こちらはいかがでしょう?
マイケル・ナイマン「数に溺れて」
vn:クレーメル
https://youtu.be/31KoFJTS0zI
>>[18]
ギドン・クレーメル好きなんで、何でも赦す!(何故か命令口調)
>>[12]
そう言えば、生前の坂本龍一さんが、酷くマイケル・ナイマンをこき下ろしていましたが、一体彼の作曲技法、曲調、センスの何に対しての批判だったのか?
亡くなってしまわれたので、その所以は謎のままです。
それにしても、彼ナイマンの担当するエキセントリックな映画音楽は、どれもこれも楽しい試みばかり。
大好きです。
>>[20]
坂本"教授"の「ナイマン批判」も興味深いですが、もう詳細を伺えないのは誠に残念ですね。
実は、私はスティーブ・ライヒ一本槍なので、ミニマル全般を語るには不向きかも知れませんが、ミニマルミュージックが無ければYMOもテクノも生まれなかったのではないか?と今、閃きました。(わお さんの音楽史講義に因るところが大きいんですけど)(笑)
>>[21]
坂本龍一の発言には時折気まぐれなものもあり(そんな所も含めて彼のファンではありますが(^^;) あまりその発言を大きく捉えない方がいいと思います。
実際、Live Earth東寺コンサートでは、共演こそなかったものの、YMOとマイケル・ナイマンが同じイベントでステージに立っていますし、楽屋を訪問したりしたそうですし。

さて、
>ミニマルミュージックが無ければYMOもテクノも生まれなかったのでは
ミニマルの要素は確かにありますよね。
YMOの凄さは、反復がもたらす「下半身モヤモヤ」の快楽のみならず、リズムマシンやシークエンサーによる機械のリズムを反復しても、その上の「人力演奏」部分では、1コーラス目と2コーラス目では、ベースもドラムもフレーズを全く変えているところにも見受けられます。
また、20世紀の音楽で20世紀という歴史を総括する坂本のオペラ「LIFE」では、同様に神なき時代の音楽の叙事詩とも言えるライヒの「ディファレント・トレインズ」が重要なモチーフのひとつになっています。

ところで、ミニマルをポピュラー音楽に取り込んだ際に、「どこで(あるいは、なぜ)反復を終わらせるのか?」という大きな問題が生じるのではないかと思います。

ラヴェルの「ボレロ」は、反復のたびに積み上げるものの質量が増していき、最後の最後でその積み上がった質量が全て瓦解し落ちてくるというドラマが生まれますが、それは「ボレロ」という音楽だからなしうること。

大団円で終わりを迎えるのは、機能和声の和声進行、あるいは主題の相克から解決に至るソナタ形式、それらの西洋近代音楽の形式とは全く異なる音楽の展開を目指したミニマルの本旨とは相容れないもの。
かといって、人間の耳が集中力を保っていられる5分以内で、反復をフェードアウトさせ終わらせるのは、あまりに安易な姿勢であるように思えます。

それに対する一つの解答:モチーフの反復の時間が少しずつズレていき、そのまま放置すればズレは広がるが、やがてまたズレは小さく収束し、同じタイミングに戻っていく。(赤信号で止まった2台の車が出すウィンカーの点滅が、最初は合っていても少しずつ徐々にズレていき、やがてまた再び同じ点滅のタイミングになっていくように)

ズレはズレのまま放置し、やがてズレがなくなった時点で終わりを迎える、という解答例を、坂本龍一の”hibari”という曲に見ることができます。
クラシックでもポピュラーでも限らず、ズレも不ぞろいもない、完成されたパッケージ商品としての「音楽」。
それに慣れてしまうことは、生物としての感覚が少しずつ失われていくような恐ろしさを感じずにはいられません。

例えばコンビニスイーツや、レトルト食品の味は、確かに美味いですね。
しかもコスパ、ハンパない。
それはある意味当然のことで、個人経営の店とは比較にならない膨大な額を投資して消費者の好みのデータ解析とリサーチ、そして商品開発を行い、完成された味を大量生産で提供するのですから。

しかし商品開発データに基づく、統一され均質化された、完成された味に、手作りゆえの不ぞろいな「味」はない。
今、まさにここで生まれたての「味」を味わうこともない。
全国どこのコンビニに行っても、クローンのように、全く同じクオリティを担保された商品が、全く同じ価格で提供されているということ、それは考えてみると、どこか非現実的で空々しい感じがします。

コスパの良さは、私たちの生物としての感覚を鈍らせてはいないか?と。

私が敬愛する音楽学者の岡田暁生は、規格と効率を重んじる近代社会にあっては、この音楽における規格外のズレ(音楽に限らず農産物でも工業製品でも、ひいては人の教育、育成においても!)を排除する方向に働くとする一方、ポストモダンの現代にあって、音楽における「ズレ」とどう向き合うか、どう対処するかについて
1.合わせること自体から逃避する
2.合うようになるまで待つ
3.厳格に管理されたスケジュール管理の厳密でグロテスクな戯画を見せる
4.ゆるやかにみんなでズレに流される
5.たとえズレていても自分のペースを守る
を例示しています(岡田暁生「音楽の危機〜第九が歌えなくなった日」より)。

私はこれに加え、
6.手作りならではのズレを楽しむ、味わう
という選択肢を選びたいと思います。
>>[23]
真面目な論考に感心しきりです。
そもそもミニマルMは何故成立したのでしょうか?
誰かに聴いて貰いたい、何の為に?自己満足、自己完結じゃ気がすまない。新しい音楽を他者と社会と共有したい。共感と喜び、快感、音楽がただただ心地良いだけではなく、苦悩も怒りも哀しみもない混ぜになった美醜を表現する以上、開かれた普遍的な芸術活動であることに変わりはない筈。
そして、洒脱である余裕。
野暮なことは言いっこなしよ。
ミニマルM は、僕にとって、鑑賞者としては、心地良く非現実へと誘う美しくポップな音楽であり、あまり悲痛なものであって欲しくありません。
ミニマルというなんとも可愛いらしい、チャーミングな響きが大好きです。
マキシマムじゃそうはいきませんもの。

今夜は、大貫妙子女史の過去のアルバム、クリシェを聴いています。坂本教授のプロデュース、極めてロマンティックな極上の美が全曲を支配しています。
もう何十年にも亘り聴き続けております。まぁ、ミニマルとは欠け離れてはいますけれど。
亡くなった坂本さんを想うと、予備校時代に遭遇したYMO やJ.レノンの死のラジオニュースが巡って来ます。

これから先、ミニマルMは、どこへ向かうのでしょうか?
>>[24]

>ミニマルMは何故成立したのでしょうか?
>これから先、ミニマルMは、どこへ向かうのでしょうか?

生物が海から陸に上がったように、
初期人類がアフリカを脱したように、
大航海時代には、遙か大海原を越え、
そして20世紀には、我々を大地に縛り付ける引力を振り切って宇宙を目指す。

それと同じように、ドミナントがトニックに向かう強大な調性の引力を振り切って機能和声の秩序を脱し、言わば音の無重力地帯、無法地帯である無調、あるいはミニマルの音楽を目指す。
その背景にあるのは、未だ誰もが聴いたことのない新鮮な驚きに満ちた「未聴の響き」を耳にしたい、そしてそこから何が得られるのか、自分がその音の環境下に置かれたとき、どうなるのか知りたい。

そんな自然な、そして当然な欲求ゆえのことと思えます。

ミニマルは、ペルトのティンティナブリ経由で、古楽に通ずるものがあるように思います。
機能和声による起承転結のドラマの推進力や、主題の提示と発展、第二主題との相克と止揚、そういった近代の進歩史観と並行する「推進力の音楽」「弁証法の音楽」クラシックに限らず世のほとんどの音楽形式を支配する、平均律と機能和声による「ワールドスタンダードもしくはデファクトスタンダード」とは無縁のものとしての。
↑ペルト「鏡の中の鏡)
vn:クレーメル

西洋の成長史観と共調する機能和声進行、主題の弁証法による発展とは真逆の脱近代、ポストモダン、転じて近代以前の古楽と親和する音楽。
>>[30]
良い曲ですね。
ミラーの中のミラー。
80年代銀座有楽町マリオンのエスカレーターホールの光景が想起されますね。
いや、そんな陳腐な景色なんて筈はなかろうが、ペルトにはアーバンなフィーリングはちょっと似合わないよう。プリミティブっていうか哲学的とは言わないまでも感性の自由を感じますね。
サイレンスが支配する闇夜を蠢く怪しい陰と言うか得体の知れない地球外生命体?というか。
面白い作曲家ですね。
クレーメルが好きそうな作曲家にピアソラもいますが、それとはちと違い静謐さが勝っています。
現代音楽とは言いながらもかなりロマンティックに感受出来ますが、新ウィーン学派なんかの影響もあるのでしょうか?
なんとなく親和性があるようなないような?
よーく解りません。
ペルトの作曲意図やその理想は何処にあるのでしょうか?
鑑賞者に一体何を訴えたいのでしょうか?
御本人にお聴きしたいものです。
せめて、アルバムライナーノーツには本人の筆で曲の意図を開陳して頂きたいものです。
音を聞きゃぁわかるだろう?
もう、そんな時代とはおさらばしなきゃね!
>>[32]
>ペルトの作曲意図やその理想は何処にあるのでしょうか?
>鑑賞者に一体何を訴えたいのでしょうか?
>御本人にお聴きしたいものです。

ペルト自身は「ティンティナブリ様式」という言葉で自作を語っていますね。
ティンティナブリ:鐘、鈴。
初期の多声音楽(オルガヌム)に用いられる、声部の短三和音という極単純な和声による古楽のように、近代の機能和声の持つドラマティックな物語の展開とは無縁の浮遊感。
倍音成分を豊かに含んだ、鈴や鐘の密やかで厳かな静謐な響きを思わせます。

鈴や鐘の響き、その澄んだ「音」には、「邪なるものを祓う力」があると考えられています。
その鈴の原型のような楽器が、「楽」という漢字の起源になったといいます。

神事の際に、どんぐりをつけた木を、乳幼児が遊ぶガラガラのように楽器として鳴らしていたことから「楽」という字が誕生したそうです。
「楽」の旧字は「樂」。
「白」の左右の「糸」の上半分、これが、どんぐりを繋げていた糸飾りを表すとのこと。
下半分の「木」は、神事の際に巫女が手に持つ鈴のグリップ部分。

「音」という字は「言」から転じた「人と神の声」を、そして「楽」の字は「楽器の音」を表すもの。
その二文字を合わせて「音楽」。
声や音は、邪気を払い人々に吉をもたらすものであることから、後に「楽」という漢字に「たのしい」という意味が当てはめられたと。

こんな音楽の「原型」のような姿に思いを馳せるのも、ミニマル・ミュージックの一つの聴き方かと思えます。
「テリー・ライリーと久石譲が9月22、29日の2週にわたりEテレ「スイッチインタビュー」で対談!」
顔まで似てきた(^^;

https://tower.jp/article/campaign/2023/09/21/01?kid=pim230921ppcl0104&utm_source=dm&utm_medium=email&spMailingID=7765378&spUserID=MjU1NDg5MDY1NzIS1&spJobID=2040214168&spReportId=MjA0MDIxNDE2OAS2
>>[35]
各界のトップランナー同士が2週に渡り、互いにインタヴューし合う、対談の異種格闘技戦「スイッチインタヴュー」。
今回もなかなかよい企画です。

同じ業界の作曲家同士という組み合わせは、今まであまりなかったですが、ミニマムミュージック界の大御所に敬意を払う姿勢が感じられましたね。
テリー・ライリーはコロナ以来日本に住んでるらしいですねw
この間まさかのクラシックTVにも出てたし

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