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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第五回テーマ 肉作 「冷や汗タラン」

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冷や汗タラン

「今回のタイアップで御社の人気はうなぎ上りです」
 向かいに座る男が資料片手に熱弁を振るっていた。一方、僕は冷や汗がじわじわと出てくるのを感じていた。無理な笑顔を作って、男の説明に相槌を打つ。それが精一杯だった。もう我慢の限界かもしれない。死んだ方がましとは、まさにこの状況を指す。先ほどから漏れそうで仕方がない。下痢の予兆だった。会議の終わり頃になって唐突に腹痛に見舞われた。会議も終盤に差し掛かった、このタイミングで席を立つのは変だった。我慢しよう。そうすればトイレに行ける。しかし、終わると思ってから四、五分が経つ。男は資料をまた一枚めくった。まだ雄弁に語っている。
「では、時間ですのでこの辺で。一旦、社内で検討させてください」
 水野くんが機転を利かして終わりを宣言してくれた。僕が会議後半から、全く喋らなくなったので異変を察知したのかもしれない。流石、新卒ナンバーワンの実力を持った男だけのことはある。あとで不破さんに水野くんの素晴らしさを報告しといてやろう。その前に僕はこの窮地を脱すため、一刻も早くトイレを目指さなければならなかった。
 僕は相手をエレベーターホールで見送るのを断念してトイレに急いだ。失礼極まりない態度だが、客前で漏らすリスクを考えたら妥当だろう。どうせ水野くんがうまく言い繕って、先方の気を逸らしているはずだ。幸い、トイレの個室はどれも空いていた。僕は一番、手前に入った。想像通り、下痢だった。腹痛の原因は、はっきりしていた。僕は便座に座り、前のめりになりながら、昨日のことを反芻していた。

 昨夜は飲み会だった。不破さんと水野くんの三人で飲みに行った。一九時からのはずだったが二一時から始まった。不破さんの残業が溜まっていたせいだ。それを僕と水野くんで手伝い、片付けてから三人でオフィスを出た。
「このまま帰りたくないよねえ」
 不破さんは餃子を一気に二つもつまみ、ビールでうまそうに流し込んだ。それで、その皿は空になった。
「家庭がある人は早く帰ってくださいよ。でも、お金は置いて帰ってくださいね。僕と水野くんで二次会行きますから」
「元気だなあ。明日も会社なのにさあ」
「明日は朝一番で会議ですけどね」
「よーし、二人がとことん飲むっていうなら付き合おうかなあ。俺は朝、会議ないから、今日は終電まで飲むぞお」
 不破さんは残業する必要がなくとも会社に遅くまでいることが多い。この日のように飲み会となれば若い僕達に終電寸前まで付き合っていた。理由は、家に帰ると奥さんとの間にきまずい空気が流れるからだそうだ。その時間を極力短くするために、遅く帰宅するのだ。子供には会いたいそうだが、まだ幼く不破さんが定時に上がったとしても帰り着く頃には寝ていて、会うことはできない。だったら終電間際まで会社で粘っていたほうが、奥さんと接する時間が短くなり、精神的に楽だという。脳天気そうに見える不破さんにも、悩みがあるのだと思うと同情を禁じ得なかった。僕と水野くんはその話を酔った不破さんから何度も聞かされていた。
「不破さんみたいな家庭は嫌ですけど、俺は結婚に憧れますね」
「水野くん若いのにしっかりしてるねえ。そうそう、俺みたいになっちゃあ駄目だよお」
「三村さんはどうなんですか?早く結婚した方がいいですよ」
「そうだよ三村くん、俺なんか水野くんの年でもう結婚してたからねえ」
「いいんですよ僕の話は」
 ビールが運ばれてくる。空になりそうになると水野くんが次々と注文するのだ。不破さんはビールのおかわりとともに鶏の唐揚げを注文した。料理はそれでもう五皿目だ。今のところ一番食べているのは不破さんだった。
「僕も結婚は考えてるんですけどね」
「待ってるよ。絶対、待ってる。相手は三村くんの勇気を待ってるよお」
「どうなんでしょうね」
 触れられたくない話だ。話の接ぎ穂にも困り、僕は進んで酒を飲んだ。その話題はいつの間にか終わっていた。
 不破さんは唐揚げが来ていないのに次の注文をしようとしていた。そんな不破さんは体重が九十キロを超えている。そのことで奥さんと言い合いになることがあるらしい。これ以上、不破家に不幸が訪れないように、人助けだと思って、次に運ばれる料理には積極的に箸を伸ばすことを決めた。
「水野くんもどんどん食べなよ」
 僕は水野君にも料理を勧めた。この中で一番若い彼がよく食べるはずだ。それに僕一人では多過ぎる。
「もちろんです。それより三村さんもどんどん飲みましょう。ハイボールいっときます?」
 水野君はよく食べもしたが酒も強かった。彼のペースで僕も飲まざるを得ず、その後ビールを二杯、ハイボールを三杯飲んだ。空腹は満たされ、酔いも回っていた。不破さんは僕の気持ちも知らず、料理をさらに注文しようとする。
「二人ともよく食うなあ。よーし、俺にまかせろお」
 不破さんが店員を呼ぶと、ラストオーダーを告げられた。そろそろ不破さんが帰る時間だった。店を出た方がいいだろう。結局追加での注文は無しになり、僕は正直、助かったと思った。周囲の客も帰り始めていた。テーブルの上の皿やグラスには、ほとんど何も残っていなかった。
「くそお、終電かあ。どっちかの家に泊めてよ」
「子供みたいなこと言わず、不破さん、帰りましょう」
 水野くんがいつの間にか会計を済ませ、僕は不破さんを出口へと促した。帰り際、店員からチラシをもらった。
「今度うちの支店が恵比寿にできたんで良かったら、是非お願いします。チラシにクーポン券も付いてますので」
「よおし、ここで飲み直すか」
「いやいや、帰りますよ」
 もらったチラシを僕はズボンの後ろポケットに突っ込んだ。不破さんの分は、小さく折り畳んで、こっそりとかばんに押し込んでやった。それに気がつかないくらいに不破さんは千鳥足で歩いている。無事に帰れるのか心配なので地下鉄の改札までは見送ることにした。
「不破さんって前の会社でも毎日終電だったんですか?」
「いやあ、そんなことはないよお。昔は健全だったよ。ちゃんと帰って、奥さんと飯食ってたよお」
 以前、不破さんに聞いた話だと、収入を上げるために今の会社に転職してきたそうだ。収入面で奥さんに負い目があり、それが転職に駆り立てたという。奥さんはその頃、外資系金融で働くキャリアウーマンで、不破さんが足元に及ばないほどの給料をもらっていたのだ。しかし、転職しても奥さんには結局勝てなかったそうだ。そういうことも影響してか、家に帰って奥さんの顔を見るのが億劫になっていったという。
「不破さん、気をつけて帰ってくださいよ」
「おう。お前らも飲み過ぎるなよお」
 不破さんには語尾を伸ばす癖がある。少し太めで柔和な不破さんのイメージにぴったりの口調だった。そして、それは僕らを和ませてくれる。不破さんのかつての焦りは、何となく理解できた。それは形を変えて誰にでもきっとあるのだろうと、見送りながら僕は感じていた。
「続きは、いつものバーに行くか」
 そこで午前三時まで水野くんと飲み明かした。ついつい色々なことを話し込んでしまう。二日酔い対策に、コンビニで買った飲むタイプの胃腸薬を用意してあるので、次の日に酒が残ることもない。如何せん、困ることもあった。それは結構な確率で、しこたま飲んだ次の日は下痢になることだった。二日酔いで苦しむことよりも僕にとってはそれの方が恐怖だった。酔った頭で、次の日を想像してみた。会議の途中で中座して、トイレに駆け込む。それは半分外れて、半分は当たっていた。
 
 案の定、水野くんは先方の担当者に如才なく説明してくれていた。僕に次の会議があるのでいなくなったと言って納得してもらったようだ。水野くんは本当に有能だ。それは不破さんと僕の共通認識だ。新卒で入社して数ヶ月しか経っていないというのに不破さんや僕と遜色ない働きぶりを示す。しかし、こんなにもできる後輩である水野くんにも、悩みがあった。それは昨日のバーでも延々と聞かされたが、同期の女性に関してだった。いわゆる恋の悩みで、福嶋という女子社員が意中の人だ。不破さんもこの件は承知で、僕と二人でよく水野くんをからかう。福嶋とは水野くんに紹介されて社内の懇親会で喋ったことがあった。
 席に戻ると不破さんから声が掛かった。水野くんはいっしょに戻らず、そのまま次の予定である新人研修に向かった。
「会議どうだったあ?」
 不破さんは昨日より肥えている気がするが、気のせいだろう。いつも通り、腹のぜい肉がベルトの上に乗っている。
「資料をメールで頂いているので転送します。個人的には金払ってまで、タイアップするような相手ではないですね」
「三村氏がそういうなら、そうするかなあ」
 不破さんは僕を呼ぶ時、三種類の敬称を使い分ける。席周りで仕事の話中心の時は、上司らしさを出すためなのか、氏を付けてくる。プライベートな会話ではくん付けになる。かなり真面目な会話のときだけ、さん付けをしてくる。
「ところで三村くん、さっき福嶋が来てたんだけど」
「福嶋ですか。まさか水野くんに会いに?」
「いや君に」
「え、僕ですか?」
「福嶋と三村くんが仲良くなってるってなると、あの冷静な水野くんでも平静を保てなくなるからね。黙っとくよ」
 僕と不破さんは公然と水野くんを応援していて、茶化すことも多かったが、社内で仕入れた福嶋情報を逐一水野くんに報告していた。社会人の先輩二人がこんなものかと憤然としていたが、怒っている風ではなかった。ただ、不破さんの言う通り、今回のは一旦黙っておこうと思った。福嶋が僕に会いに来たと聞けば水野くんが不満に思うだけだろう。本当に福嶋のこととなると水野くんは血相を変えるのだ。そういうところが、優秀にも関わらず子供っぽくて、僕と不破さんが水野くんを応援したくなる由縁だった。
「福嶋って確か、人事だろお?それで来たんじゃないかなあ」
「そうですね。確かにそれで僕のところに来たのだとしたら合点がいきます。そのうち用件を伝えるメールが来るでしょうから待ってます」
「いや、また出直して来るって言ってたから、そのうち来るんじゃない?親心としては、水野くんがいないうちに来て欲しいなあ」
「僕もわかります、その親心」
「親じゃないんだけどねえ、二人とも。でも、水野くんには頑張って欲しいからなあ、自戒の念も込めて」
 不破さんとくだらない会話を続けていると、本当に福嶋がやってきた。僕と不破さんは勝手に呼び捨てにしているが、部署も違うので正直、親しくない。社内の懇親会で数度顔を合わした程度なのだ。これだけネタにされているのも知らないだろう。目の前の福嶋を見ながら僕はそんなことを考えていた。不破さんは僕との会話を打ち切り、真面目な顔で、パソコンに向かっている。こちらには一瞥もくれない。ただ、聞き耳は立てているのだろう。
「どうしたの福嶋さん?あれ、研修じゃないの?水野くんは今、新人研修に行ってるけど」
「水野のはメディア本部の研修だと思いますよ。私はコーポレート本部ですから」
 福嶋の口調からは、言外に水野くんの話題を出す必要がないということが伝わってきた。喧嘩でもしているのだろうか、それとも福嶋は水野くんのことを意識していないということだろうか。
「福嶋さん、人事だもんね。どう人事の仕事は?」
「はい、頑張ってます。でも正直に言うと私も、水野や三村さんがいるメディア本部に配属されるのが良かったなって思うときがありますよ。って今のは内緒ですけど」
 しばらく雑談が続いた。なかなか福嶋が本題を切り出して来ない。単純に社会人のスキルで比べたら水野くんに軍配が上がるだろう。いつの間にか、そういう冷めた目で福嶋を見ていた。
「三村さん、すいません、長話しちゃって。ちょっとお話ししたいことがあって来たんです。メールやチャットじゃ、うまく伝わらないと思って直接来ちゃいました」
 やっと用件に移った。福嶋は僕の背後にある誰もいない会議室に視線を送る。その部屋に向かうことにした。雲行きが怪しい。そもそも人事の話なら福嶋を寄越さず、マネージャークラスから連絡が入るはずだった。人事関係の話をするために来たのではないかもしれない。会議室の椅子に腰を下ろす。ドアを閉めるとフロアの音や雰囲気が遮断された。室内は無音で、福嶋からは真剣な眼差しが向けられていた。
「実は、朋恵さんのことで」
「朋恵のこと?」
 朋恵は僕の彼女だった。付き合って五年を越えていた。不破さんや水野くんには紹介したこともある。しかし、福嶋が朋恵を知っているとは思えなかった。
「高校の部活の先輩なんです。この前久しぶりに会って、私の名刺を渡したら、この会社に付き合っている人がいるって話になりました。詳しく聞いてみたら、それが三村さんだったんです」
「へえ、ということは福嶋さんも広島出身なの?部活ってことは吹奏楽?確か、朋恵ってクラリネット吹いてたんだっけ」
 五年も付き合っているのだから朋恵のことは出身地から何まで知っていた。ただ、そんな話は最近ではしなくなっていた。今、久しぶりに思い出した。
「いえ、私は隣の岡山県出身なんですけど、受験で広島の高校を受けてて。私も同じクラリネットパートでした」
 水野くんに伝えるネタが増えた。出処は慎重に隠さなければならない。しかし、今は朋恵が絡んでいる分、そのことに集中したい。
「で、朋恵がどうしたの?」
「失礼な話かもしれませんが、三村さん、朋恵さんとあまりうまくいってないですよね」
 即答するのも変なので、思わず笑ってしまった。ところが相手はそれを肯定と捉えたようだ。福嶋はさらに話を進めていく。
「こんなことを言うのは、差出がましいかもしれませんが、別れてしまえばいいのにって、私思ってます」
「どうしてそう思うの?」
「朋恵さんから、関係がうまくいっていないと聞きました。このままお二人が付き合い続けても、実りないなと思うのが理由の一つです。あともう一つは、私が三村さんのことを好きだからです」
 話が急過ぎて、僕は事態をうまく飲み込めないでいた。朋恵がうまくいっていないと言ったことは事実だろう。その原因には心当たりがあった。ただ、福嶋が言った言葉の後半部分には思い当たる節がない。福嶋と話したのは数回しかない。それも水野くんを交えてだ。社内の懇親会で少し話しただけだ。
「ちゃんと話したことないのに、急にこんなこと言われて、驚いてますよね。ごめんなさい。私、昔から、焦っちゃうんです。人を好きになると」
 福嶋は放っておくとずっと話を続けそうな雰囲気があった。正直なところ、福嶋のことよりも朋恵の話が気になった。福嶋にどういう相談を持ちかけたのだろうか。相談などはせず、事実をありのままに伝えただけなのか。あのことまで話していたとしたら、恥ずかしさのあまり僕は発狂するだろう。その時、ノックの音がした。外でこの部屋を使おうとしている人達が待っている。僕達は予約せずに入ってしまっていたので、出なければならない。
「福嶋さん、とりあえず出よう。ここ他の人が使うから」
 外に出たからと言って続きができるような話題ではなかった。他の会議室に入ろうにも、空いていそうな場所がない。
「三村さん、話の続きがしたいので、今晩、ご飯にでも行きませんか?」
 水野くんへの罪悪感を感じつつも、朋恵のことをもう少し聞いておきたかった。
「わかった。じゃあ、時間と場所はチャットするよ」
 福嶋が帰っていった。それを見計らって、不破さんが好奇の目を僕に向ける。話した内容は共有できるものではなかった。適当に誤魔化すしかない。
「案の定、人事系というか労務系の話ですよ。確認したいことがあるからって。メールで内容もらってるんですけど、律儀に来てくれたみたいです」
「ああ、そういうことか。てっきり、水野くんのことを福嶋もついに気になり始めて、その相談に来たのかと思っちゃったよお」
「そうなると良いんですけどね」
「三村くん、昼飯どうする?水野くんは研修で弁当が出るだろうから、二人で行っちゃわない」
「ちょっと資料の準備で今日は忙しいんで、後で一人で行きます」
「おっけー、じゃあ俺ひとあし先にご飯行ってくるよお」

 不破さんがランチに出てから数分後に僕も席を立った。不破さんがよく行く店は知っているので、そこで鉢合わせないよう、普段行かない方角の店に行くことにした。外の日差しはそこまできつくない。夏を目前にしていたが、苦もなく歩ける気候だった。途中、定食屋とラーメン屋があり、どちらに入るか迷った。定食屋のメインは唐揚げ定食だ。昨日、さんざん唐揚げを食べたのを思い出し、僕はラーメン屋を選んだ。さっぱりしたものがよく、塩ラーメンを注文した。店内は昼時のため、ほどよく混んでいた。店内を見渡したが、会社の人間はいないようだった。席に着いて、水が運ばれてくる。僕は朋恵のことを考えていた。それだけで僕は胃が痛くなる。濃い目の胃酸が溜まっていく感じすらする。僕には結婚を急く思いがあった。長年付き合っている朋恵だから、結婚を申し出れば当然快諾してくれるものとばかり思っていた。ところが結果は違った。少し考えたいと言われたのだ。それを福嶋にどう伝えたのかは知らないが、付き合っている男性とわだかまりがあるとでも言ったのだろうか。朋恵も働いているので、平日は滅多に会えなかった。休日は互いの家を訪れて泊まっていた。僕の申し出以降もその習慣は変わっていなかったが、会うと無言のままでいることが多くなった。お互いに何かを言おうにも言えない状態が続いていた。
 ラーメンが来るまでの間、僕はラインやらフェイスブックを見て時間を潰した。姉からメッセージが来ていた。姉夫婦には去年、子供ができた。男の子だった。遊んでいる写真が添付されている。
「来月は帰ってくるの?」
 親しい人間が近年、立て続けに結婚していった。来月は地元で従弟の結婚式だった。年は僕より一つ下だ。仲の良い従弟なので、もちろん出席するつもりだった。
「帰るよ。大輝にもお土産買ってね」
 甥っ子は何を喜ぶだろうか。小さな子どものために、思いを巡らせながらお土産を選ぶのが楽しみだった。姉も両親も皆、僕に結婚を勧めていた。朋恵のことも知っている。僕の周囲は僕が結婚することに何ら迷いはなく、当然の選択だと考えていた。そういう圧力はボディブローのように効いて、僕の思考を結婚へと傾けさせていた。男性だから、若いから、という理由で悠長な態度でいては取り返しのつかないことになるのではないか。周囲の期待に応えたいという気持ちも強かった。いずれきっと自分にも時間が無くなる。そうなる前に結婚してしまいたかった。
「お待ちどおさま。塩ラーメンです。お熱いですので気をつけてお召し上がりください。伝票はこちらに」
 一心不乱にラーメンをすすった。半分くらい食べたところで、もう一つの問題を思い出した。福嶋のことだ。今夜また会わなければいけない。告白されていたが、断るつもりでいた。スープを一口飲んで、スマホからグルメサイトを見てみた。会社近くだと社内の人間に会うかもしれない。そうなると水野くんに、福嶋との密会が伝わってしまう可能性があった。だから、少し遠くに行くのがいいだろう。でも僕はそこでスマホを置いた。わざわざ福嶋のために、必死になって店を探すのは面倒だった。今は折角の昼休み、ランチに集中したい。とはいえ、すぐにいい店が思い浮かびそうにもなかった。
 伝票を持って出口へ向かった。後ろポケットから財布を取り出す。その時に思い出した。確か、昨日飲み屋でもらったチラシがポケットに入っているはずだ。僕はジーパンの後ろポケットを探った。財布の下敷きにされ、ぐちゃぐちゃになっていた。昨日行った居酒屋が恵比寿にもできる。恵比寿なら会社の人間もいないだろう。女性二人で行くような店ではなかったが、デートではないのだ。水野くんへの義理もある。こういう店なら水野くんも許してくれるだろう。加えて、店選びに心血を注いでいない。それも免罪符になると、皺くちゃになったチラシを見ながら僕は自分に言い聞かせた。

 定時に上がることにした。不破さんは例の如くパソコンとにらめっこしているが仕事をしているようには見えない。水野くんも研修の課題とやらで忙しいという。福嶋とは店で落ち合うことにしていた。すでに店の場所も時間も連絡してある。
「おお、三村くん早いね。妙に急いでるように見えるけど、まさかデート?」
「たまには僕だって早く帰りたい時くらいありますよ」
 不破さんにいつも残業を手伝わされる嫌味を言ってやった。不破さんはそれを気にしている風ではない。
「今日も飲もうと思ってたんだけどなあ。じゃあ、水野くんとたまには二人で飲みに行くか」
 不破さんと水野くんが二人で会話を始めた。僕は暇を告げてその場を抜けた。
 地下鉄は混んでいた。帰宅ラッシュの時間だからだ。僕は会社の近辺に住んでいるため電車で通勤をしていない。そのためこの騒々しさには辟易する。ホームに降りる手前で、乗るべき電車の到着を告げるアナウンスが聞こえた。反射的に、走り始めていた。ぎりぎり間に合って、その電車に乗ることが出来た。電車は数分で恵比寿に着いた。店は駅からすぐのところにある。開店したばかりなのだろう、店の外には花が飾られ、入り口付近にも多数の胡蝶蘭があった。和服姿の店員が出迎えてくれた。予約などしていないが、すんなり店に入れた。もう少し遅ければ、多少は待たされたかもしれない。定刻まではもう少し時間がある。僕はメニューを見ながら待った。一通りメニューを見終えた頃、福嶋が顔を出した。
「お待たせしました。オープンしたばかりなんですねこの店」
「僕もさっき来たとこだよ」
 僕は店員を呼んだ。福嶋にメニューを見せる。
「とりあえずビールでいい?」
「はい、大丈夫です」
 店員が来て、注文を取っていく。福嶋が料理を何品かたのんでくれた。飲み物と料理が来るまで、僕達は差し障りのない会話を続けた。日々の仕事であったり、会社の行事であったり、僕にはどうでもいいことだった。新しい店だったが出てくる料理は昨日見たものと同じだ。違うのは福嶋と来ていることだけだ。
「ところでさ、朋恵からどういう話を聞いたの?思い悩んでる感じ?」
「具体的に話を聞いたわけではないんですよ。ただ、漠然とうまくいってないって言ってただけです。だから私、今なら三村さんのこと狙い時かなって思って。会社で数回しかお会いしたことありませんけど、水野が紹介してくれて話したときとても気さくな方だなと思ったし、社内パーティでも表彰されてましたよね。それが格好いいなと思ってました」
 どうやら僕が朋恵にプロポーズして保留状態にされているという話は聞いていないようだった。ということはそれ以上のことは知らないだろう。どんな風に思い悩んでいるか、そういうことが聞きたかった。しかし、福嶋は朋恵の話よりも自分の話がしたいらしい。
「三村さん別れる気はないんですね?それでもいいんです。今は、私が三村さんに気があるってことだけでも覚えていてください」
 付き合ってくれと言われるのかと思って身構えたが、そうではなかった。こちらとしては断るつもりでいたが、向こうが話を一方的に進めていくので、それができなかった。僕が福嶋に興味がないのは、朋恵が好きだということの他にもう一つ理由があった。それは、社内の人間と恋仲になりたくないからだった。社内恋愛で困ったことになる例を何度も見てきた。水野くんのことは他人事だから応援できるのだ。
「いらっしゃいませ〜、ご新規二名様です」
 店が混雑してきた。少し大きな声で話さないとお互いの声が聞こえないくらいに騒がしい。福嶋のグラスが空になりかけていた。僕は近くの店員に声を掛ける。店員が笑顔で駆け寄ってきた。すぐ後ろから、新しい客も来る。目が合った。手には綺麗な折り目のついた、この店のチラシがあった。その折り目は間違いない、僕が付けたものだった。

(了)

コメント(25)

前回の作品のラストも、このような,続きを予想させるような終わらせ方でしたね。

交際を断るために、わざわざ先輩後輩に内緒で呑みに行くというのは、やましい気持ちはなくても、誤解を受けます。
そこが、タイトルと途中経過で、予想出来てしまうのが惜しい気がします。


>>[1]
感想ありがとうございます。
ここで切らずに、続きを書けば消化不良を起こさずすみますでしょうかw
続きを持参できれば持参いたします。
あとは、短い字数でも、消化不良にならないように、まとめ切るというのを、訓練としてやってみます。(次回)

葵さんの作品もお待ちしております。
>>[2]
感想ありがとうございます。
もう少しうまくまとめるか、ネタを絞って、予想の裏をいくような展開を目指してみます。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。
私の知らないオフィスライフが描かれており、単純に楽しめました。
なんというか、「小説の楽しみの一つは、自分以外の誰かの生活を擬似体験できることだな〜」と再認識させられました。
特に気になったのは、飲みニュケーション! うらやましい(>_<)
ていうか不破さんが、途中まで巨体だと思わないで読んでました……とても魅力的な人物。。。

自分の社会人経験に寄せて書けば、福嶋さんは「社会人のスキル〜」と作中でも書かれてますが、やはり会社でやることとしてはアウトかな〜?と思いました。
一年目だから多少は許されるのかもしれませんが、三村くんに対する不破さん、みたいな人が福嶋さんにもいれば福嶋さんも変わるだろうに……続きで出てきたりしますか?笑。

タイトル、肉さんは前作も作品が続くことを予測させるものでしたが、書き上げてからお考えになるのでしょうか?
気になりました。

楽しい読書経験をありがとうございます!
>>[5]
感想ありがとうございます。
>「小説の楽しみの一つは、自分以外の誰かの生活を擬似体験できることだな〜」と再認識させられました。
おっしゃる通りですね。リアリティの追求をがんばりたいです。

>タイトル、肉さんは前作も作品が続くことを予測させるものでしたが、書き上げてからお考えになるのでしょうか?
タイトルは書いてから考えることが多いです。センスを感じさせるものを付けたいですが、なかなか難しいです。
>>[7]
感想ありがとうございます。
不破さんをほめていただきありがとうございます。リアリティにあふれるのは、身近な人を参考にしているからかもしれません。
>>[9]
感想ありがとうございます。
不破さんをほめていただきありがとうございます。

鉢合わせの件は、定時に上がるくだりのところで、不破さんが水野くんと二人で飲み行くかというセリフがあり、特に確信的になる構造かと思うのですが、こういう前振りは不要かというのは悩みました。
(あればあるで、飲み屋に二人が登場するのが不自然にならない効果も期待できるため)

短編では不要という感じを、感想を頂いてから思い始めています。

ちなみに水野くんは、優秀ですので、一時的には感傷に浸りますが三村を慕っているようで、荒ぶらずに済みます。
全体的に散文調で、話の方向性が見えにくい印象を否めませんでした。
個々の文章は分かりやすいのですが、なぜ描かれているのかが分からない。
不破さんの家庭環境、水野くんの有能さ、など文量を割いて描写されてますが、それが物語にどう絡むのかが分からず、その印象は最後まで読んでも解消されませんでした。
個人的にオフィスライフというものに魅力を感じないせいかもしれませんが、平坦だけど目的地の分からない道を目隠しされたまま歩かされているような心地が拭えませんでした。
>>[11]
感想ありがとうございます。
色々なパーツをもっと活用できるように、次回は工夫してみます。もしくは、思い切って削除し筋をはっきりさせるということも考えてみたいと思います。



拝読しました。
飲み会、男子会、居酒屋感がいいですよね。
店の喧噪と混乱しがちな会話が得意なのでしょうね。
私としては飲み会小説又は居酒屋小説として作品を書いていただきたいと思ってます。
>>[13]
感想ありがとうございます。
酒や料理の描写はしていて面白いです。
酒場をメインに次回は考えてみようと思います。
やっぱり肉さんは一万字の制限にすごく足を引っ張られているな、という印象です。
ここから先の展開でさらに面白くなりそうなのに、と残念に思います。あとは一万で終わらせるには登場人物が多すぎるのかもしれません。
五人を平等に扱ったら、一人頭二千字の計算になりますからね。余計に難しいと思います。

わたしには縁のない仕事環境のお話でしたので、ピンとは来ませんでしたが、こういう世界もあるのだろうなと思いながら読ませていただきました。
>>[15]
感想ありがとうございます。
1万でおさめきる構想力が足りないなと、今回とても思いました。ネタを絞る、登場人物を少なくするなどの方法で次回はトライしてみようと思います。
肉さん、今回もとってもおもしろかったです!!( ´ ▽ ` )ノ

20代後半から30代前半くらいに通じる「あるある感」もそうですが、お仕事小説としてもニヤニヤしながら読ませていただきました。

「入社してきたばかりなのに、こういう小生意気な小悪魔女子いるよなー」
「でも、こういう小悪魔女子に食われる男も多いんだよなぁ」
「不破さんとフワフワ飲みに行きたい!」
などと1人ノリツッコミしながら、ビールのおつまみ(すみません・笑)にもさせていただきました♪(*^^*)

どこまでが「周囲の本当のお話」なのか、今夜是非教えていただけると嬉しいです♪
>>[17]
感想ありがとうございます。
あるあるに共感いただいて何よりです。

>どこまでが「周囲の本当のお話」なのか
周囲に面白い人やキャラ立ちのいい人がいるとネタに困らなくていいですね笑
「あるある、こういうこと」
「こういう女子社員て必ずいるよね」
「見たことあるなあこんな光景」
と、強く共感しながらわくわく楽しく読めました。

肉さんは人間のキャラクター作りと描写がとてもしかだ好みです!

>>[19]
感想ありがとうございます。
官能の世界をもう少し取り入れたいと思います。
>>[21]
学生時代の授業で書いたものがございます。
が、持ち帰り、検討させてくださいませ・・・・
>>[24]
前向きに検討させていただきます笑

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