ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

半蔵門かきもの倶楽部コミュの第132回『耳障りな休符』(テーマ選択:ギター)チャーリー作

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 春というのは、こんなにも無遠慮な季節だったろうか。


 カーテンの隙間から差し込む四月の光は、日に焼けた畳の上に明るい帯をつくり、宙に浮いた埃の一粒一粒まで輝かせる。閉め切った部屋の澱んだ空気の中で、そこだけが別の世界のように白々しい。俺は敷きっぱなしの布団に寝転がったまま、光の帯が畳の目をゆっくり這っていくのを、毎日飽きもせず眺めている。ほかにやることがないからだ。

 仕事を辞めて、四か月になる。
 月に一度、失業保険をもらうためにハローワークへ出向くほかは、めったに外へ出ない。出るのはスーパーの安売りの日と、ゴミ出しの朝だけだ。通帳の数字は月ごとに決まった分だけ細り、俺はその減り方を眺めては、あと何か月、と算盤を弾く。六畳一間は三歩も歩けば壁に突き当たり、建付けの悪いサッシは開けるたびに軋んだ声を上げる。壁は薄く、水道の管は明け方に唸る。築何十年かは知らないが、俺と同じで、世の中から用済みにされかけた建物であることは確かだった。

 去年の暮れまで、俺はシステムエンジニアだった。
 新卒で入った会社に五年勤め、大手の取引先に常駐して、客先のシステムの癖を隅々まで頭に入れていた。障害が出れば夜中でも呼ばれたし、呼ばれれば直した。上司は「おまえがいれば安心だ」と言い、俺もそれを疑わなかった。人と話すのは昔から苦手だが、コードは俺を裏切らなかった。積んだ努力の分だけ、正しく動いた。

 その仕事が、ある日、会議室の三十分で消えた。
 会社は開発と保守に生成AIを導入する。おまえの担当業務は段階的に縮小される。ついては営業部への異動を──。上司は、天気の話でもするような顔でそう言った。五年間、この男は俺の何を見てきたのか。機械より遅く、機械より高くつき、機械と違って文句を言う。会社にとっての俺は、結局その程度のものだったのだ。辞表を出したとき、上司は形ばかり引き留めて、それから少し、ほっとした顔をした。あの顔だけは、いまも忘れられない。

 世の中は、要らなくなったものから順に捨てていく。それだけの場所だ。そう理解してからは、何を見ても腹の底が冷えた。駅前で笑い合う勤め人も、不動産屋の貼り紙の中の新生活も、薄皮一枚めくればみんな同じ顔をしている。テレビは点けなくなった。誰かの成功を見ても、誰かの没落を見ても、等しく癇に障るからだ。外を歩くときは自然と顔を伏せる癖がついた。誰かに挨拶をされた気がしても、聞こえなかったふりをする。隣の部屋に誰が住んでいるのか、真上の部屋に誰がいるのか、俺は知らないし、知る気もなかった。

 ベランダに出るたび、俺は舌打ちをする。
 物干し竿の下のコンクリートに、鳥の糞が白く点々とこびりついている。糞だけではない。トンボの翅が一枚だけ落ちていることもあれば、名前も知らない虫の脚や胴の欠片が転がっていることもある。見上げれば、屋根の庇の裏に、泥を丸く固めた古い巣がある。ツバメの巣だ。あそこの連中の仕業に決まっていた。
 アパートは南向きで、ベランダの下は細い路地に面している。買い物やゴミ出しで外へ出るたび、俺は嫌でも路地から建物を見上げることになる。俺の部屋のベランダの真上に、二階のベランダが蓋のようにぴったり重なっている。だから俺の側からは、真上の様子はまるで見えない。見えるのはコンクリートの底と、格子の柵の切れ端だけだ。そのかわり、上から落ちるものは、必ず俺の側へ降ってくる。糞も、翅も、脚も。

 世の中と同じ造りだ、と俺は思う。
 上にいる連中は、下に何が降るかなど、考えもしない。


   *


 四月の終わりの、夜だった。
 スーパーの袋を提げて路地に入った俺は、ふと足を緩めた。街灯に照らされた二階のベランダの柵に、見慣れない影が寄りかかっていたからだ。

 アコースティックギターだった。
 はじめは目を疑った。夜目には、柵に人がもたれているように見えたのだ。足を運ぶうちに、輪郭はくびれた木の胴に変わった。横向きに寝かされ、格子の柵に立てかけるように置いてある。様子がおかしい。街灯の明かりの下、張られた弦があれば見えるはずの、細い光の筋が一本もなかった。弦を失ったギターの、サウンドホールの黒い円が、路地のほうを向いている。
 俺は空いた口がふさがらなかった。
 中学高校と六年間、俺は吹奏楽部にいた。演奏の腕はともかく、楽器の扱いだけは骨の髄まで叩き込まれた。楽器は生き物だ、湿気と直射日光に当てるな、と。目を閉じれば、音楽準備室の匂いまで思い出せる。古い木と真鍮とオイルの、ひんやりした匂い。楽器を床に直置きしただけで、顧問に拳骨をもらったこともある。だから夜のベランダに楽器を置くという発想が、まず理解の外だった。
 カビの陰干しか、と当たりをつけてはみた。押し入れで湿気らせて、慌てて外へ出したのだろう。だが陰干しというのは、風通しのいい日陰で、日のあるうちにやるものだ。夜のベランダには夜露が降りる。明け方の湿気は押し入れの比ではない。乾かすつもりで湿らせているのだから、世話はない。それに弦をすべて外せば、ネックは張力の釣り合いを失って、かえって反ることもある。何ひとつ、理屈が通っていない。
 ……いや。
 通っていないのは、俺のほうかもしれなかった。スーパーの袋を提げたまま、夜の路地に突っ立って、他人のベランダのギターに本気で腹を立てている無職の男。理屈からいちばん遠いのは、こいつだ。俺は首を振って歩き出した。
 他人の楽器だ。俺の知ったことではない。
 ──そのはずだった。


   *


 翌日の朝、ゴミ出しの帰りに見上げると、ギターはまだそこにあった。
 南向きのベランダは日当たりがいい。俺の部屋に無遠慮に差し込むあの光が、二階では遮るものもなくギターに注いでいる。飴色の表板が白昼、じりじりと直射日光に炙られているのを見たとき、俺は胃の腑のあたりが妙な具合に捩れるのを感じた。
 それから俺は、二階のベランダを見るようになった。
 といっても、路地に立ち止まって眺めるわけにはいかない。無職の男がよその部屋をじろじろ見上げていれば、それはもう立派な不審者だ。通報されても文句は言えない。だから俺は決めごとを作った。ゴミ出しの行きに一瞥、帰りに一瞥。スーパーへの往復で、また一瞥。歩く速度は緩めない。首だけ動かして、数秒で見る。
 会社にいた頃、俺は障害の予兆を見逃さないことで給料をもらっていた。ログの僅かな乱れから、誰より早く異常を拾う目。その目がいまは一円にもならず、他人のベランダに注がれている。堂々と眺めることすら許されず、ゴミ袋を提げて、盗み見るように。笑い話にもならなかった。
 古いアパートというのは、他人の暮らしが音でわかる。朝の六時過ぎ、真上でサッシの軋む音がする。ベランダを踏む足音、物干し竿の鳴る音。夕方には、その逆の順番。几帳面なほど規則正しい。顔も知らないくせに、俺はその住人の起きる時間と、洗濯物を取り込む時刻だけは知っていた。路地から見れば、洗濯物はきちんと出ては、きちんと消える。ベランダは片付いている。つまり、ギターは忘れられているのではない。あそこにあると知っていて、放ってあるのだ。

 連休が明けた頃、一瞥の中に新しい発見があった。
 ギターに、ロープが巻かれている。ネックとボディの二か所を、格子の柵に縛りつけてある。遠目にもわかる、几帳面な縛り方だった。風で倒れないように、という程度のものではない。台風の夜に看板を括るような、本気の縛り方だ。
 わからなかった。
 乾かす気なら、とうに乾いている。風で倒れて音が出るのが嫌なら、部屋へ仕舞えばいい。盗られたくないのなら、なおのこと仕舞えばいい。ズボラとも違う。ズボラな人間は、ロープをあんなに丁寧には巻かない。理屈が、どこにも通らない。通らないことが、日ごとに癪に障った。
 観察を続けるうち、二階のあたりをツバメが掠めて飛ぶのを、何度か見た。庇の巣の連中だ。今年も居着いたらしい。道理で、うちのベランダの糞が一向に減らないはずだ。俺は舌打ちして、それ以上は考えなかった。

 五月の半ばを過ぎると、日差しは初夏のものになった。
 ギターの表板は、飴色から白茶けた色に変わりつつあった。艶が引き、木目が浮いて、日に日に乾いて痩せていくのが、一瞥にもわかった。夜半、雨音で目を覚まし、気がつくと真っ先にあのギターのことを考えている晩もあった。莫迦げている、と自分でも思う。それでも朝になれば、ゴミ袋を提げて路地へ出て、濡れて色の沈んだ表板を数秒だけ見上げるのだ。ああやって濡れては炙られ、炙られては濡れていれば、木は反り、接ぎは剥がれ、二度と元の音は出ない。楽器として、あれはもう死んでいくところだった。
 まだ、使えるものを。
 気がつくと、俺は路地の真ん中で足を止めていた。数秒の一瞥、という自分の決めごとを忘れて、白茶けたギターを見上げていた。胸の奥が、火で焙られるようにじりじりした。なぜこれほど腹が立つのか、自分でもわからなかった。俺のギターではない。弦楽器など、弾けもしない。それなのに、まだ使えるものが縛られて、雨ざらしのまま駄目になっていくのを見ていると、まるで──。
 まるで、の先を、俺は考えなかった。
 俺の暮らしは、変わらなかった。ハローワークと、安売りの日と、ゴミ出しと、一瞥。カレンダーの白さだけが他人事のように続いた。

 五月が残り一週間ほどになっても、ギターは縛られたままだった。ただ、このところ、明け方にどこかで雛の鳴く声がする。庇の巣で、今年も増えるらしい。糞も虫の脚も、まだ当分降ってくるということだ。俺は布団の中で顔をしかめ、薄い枕に耳を押しつけて、声が止むのを待った。
 五月が、終わろうとしていた。


   *


 その朝は、妙に静かだった。
 カーテンの向こうが明るくなっても、俺は布団の中でぐずぐずしていた。何かが足りない気がしたが、それが何かは考えなかった。
 七時前、真上で物音が始まった。
 サッシの軋み。ベランダを踏む足音。そこまではいつも通りだ。だが続いて、聞き慣れない音がした。こすれるような、ほどけるような音。それから、ごん、と鈍い低音。木の胴が格子に当たる音だと、俺にはわかった。六年間、楽器と暮らした耳だ。
 ロープを、解いている。
 俺は布団を跳ねのけて、ベランダに出た。見上げても、何も見えない。コンクリートの底と、格子の切れ端。わかっていても、見ずにはいられなかった。あのギターがどうなるのか。ひと月あまり、俺の朝と昼と夕方を占領し続けた、あの不可解の正体が――。
 頭上で、ざらりと音がした。
 顔に、ばらばらと降ってきた。
 土だった。乾いた土と、枯草の欠片。目に入りかけて、俺は仰け反った。口の中で、じゃり、と鳴った。泥の匂いがした。

 頭が、白くなった。
 ひと月分の何かが、音を立てて切れた。糞。翅。虫の脚。縛られたギター。理屈の通らない毎日。それら全部が、いま顔に浴びた一握りの土を導火線にして、一斉に燃え上がった。
 気がつくと、俺は部屋を突っ切って、外階段の鉄板を、サンダルで殴りつけるように鳴らしていた。
 二〇三号室。真上の部屋のドアの前に立つのは、初めてだった。
 チャイムを連打した。ややあって、ドアが開いた。
 小太りの、頭の禿げ上がった男だった。六十半ばか、それより上か。寺の住職だと言われれば信じてしまいそうな、丸くて血色のいい顔。その顔が、俺を見て、おや、というふうにほころんだ。
「ああ、下の方。いつも、お会いしてますね」
 出鼻を挫かれる、というのはこういうことを言うのだろう。怒鳴り声は、喉の途中で形を失った。いつも会っている? 俺は、この顔を知らない。路地で、ゴミ捨て場で、俺はいったい何度この男とすれ違い、何度挨拶をされ、何度聞こえないふりをしてきたのか。
 知らない。覚えていない。覚える気が、なかったからだ。
 だが、怯んだのは一瞬だった。口の中には、まだ土の味が残っている。
「今、そこのベランダから土を落としたでしょう。真下にいた俺の、顔にかかったんですよ」
 男は目を丸くし、それから深々と頭を下げた。禿げた頭頂が、朝の光を鈍く照り返した。
「それは、それは。申し訳ないことをしました。まさか、真下にいらっしゃったとは……いや、言い訳になりませんね。本当に、すみませんでした」
 あまりにまっすぐ謝られて、怒りは行き場を探してさまよった。そして、見つけてしまった。
 男の肩越し、薄暗い玄関の三和土に、あのギターが立てかけてあった。
 近くで見るそれは、ひどいものだった。表板は白く粉を吹き、塗装はところどころ鱗のようにめくれ、ネックは素人目にもわかるほど反り返っている。ボディの接ぎ目には、髪の毛ほどの亀裂が走っていた。弦のないヘッドが、うなだれるように壁にもたれている。
 楽器の、死体だった。
「……あんた」声が震えた。「ひと月も楽器を雨ざらしにして、挙句、それですか。楽器ってのは、そんなふうに扱っていいもんじゃないんだ。あんたにとってはガラクタでも――」
「おっしゃる通りです」
 男は、遮りもせず、言い訳もせず、静かに言った。
「楽器としては、もう駄目にしてしまいました。ただ……あれには、少し事情がありましてね」
 男は部屋の奥からスマートフォンを持ってくると、何度か画面を撫でて、俺のほうへ向けた。
「お見せしたほうが、早いですね」
 画面には、ベランダのギターが写っていた。何の変哲もない、俺が毎日見上げていた、あの縛られたギターだ。それがどうしたと言いかけて、俺は画面に顔を近づけた。
 サウンドホールの、黒い円。
 その闇の中に、黄色いものが見えた。ひとつではない。ふたつ、みっつ……四つ。縁の黄色い、小さな嘴。生えかけの粗末な羽毛に埋もれて、黒い、濡れたように光る眼が、いくつも、こちらを見ていた。

 雛だ。
 ツバメの雛が、四羽、ギターの中にいた。

 怒りというものは、足場を失うと、こんなにも呆気なく崩れるものらしい。俺は画面と男の顔を、何度も見比べた。男は、困ったような、それでいてどこか誇らしいような、不思議な笑い方をした。
「巣の代わりにしていたんですよ。ひと月ばかり」



 男の話は、こうだった。
 ひと月ほど前の早朝、洗濯物を干しに出た男は、屋根の庇へするすると上っていく細長い影を見た。ヘビだった。庇の裏には、ツバメの巣がある。親鳥の姿はなく、巣の中では雛が鳴いていた。男は夢中で箒を振り上げ、ヘビを追い払おうとした。
「箒がね、巣に当たってしまって。……あの時は、血の気が引きました」
 崩れた巣ごと、雛たちはベランダに落ちた。ヘビは驚いて逃げた。拾い上げると、雛は四羽とも無事だった。手のひらに乗るほどの、羽もまだ揃わない体で、精一杯鳴いていたという。
 だが、帰る巣がもうない。ベランダに置いたままでは、またヘビに狙われる。親鳥が、育てるのをやめてしまうかもしれない。男は家じゅうを探し回り、押し入れの奥のギターを思い出した。若い頃に少し弾いて、それきりしまい込んでいたものだった。
 弦を外し、中を拭き、タオルと綿を敷き詰めて、その上に崩れた巣の欠片を載せた。軍手をはめて、雛を一羽ずつ、サウンドホールから中へ移した。
「なるべく窓から離して置きましてね。僕が出入りするたびに、驚かせてはいけませんから」
 親鳥が戻るかどうか、初めの二日は気が気ではなかったという。三日目の朝、ホールの縁に止まって中へ餌を差し入れる親鳥を見たとき、男は思わず声が出たそうだ。それからは、親のいない隙にギターをロープで柵に括った。風雨で倒れでもしたら、元も子もない。あとはなるべく近づかず、遠くから眺めるだけにした。このところは育った雛が穴から出て、柵に並んで止まるようになっていた。そろそろだと思っていた。おととい、最後の一羽が飛んだ。昨日一日様子を見て、戻ってこないのを確かめてから、今朝、片付けることにしたのだという。
「このひと月、毎朝あの声で目を覚ますのが、楽しみだったものですから」
 男は、三和土のギターに目をやった。
「もう聞けなくなると――寂しいもんですねえ」
 目尻に、うっすらと光るものがあった。

 俺は、何も言えなかった。
 言えるはずが、なかった。ベランダの糞。トンボの翅。虫の脚。あれは全部、この真上で四つの命が育てられていた、その証だったのだ。明け方の雛の声に顔をしかめ、枕に耳を押しつけていた、あの声。この男が毎朝、楽しみに聞いていた声と同じ声。俺が顔に浴びた土は、雛たちの家の、なれの果てだった。言われてみれば、庇の古巣がいまどうなっているのか、俺は知らない。あれほど毎日建物を見上げていたくせに、あの巣を最後にまともに見たのがいつだったか、思い出せなかった。俺は、見たいものしか、見ていなかったのだ。
 上にいる連中は、下に何が降るか考えもしない――そう嘯いていた俺の真上で、この男はひと月のあいだ、小さな命の家を守っていた。俺はそれを路地から盗み見ては、理屈が通らないと腹を立てていた。世界中で俺ひとりだけが、あの揺りかごを、憎しみのこもった目で見ていたのだ。

 耳が、火をつけたように熱くなった。
「……すみませんでした」
 絞り出した声は、自分でも情けないほど小さかった。土のことか、怒鳴り込んだことか、それとも、もっと別の何かへの詫びなのか。自分でもわからないまま、俺は頭を下げていた。
 男は、慌てたように手を振った。
「やめてください。土をかけたのは、こっちなんですから」
 男は最後にもう一度、丁寧に腰を折った。俺はそれ以上、その場に立っていられなかった。


   *


 外階段を降りる足は、上ってきたときの半分ほどの速さだった。
 路地に出ると、朝の光が目を刺した。五月の終わりの、もう夏に近い光だ。俺の部屋に無遠慮に差し込み、あのギターを焼いた、同じ光だった。

 頭の上で、鳥の声がした。
 見上げると、路地をまたぐ電線に、ツバメが並んで止まっていた。
 一羽、二羽……六羽。
 尾の短い、体つきのまだ丸い若鳥が四羽。その両端に、尾の長いのが二羽。まさか、と思う。そんなうまい話があるものか。だが、数だけは合っていた。四羽の雛と、二親と。
 あのギターで育った一家かもしれない、と思うことくらいは、許されるだろう。
 若鳥の一羽が、電線の上で危なっかしく羽づくろいをした。それだけのことなのに、なぜだか目を離せなかった。俺は路地の真ん中に突っ立って、首が痛くなるまで見上げていた。
 一瞥では、なかった。盗み見でもなかった。誰に恥じることもなく、ただ見上げていた。そんなふうに空を見たのは、いつ以来だったろう。
 やがて、ツバメたちは申し合わせたように一斉に飛び立った。アパートの屋根の上をひと回りして、瞬く間に小さくなり、初夏の空に散っていった。
 電線だけが、まだかすかに揺れていた。
 部屋に戻る前に、俺は自分のベランダを覗いた。物干し竿の下に、白い糞の跡が点々と残っている。トンボの翅も、そのままだった。
 あとで、掃除をしよう。水をかけて、綺麗に流してしまおう。それから――それから先のことは、まだ何も決めていない。ハローワークと、安売りの日と、ゴミ出しの、あの白いカレンダーの日々が、明日からも続くのだろう。
 それでも、胸の中を風が通っていた。
 久しく忘れていた、すがすがしさだった。洗い立てのシャツに袖を通すときのような。あるいは、長く解けなかった障害の原因を、ログの海の底にようやく見つけたときのような。


 春というのは、と俺は思った。

 こんなにも、明るい季節だったのか。



(了)

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

半蔵門かきもの倶楽部 更新情報

半蔵門かきもの倶楽部のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。