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愛を哲学するコミュの【考察1】:西田幾多郎の『善の研究』にみる、理想の愛

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西田幾多郎は、日本を代表する一人の哲学者です。
wikipediaにおいては次のように説明されています。
「(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本を代表する哲学者。京都大学教授、名誉教授。京都学派の創始者。学位は文学博士(京都大学・1913年)。」


彼の代表的著作に、『善の研究』というものがあります。
「石川県宇ノ気町森(現在かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。江戸時代西田家は、十村(とむら)(大庄屋)を務めた豪家だった。若い時は、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、学歴での差別(東京大学における選科〔聴講生に近い立場〕への待遇)、父の事業失敗で破産となり、妻との一度目の離縁など、多くの苦難を味わった。そのため、大学卒業後は故郷に戻り中学の教師となり、同時に思索に耽った。その頃の思索が結晶となり、『善の研究』(弘道館、1911年1月)に結実、旧制高等学校の生徒らには代表的な必読書となった。」(wikipediaより)


この『善の研究』は、もともと西田幾多郎が旧制高等学校の生徒に向けて倫理の授業を行う中で、生きる指針を説いたものが、原案となっていると聞いております。




 ※ ※ ※




この書の中から、西田幾多郎が「愛」についていくつか述べている箇所をご紹介いたします。
なお、【】は本文に私が付けています。強調したい部分です。




・まずは、『善の研究』における全体的な文脈をご紹介するべきでしょう。西田幾多郎は、唯一の実在(確かなもの)を「純粋経験」という独自の概念(精神世界、物質世界の区別が成される以前の実感の世界)を用いて打ち立てました。そして、その純粋経験を出発点に、世界の全てについて説くことを試みました。

その世界の成り立ちに関する文脈において、「第二編・実在 第十章・実在としての神」、の中で次のように記します。



「・・・・曩(さき)にいったように、我々の欲望は大なる統一を求むるより起るので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人の自愛というも畢竟(ひっきょう)此の如き統一的要求にすぎないのである。然るに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するものではない。更に進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表わし他人と自己との一致統一を求むるようになる。我々の他愛とはかくの如くして起ってくる超個人的統一の要求である。故に【我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。】而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。」(青空文庫より)





・西田幾多郎は、世界の全てをまず明らかにした上で、それを理解した者がなすべき実践について説くという順序を踏みます。これは、真に知るものは、実践を伴い、逆に真に知らなければ実践ができない、という西田幾多郎の配慮によるものです。
そして、西田幾多郎は、実践の問題として、「善とはいかなるものであるか」、「善行為とはいかなる行為であるか」を説きます。

このような文脈の中で、「第三編・善 第十章・人格的善」において次のように記されています。



「・・・意識は同列なる活動の集合ではなくして統一せられたる一体系である。その調和または中庸ということは、数量的の意味ではなくして体系的秩序の意味でなければならぬ。然らば我々の精神の種々なる活動における固有の秩序は如何なるものであるか。【我々の精神もその低き程度においては動物の精神と同じく単に本能活動である。即ち目前の対象に対して衝動的に働くので、全く肉欲に由りて動かされるのである。】しかし意識現象はいかに単純であっても必ず観念の要求を具えて居る。それで意識活動がいかに本能的といっても、その背後に観念活動が潜んで居らねばならぬ(動物でも高等なる者は必ずそうであろうと思う)。【いかなる人間でも白痴の如き者にあらざる以上は、決して純粋に肉体的欲望を以て満足する者ではない、必ずその心の底には観念的欲望が働いている。即ちいかなる人も何らかの理想を抱いて居る。】守銭奴の利を貪(むさぼ)るのも一種の理想より来るのである。つまり人間は肉体の上において生存しているのではなく、観念の上において生命を有して居るのである。ゲーテの菫(すみれ)という詩に、野の菫が少(わか)き牧女に踏まれながら愛の満足を得たというようなことがある。これが凡ての人間の真情であると思う。そこで観念活動というのは精神の根本的作用であって、我々の意識はこれに由りて支配せらるべき者である。即ちこれより起る要求を満足するのが我々の真の善であるといわねばならぬ。然らば更に一歩を進んで、観念活動の根本的法則とは如何なる者であるかといえば、即ち理性の法則ということとなる。理性の法則というのは観念と観念との間の最も一般的なる且つ最も根本的なる関係を言い現わした者で、観念活動を支配する最上の法則である。そこでまた理性という者が我々の精神を支配すべき根本的能力で、理性の満足が我々の最上の善である。何でも理に従うのが人間の善であるということになる。・・・」(青空文庫より)






・また、同じ実践の文脈の中で、「第三編・善 第十一章・善行為の動機(善の形式)」において次のように記されています。



「 上来論じた所を総括していえば、善とは自己の内面的要求を満足する者をいう・・・・。
 右の考よりして先ず善行為とは凡(すべ)て人格を目的とした行為であるということは明(あきらか)である。人格は凡ての価値の根本であって、宇宙間においてただ人格のみ絶対的価値をもっているのである。我々には固より種々の要求がある、肉体的欲求もあれば精神的欲求もある、従って富、力、知識、芸術等種々貴ぶべき者があるに相違ない。しかしいかに強大なる要求でも高尚なる要求でも、人格の要求を離れては何らの価値を有しない、ただ人格的要求の一部または手段としてのみ価値を有するのである。富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるのではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現其者(そのもの)を目的とした即ち意識統一其者の為に働いた行為でなければならぬ。
・・・(中略)・・・
 然らば真に人格其者(そのもの)を目的とする善行為とは如何なる行為でなければならぬか。この問に答うるには人格活動の客観的内容を論じ、行為の目的を明にせねばならぬのであるが、先ず善行為における主観的性質即ちその動機を論ずることとしよう。善行為とは凡て自己の内面的必然より起る行為でなければならぬ。・・(中略)・・人を欺くのが悪であるというは、これより起る結果に由るよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である。
・・・・(中略)・・・・
 自己の真摯(しんし)なる内面的要求に従うということ、即ち自己の真人格を実現するということは、客観に対して主観を立し、外物を自己に従えるという意味ではない。自己の主観的空想を消磨し尽して全然物と一致したる処に、かえって自己の真要求を満足し真の自己を見る事ができるのである。一面より見れば各自の客観的世界は各自の人格の反影であるということができる。否各自の真の自己は各自の前に現われたる独立自全なる実在の体系その者の外にはないのである。それで如何なる人でも、その人の最も真摯なる要求はいつでもその人の見る客観的世界の理想と常に一致したものでなければならぬ。たとえばいかに私欲的なる人間であっても、その人に多少の同情というものがあれば、その人の最大要求は、必ず自己の満足を得た上は他人に満足を与えたいということであろう。自己の要求というのは単に肉体的欲望とかぎらず理想的要求ということを含めていうならば、どうしてもかくいわねばならぬ。【私欲的なればなる程、他人の私欲を害することに少なからざる心中の苦悶を感ずるのである。かえって私欲なき人にして甫(はじ)めて心を安んじて他人の私欲を破ることができるであろうと思う。それで自己の最大要求を充(みた)し自己を実現するということは、自己の客観的理想を実現するということになる、即ち客観と一致するということである。この点より見て善行為は必ず愛であるということができる。愛というのは凡て自他一致の感情である。主客合一の感情である。】啻(ただ)に人が人に対する場合のみでなく、画家が自然に対する場合も愛である。」(青空文庫より)





・さらに、「第三章・善、第十二章・善行為の目的(善の内容)」において次のように記されています。




「 人格その者を目的とする善行為を説明するについて、先ず善行為とは如何なる動機より発する行為でなければならぬかを示したが、これより如何なる目的をもった行為であるかを論じて見よう。

・・・・(中略)・・・・それで【我々は先ずこの個人性の実現ということを目的とせねばならぬ。即ちこれが最も直接なる善である。】・・・・

 しかし余がここに個人的善というのは私利私欲ということとは異なっている。個人主義と利己主義とは厳しく区別しおかねばならぬ。【利己主義とは自己の快楽を目的とした、つまり我儘(わがまま)ということである。個人主義はこれと正反対である。各人が自己の物質欲を恣(ほしいまま)にするという事はかえって個人性を没することになる。豕(ぶた)が幾匹いてもその間に個人性はない。】また人は個人主義と共同主義と相反対するようにいうが、余はこの両者は一致するものであると考える。一社会の中にいる個人が各充分に活動してその天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全なる社会といわれぬ。
・・・(中略)・・・

 右にいったように真正の個人主義は決して非難すべき者でない、また社会と衝突すべき者でもない。しかしいわゆる各人の個人性という者は各独立で互に無関係なる実在であろうか。或はまた我々個人の本には社会的自己なる者があって、我々の個人はその発現であろうか。もし前者ならば個人的善が我々の最上の善でなければならぬ。もし後者ならば我々には一層大なる社会の善があるといわねばならぬ。余はアリストテレースがその政治学の始に、人は社会的動物であるといったのは動かすべからざる真理であると思う。今日の生理学上から考えて見ると我々の肉体が已(すで)に個人的の者ではない。我々の肉体の本は祖先の細胞にある。我々は我々の子孫と共に同一細胞の分裂に由りて生じた者である。生物の全種属を通じて同一の生物と見ることができる。生物学者は今日生物は死せずといっている。意識生活について見てもその通である。人間が共同生活を営む処には必ず各人の意識を統一する社会的意識なる者がある。言語、風俗、習慣、制度、法律、宗教、文学等は凡てこの社会的意識の現象である。我々の個人的意識はこの中に発生しこの中に養成せられた者で、この大なる意識を構成する一細胞にすぎない。知識も道徳も趣味も凡て社会的意義をもっている。最も普遍的なる学問すらも社会的因襲を脱しない(今日各国に学風というものがあるのはこれが為である)。いわゆる個人の特性という者はこの社会的意識なる基礎の上に現われ来る多様なる変化にすぎない、いかに奇抜なる天才でもこの社会的意識の範囲を脱することはできぬ。かえって社会的意識の深大なる意義を発揮した人である(キリストの猶太教(ユダヤきょう)に対する関係がその一例である)。真に社会的意識と何らの関係なき者は狂人の意識の如きものにすぎぬ。
・・・(中略)・・・・

 かく社会的意識なる者があって我々の個人的意識はその一部であるから、我々の要求の大部分は凡て社会的である。【もし我々の欲望の中よりその他愛的要素を去ったならば、殆ど何物も残らない位である。我々の生命欲も主なる原因は他愛にあるを以て見ても明である。我々は自己の満足よりもかえって自己の愛する者または自己の属する社会の満足によりて満足されるのである。元来我々の自己の中心は個体の中に限られたる者ではない。母の自己は子の中にあり、忠臣の自己は君主の中にある。自分の人格が偉大となるに従うて、自己の要求が社会的となってくるのである。】
 これより少しく社会的善の階級を述べよう。社会的意識に種々の階級がある。【そのうち最小であって、直接なる者は家族である、家族とは我々の人格が社会に発展する最初の階級といわねばならぬ。男女相合して一家族を成すの目的は、単に子孫を遺(のこ)すというよりも、一層深遠なる精神的(道徳的)目的をもっている。】プラトーの『シムポジューム』の中に、元は男女が一体であったのが、神に由って分割されたので、今に及んで男女が相慕うのであるという話がある。これはよほど面白い考である。人類という典型より見たならば、個人的男女は完全なる人でない、男女を合した者が完全なる一人である。オットー・ヴァイニンゲルが「人間は肉体においても精神においても男性的要素と女性的要素との結合より成った者である、両性の相愛するのはこの二つの要素が合して完全なる人間となる為である」といっている。男子の性格が人類の完全なる典型でないように、女子の性格も完全なる典型ではあるまい。男女の両性が相補うて完全なる人格の発展ができるのである。・・・・」(青空文庫より)





 ※ ※ ※



少し長い引用となってしまいましたが、ここには確かに、西田幾多郎がかくあるべき愛として説く「他愛」を読み取ることができます。

多くの思想や宗教において、「他愛」に類似する概念は共有されているのではないでしょうか。
その確認としてご自身の拠り所とされている思想などあれば、ご紹介下さいませ。

また、具体的に、私たちの生活の中で、このような西田幾多郎の述べる「他愛」を実践することが、どのようなものなのか、どうすればよいのか、お話できればと思います。




以上です




PS 『善の研究』もネットで全文無料で読むことができます。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&rct=j&url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card946.html&ved=0ahUKEwj0tZLhvsvRAhXHybwKHZYHBNEQFggaMAA&usg=AFQjCNEi0dp8JGA-e5UM7G8wsVGvpS1o0A&sig2=rDzy5hbThH8LI2QZvxCXqA

ただ、講談社学術文庫として出されている解説付きのものが、読みやすくて私は好きです。



コメント(19)

>「我々の欲望は大なる統一を求むるより起るので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人の自愛というも畢竟(ひっきょう)此の如き統一的要求にすぎないのである。然るに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するものではない。更に進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表わし他人と自己との一致統一を求むるようになる。我々の他愛とはかくの如くして起ってくる超個人的統一の要求である。故に【我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。】而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。」


ここで言われる欲望とは私たちのさまざまな欲望のことではなく、一切の統一へと向かう深い欲望、エロスのことですね。そこに至るまでは私たちは真実には満足できない。苦しみを抱え続けることになる。
個人的領地をいくら拡げようと、個人の限界にとどまる限り、このエロスの渇望はとどまることがない。
最終的には一切と自己が同一となる神的愛が実現してこそ私たちに最終的愉悦が実現する。
これは、越えがたい個人の壁を超えてゆく人間成長のプロセスである。
>「意識は同列なる活動の集合ではなくして統一せられたる一体系である。その調和または中庸ということは、数量的の意味ではなくして体系的秩序の意味でなければならぬ。」


本当に西田さんは全然古くない。私たち日本人にとっては、その日本語の古さのせいで、外国のもっと古い思想家の言葉が邦訳されるのに比べて、ずっと古く、近寄り難く感じてしまうのだ。
西田さんは素晴らしいトランスパーソナル心理学者だとも言える。
>>[1]

ご指摘頂いた「欲望」を、私はアガペーに近い概念に思います。

むしろ、「・・・【我々の精神もその低き程度においては動物の精神と同じく単に本能活動である。即ち目前の対象に対して衝動的に働くので、全く肉欲に由りて動かされるのである。】」における「肉欲」が、エロスに近い概念ではないでしょうか。

とはいえ、エロスの中にも純愛にまで昇華しうるものがあると信じたいところですが、その意味でエロスというならば、同感です。このようなエロスは、もはや心身が一致して実現したアガペーとも言えると思うところです。

まだまだ、予感すらできない男女の愛の境地ですが、目指して行きたい境地に思います。
G.L.Eさんのお陰で、ぜひともまた『善の研究』を読んでみたいという気持ちになり、手持ちのそれをようやく見つけ出すことができた。
そこで早速、このトピックでG.L.Eさんが引用されている第2編第10章「実在としての神」 から読んでみました。

私たちは自然と精神という二つの実在があると見ているけれども、この二つは実は一つの実在を見る視点によって生じている区別なのだと西田さんは言う。
それは自然をより深く観察したなら、その根底に精神的統一があることによって、あるいは精神についてより深く観察したなら、まさに自然と合一した精神が立ち現れることによって理解されるのだという。
その結果、自然と精神という二つの実在があるものと見られていたのが、実は浅い理解であったということに私たちは気づかされ、ただ一つの実在があるばかりだということに思い至る。
どのような実在か。
一方においては無限に対立衝突するものであり、他方において無限なる統一であるような、いわば独立自全なる無限の活動という体の実在だと西田さんは言う。
主観と客観、すなわち精神と自然とに分裂する以前の唯一なる実在、それこそこの無限なる活動であり、これこそ私たち人間が神と呼んできたものの正体だと西田さんは言う。
しかしもちろんここで指示されている神は、キリスト教神学やその他の宗教が言う神とは必ずしも同一でないかもしれない。しかし、西田さんによれば、おそらくどんな宗教の神も、根底的にはこの西田さんが言う意味での神に立脚せざるをえないのだ。
原初の神の姿(真に神と呼ばれるにふさわしいものの姿)を西田さんは描き出したのだと言えるだろう。
>>[5]
西田幾多郎は、神を「宇宙の根本」という表現をされますよね。

「おそらくどんな宗教の神も、根底的にはこの西田さんが言う意味での神に立脚せざるをえないのだ。 」ー私は、このことを肯定したいと思います。

現にスピリチュアルリズムにおける神観は、各人の内に宿る神性から、この世界の大自然、全宇宙のあらゆる細部と最果てに存在する宇宙の法則が、すなわち神であるというもので、西田幾多郎の世界観と符号すると私は感じます。
西田さんは神という言葉がこれまでさまざまな文化や地域においてどのように考えられてきたかを振り返る。
宇宙の外に人間と同じような姿かたちで立ちながら、この宇宙を支配する者とイメージされたり(キリスト教を主に考えているだろうか)、
物体物質こそ唯一の実在であって宇宙の根本とは物体物質の力に他ならないと考えられたり(現代の科学主義を言っていようか)。
そして西田さんはアートマンとブラフマンの一致を説くインドの信仰にこそ深い共感を寄せている。
続いて西田さんは、神の存在証明に関する種々の議論を振り返った後、それらはどれも間接的に外から証明しようとするもので不十分な証明だとし、
自己の直接経験において内から神の存在を証明する道を検討する。

西田さんは言う。時間と空間に束縛された小さき我々の胸の内に、この宇宙のあらゆる実在を統一する無限の力を見出すことができるのだ、と。
人間が自己の心底に見出すこの統一力こそ神に他ならないと。
>>[8]
それこそ、西田幾多郎が『善の研究』を通じて、生きる指針を求める若者に伝えたかったことの神髄なのだと思います!!
>>[9]

神をどこに見出すかというのがそのまま存在証明の問題につながってくるわけですが、西田さんは外界の事実や宇宙の外に神を求め証明しようとする道を丁寧に反駁した後、
神は自己の内心における直覚として初めて真に証明されるのだとしていますね。
そしてそのような神を内心の直覚において見出す道は、「上古におけるインドの宗教および欧州の15、16世紀の時代に盛んであった神秘学派」のものでもあると西田さんは言っていますね。
78910さん、


(その記述を確認していませんが・・)

瞑想や祈り、他者との出会い、大自然との触れ合いを通じて、自己の内に神を見出だす(そう感じる)営みは、何千年もの間人種や文化を問わず人類が絶えず行ってきたことだと思います。

しかし、これは内面的信仰の領域であって、信じるか、否かという宗教に留まっていたと思います。

ここにおいて、西田幾多郎は、「純粋経験」と名付けた唯一実在を起点として、自己の内心の直覚において神を見出だす道(、その先で生きる指針とすべき善行の内容)を説きました。

これにより、内面的信仰の領域に留まっていた神の実在は、学問・論理の世界へと昇華されたのだと思います。

この点に、私は、西田幾多郎哲学に対して、 「上古におけるインドの宗教および欧州の15、16世紀の時代に盛んであった神秘学派」とは歴然と異なる意義を感じております。

>>[11]

>しかし、これは内面的信仰の領域であって、信じるか、否かという宗教に留まっていたと思います。ここにおいて、西田幾多郎は、「純粋経験」と名付けた唯一実在を起点として、自己の内心の直覚において神を見出だす道(その先で生きる指針とすべき善行の内容)を説きました。


「古代インドの宗教や15、16世紀の西洋の神秘主義を西田さんが例として挙げているのはあくまでも自らの直覚でなしに信じ込む宗教のあり方だったというもので、西田さんの自らの内心で直覚する道とは違うんじゃないか」とおっしゃっているのでしょうか。
いやいや、そうではないでしょう。
この二つの例について西田さんは「これが最も深き神の知識であると考える」と自分の見解を述べています。
第2編第10章です。
>>[12]

帰って書を確認します。
少し、誤解を与えかねない記述であったとお詫びします。


「古代インドの宗教や15、16世紀の西洋の神秘主義」に留まらず多くの人類の内面的信仰の営みと、西田幾多郎の示す事柄の内実は、符合するのだと思います。

ただ、学問として理論を用いて説いた点に、西田幾多郎哲学の意味があると考える、と申し上げた次第です。
>>[12]

いま思ったのですが、私は帰って書を確認してみても、貴方にお返事することがございません。
なぜなら、貴方は、もう既に西田幾多郎哲学の心を理解しておられると感じるためです。

このコミュニティーで私が、西田幾多郎哲学や、スピリチュアルリズムや、聖書の聖句を取り上げているのは、未だ生きる指針を見出だせていない方に何かしら一つでも思想的足場と出会う機会が提供できれば幸いとの趣旨です。
西田幾多郎哲学の内容に踏み込んで、各概念、各記述の意味を探求する目的ではございません。(それらが分からないために西田幾多郎哲学の本旨に出会えない方に対して、説明してゆくことは惜しみませんが)

私が知らない、チベット仏教や、密教、イスラム教、ヒンズー教、各種哲学などでも、その心は同じなのではないか、と予感しています。

この場所では、皆様のご協力を得ながら、こうした様々な思想を総動員して、私たちの日常生活において生きる具体的指針を見出だして行ければと思っています。
ご理解頂けると幸いです。
>>[13]

いかなるものを神ととらえ、いかなる方法でそれを証明しうるかということについて確かに古代インドの宗教や15、16世紀の西洋の神秘主義は最も深い神の知識を得ていたけれども、それらはそれぞれの文化的特性、地域的特性の中でそれを言語化しているばかりなのに対して、
西田さんはそういう文化的制約や地域的制約を超えた言語化・概念化を行おうとしたのだと思います(G.L.Eさんが言うところの学問とはそういうことですね)。
>>[14]

>私が知らない、チベット仏教や、密教、イスラム教、ヒンズー教、各種哲学などでも、その心は同じなのではないか、と予感しています。


各種哲学でも同じではないかと広げ過ぎてしまうと、また難しい問題も出てきてしまうかもしれませんが、
西田さんの意図がさまざまな宗教の根幹を概念的に明らかにしたい、さまざまな宗教における真実性の共通のところをつかみ出してみたい、という所にあっただろうことは僕も疑わないものです。
>>[15]

肯定です。

『善の研究』における本旨を、倫理の授業で若者に説くに当たり、西田幾多郎は生徒全員で座禅を組み、瞑想を実践するという方法も選択し得たのだと思います。

しかし、西田幾多郎は、論理を用いて理性に訴える方法で、「文化的制約や地域的制約を超えた言語化・概念化を」行い、若者に対して生きる指針を示した。
この理論が学問として受け入れることが出来る程、高度で緻密なものであったため、時代を超えて私たちの理性的・宗教的欲求を満足させ、生きる指針を与えてくれている。
こうした意味で、西田幾多郎哲学の意義は大きい、ということであります。
>>[17]

西田さん自身はもちろん座禅によってつかみうる所に疑いはなかったのだろうと思いますが、西洋哲学への知的関心も並大抵じゃなかったんだろうと思います。
そして、もしもどちらにも真実性があるとしたら、真実は決して分断されて立つようなものでなく、真に世界性、普遍性を持つはずだと直観されていたと思います。
それがついには純粋経験をもって一切を説明してみたいという気持ちとして吹き出したのだと思います。
座禅で味わうような純粋経験によって、西洋哲学が論じてきたようなことは一切説明できる!
>>[18]

カントやキルケゴールなど、私も好きなのですが、愛というテーマから、そのうち考察出来たら良いなと思います。
ニーチェなどは、興味はあるのですが、敬遠したまま今にいたります。
これもまた具体的な考察を、いつか出来れば良いなと思います。

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