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哲学 Φιλοσοφιαコミュのデイヴィッド・ヒュームの哲学

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デイヴィッド・ヒューム(David Hume 1711 - 1776)

スコットランドの哲学者。ロック、バークリー、ベーコン、ホッブズと並ぶ英語圏の代表的な経験論者であり、生得観念を否定し、経験論・懐疑論・自然主義哲学に絶大な影響を及ぼした。歴史家、政治思想家、経済思想家、随筆家としても知られ、啓蒙思想家としても名高い。

主著『人間本性論』1739年

コメント(15)

緩い因果関係には自然の斉一性は必要ないと言われればその通りだと思いますが。科学が成立するためには自然の斉一性は必須条件です。精密な装置を正確に作動させるには自然法則も厳密でなくてはなりません。同じ条件ならば自然は同じように振舞うという保証がなければ、有人ロケットに乗り込むほどの勇気あるパイロットはいないでしょう。
ロケットだろうと原子力プラントだろうと、機器が計算通り正確に動作するということが前提。
「機器が計算通り正確に動作する」ということは物理法則に従って動作するということ。物理法則にしたがうということは、同じ条件なら同じことが起こるという自然の斉一性を前提としてはじめて言えること。
機器が計算通りに作動するだろうということが信じられなければとてもロケットには乗れない。
他のトピでも似た話しが出てましたが、ロケットの計器が毎回同様に計測する事やロケットの安全性への信頼度、というのは、自然の斉一性を踏まえて妥当つける・評価しているのはその通りだと思います。
同じ環境条件なのに計測のたびに物理法則が変化して答えが変わってしまったら、それは計器として役に立たない事になりますね^^

一方で「万物流転」「諸行無常」という考え方もありますね。こちらは同一性の話しではありますが。
たしかにそれを踏まえるとするならばBETAさんがおっしゃる「類似性」はそうした事柄を指す事ができるかもしれませんね。

確かに私たちは物事の「パターン」から類似性を見い出します。
しかし、実際には「それぞれのパターンが同一のものである」と言う事は、不確定性原理を踏まえるならば、言う事ができなくなりますね。
恐らくそれは「同条件」という規定ですら「同一」を再現する事はできない事になるでしょう。

つまりここで私たちは、物事を考える際に、暗黙の内に理論値(頭の中の知性による理論構築)を想定・仮定して物事を見ている事になりますね。
実際には「同一ではない物事」を「同様のパターン」として処理しているわけですから。
科学、というか、「帰納による推論」において、類似する「現象A」と「現象A'」が同一であるかどうかが問題なのではない。
帰納によって得られたデータにより、「現象A」の傾向がわかり、そこから「なぜその様な傾向を示すのか」を解明する事が肝要なのだ。

知られる通り、「帰納による推論」は傾向としてしか推測できない。「AならばB」という結果(データ)を重ねる事によって、「Bとなる傾向」を"推測・推論"しているにすぎない。
その推測・推論によって「仮説」が形成される。(どなたかが言っていた。これを「アブダクション」と言うのだと)

しかし推論だから・論理的な根拠ではないからと言って、何でもかんでも懐疑して却下していたのでは、柔軟な思考はもちろん生まれません。
「現象A」が現実として発生したという"事実"から、仮説形成して検討を行うのは、むしろ健全な推察・手法としての方法だと思います。

ここで重要なのは「帰納による推論」は、やはり「一つの仮説」でしかない。ということです。
つまりこの時点では、「現象A」がなぜ「AならばB」なのか。という事を(帰納の論理構造的な性質に沿って)「論理的に論証してない」し「実証」もされてないと言わざるを得ないのだとしたら、それは全くその通りです。

単にまた「現象A」と類似する「現象A'」が起きれば、推測によりまた「AならはB」が「きっとまた起きる"かも"しれない」という事しか、この時は言えてません。
(ここで「公理:自然の斉一性」を持ち出して「現象A」は公理によって認めるという事もできる。信じている。というだけならば←しかしそれが科学的態度だとは私は思わない)

そこで、どうして「現象A」の時に「AならばB」となるのかを論理的に説明する必要がある。(ここではまだ「論証的に」とまでは行ってない)

でも別に説明するだけなら、それが"科学"である必要はない。信仰でも思想でも哲学でも、コジツケだろうと、論理を用いてどの様にでも言う事はできる。(逆に言えば「自然の斉一性」は科学だけに限定される特性ではない。これらを考えると、そこに「普遍性を見い出そうとする」のは、人の感性が持っている特性だと言える)

なので科学は「立てた仮説が、どの程度の確度・妥当性をもっているか実証によって検討する」("論証"ではなく"実証"である)
仮説による説明がどの程度の確度・妥当性を持っているかを「実際に色々な方法を用いて試す(実験する)」事で、「ああ、これは確かだね(妥当性)。誰が見ても(客観性)・誰がやっても同じ様になるね(再現性)。じゃぁこうしたらこうなるね(応用)。もしできなかったら理論のどこかが違ったね(反証性)」という事を徹底的に確かめていく。
この事が科学が客観性を"特性"として持つ理由であり。客観性を重視するからこそ、合理性を兼ね備える事ができる。
(↑ここは「合理的だから、客観性がある」のではない。「客観性を以て→合理性が確保される」としている)

始まりに戻ります。
科学は単に「帰納によって論証を行う」ことを目的にしているのではありません。
つまり「帰納による推論」は現象から仮説を見い出すための「手掛かり」として扱われるだけに過ぎません。それが"論理的に不完全"である事が論理学によって既に周知されているからです。

科学上で扱われる理論は、今日では「反証可能性」を持ち合わせている事が一つのルール(規範)とされています。そうでない事柄は完全に形而上の事として「(形而下の出来事として)検証する事ができない」ことを意味してしまうからです。

「科学を"哲学的に見る"」というならば、私たちはこれらの事を踏まえて考えなければならないと思います。
それは科学が、ヒュームの理論を真っ当に踏まえているからこそ、哲学・思想とは分岐し、独自の道を歩んだのだと。ただの言葉遊びではなく、事実・現実に則した視点に則っているのです。

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