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反改憲!【条約より憲法が上】コミュのデモクラシーな言葉へのTwitter_「公共の福祉」と「公の秩序」

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https://twitter.com/reef100/status/1069075365920980992

デモクラシーな言葉
‏ @whatsdemocracy

「自民党の新憲法がダメなら、また国民投票をやって元に戻せばいい」という甘い考えは、恐らく通用しない。いったん与党案の憲法に変わったら、それに対する疑義は全て「公共の秩序を脅かす」との名目で取り締まりの対象に。大手メディアで議論できない。「再変更は不可」という仕様。(山崎雅弘)


11:46 - 2018年12月2日


アステローペ・リーフ
‏ @reef100
12:46 - 2018年12月2日

重大な間違いがある。

公共の秩序 ではない。

公の秩序 だ。

公共と公の違いは、何か?


さらに、

公共の福祉 の福祉と
公の秩序 の秩序とはどう違うのか?


まず公(おおやけ)は、
天皇の意味もある用語で、天皇の為の世界がおおやけ。
天皇主権の時代は、主権者は天皇ひとり。
国家は主権者天皇のための国家であり、国家に付随するすべては天皇のために存在するものであった。
国民も、主権者天皇のための国民。

人権は、主権者天皇が与えることも剥奪することも、制限することもできた。


それに対して公共は、人民主権の世界の公共である。市民的公共。

国家は、「人民が人民個人個人の自然権を国家に守らせるために人民が国家を作ったことにしましょう」、と言う、社会契約説に立脚する国家である。主権者は、人民個人個人。天皇に主権はない。


主権とは政治を最終的に決定する権利。 国家を作った国家の主人たる人民に主権がある。国会にも内閣に最高裁判所にも主権はない。国家 対 人民 の構図において人民に主権がある。国家に主権はない。国家権力に主権はない。

自民党憲法は 公共の秩序など、主張してない。公の秩序である。


社会契約説に立脚した国家を、すなわち、人民が国家を信じて託した強大な国家権力を、
人民の自然権を守る為以外に使わないように、
人民が、国家を、国家権力を、縛った、とする正しい意味での憲法を否定し、
逆に国家が人民を縛り上げるのが、自民党憲法だ。憲法の否定である。

公や公共を、論理的に認識するなら、 人民主権を認めない公であり、人民主権の公共である。


では、公共を体感的に、感覚的に、認識するなら、どういうものか?


情緒的に公共を認識するなら、どういうものか?

主権の意味さえ認識してない日本国人民がほぼ100%だ。
人民主権など言葉があるだけで、選挙で国会議員を選んでいるからそれが人民主権だ、と洗脳されている。あとは、主権の行使をできずに国家権力の奴隷だと。


こんな認識レベルで、人民主権の公共だといっても、論理的に公共の認識などできるわけがないではないか。

だからほぼすべての日本国人民の公共の理解は、公の概念から、天皇の色彩が曖昧にぼやけているだけの公と変わらない。
得体の知れない世間の監視の目を意識した世界。


市民的公共の色彩の意味で公共機関と言う用法定義も使っているが、公共だけを切り取ってきて、公共の福祉 などと言う用語を前にすれば、ますます、ぼやけてくる。


公の福祉と、公共の福祉は、なにがちがうのと。

そういう認識の曖昧さを突いて、
体感的に
公共の福祉は、
公の福祉と見分けのつかない語感をもってしまい、 
そういう曖昧さを突いて
公の秩序に、公共の福祉が
すり替えられてしまっているのに
ほぼ100%の国民はポカーンとしている。


論理という資源が、人民の脳ミソに解放されてないからだ。国家権力は絶対に解放してくれない。大学教授も、小中高の学校の先生も解放してくれない。親も、日本共産党も。革新勢力も、自称リベラル派も。


みんな時計仕掛けのオレンジだ。自分では立派なオレンジだと思っているが、そういう思考回路にされているだけだ。
いや、インテリゲンチャはわかっているのがいても口にしない。大学教授を首になるから。

評論家貴族はテレビに出られなくなるから。

親は知らないから。

こうして世代を越えて負の連鎖を延々と続けている。

立ち止まり、己の頭で覚醒する以外ない。人間牧場の家畜から解放するのは己の頭の中からだ。 人間牧場の家畜の脳ミソの再生産の連鎖を切れ!


公共の福祉 これを体感的に感得する必要がる。

さらに、論理として認識する必要がある。

原本は英語だ。ヨーロッパだ。
その国の概念はその国の言葉で感得する以外ない。

公共の福祉 public welfare (パブリック・ウェルフェア ).


●まずパブリック(public)について。

英語のパブリック(public)とコモン(common)、両方とも公共と訳せるのに、かなり意味が違っているという。

この public は、日本語の公共に訳すとかなり本来のパブリックの意味がなくなってしまう。

public の pub( パブ )は「酒場」のパブだそうだ。

渾然一体とした人 々 の集まりを表 しているという。
利害はそれぞれ異なる。

客同士は、一回こっきりその場で居合わせただけのような場合もある。

敵対関係者もいるだろう。

自由気まま。
だけどそこでみんながある時間酒を飲みあい楽しむための暗黙の了解を心得ている


拳銃撃ち合ったり、テーブルひっくり返したりするのは暗黙のルール違反だ。

混然一体としながらもそこで時間を共有しそれぞれが楽しむために、成文なき暗黙のあうんのルールをみんな心得ている。

public にはこんなイメージがあるようだ。


自由はそれじたいが自体が規律なのだ。
最高の規律なのだ。
最高の規律を規律で縛れば最高の規律たる自由が死ぬ。

その典型をここに感得できるではないか。

自由への確信だ。

それに対してコモン(common)は同じ「公共」でも、そこにいる個人個人が、より均質化された集団をイメージするものだという。

価値観的に等質なイメージというのは、たとえば communism(コミュニズム・共産主義)はそうだろう。


コミュニティも原理的にはそういうものですね。
あえて反対意見を言いに行く人もいるでしょうし、それを許容するところもありますが、基本的に何らかのある均質な価値観のグループ。
政治コミュで魚釣りの話などテーマにはしない。フィッシングはフィッシングのコミュに行く。

オリジナルの日本国憲法英語版では、 public welfare( パブリック・ ウェルフェア) と書いた。
それを「公共の福祉」と訳したが、「公共」と訳したその日本国憲法の原本なるものには、コモン(common)でなくパブリック(public)を使ったpublic welfare( パブリック・ ウェルフェア) と書いている。

すなわち、酒場が語源の pubが根底にある。


公共を福祉の公共とはpubを語源とするpublic。 これだけみても、公の秩序 とは180度違う。真逆だ。 公の秩序は、commonの均質さを持ち、脱個性、自由を認めない、自由への確信などない、ガチガチに国家権力が自由も個性も縛り上げる直線の、延長線上にある。


●welfare( ウェルフェア)について

welfare( ウェルフェア)を「福祉」と訳している。

しかし福祉と訳したことでこれもかなり喪失した意味があるようだ。
パブリックが酒場のもつ意味合いを失っていつのまにか均質化したイメージの翻訳になったように。


英語の welcome の wel も welfare( ウェルフェア) のwel も同義という。
「 気分良く come に応じる 」 というニュアンスがあるという。


fare( フェア) は 、fair( フェア) ではなく、すなわち 「 公正 」「 公明 」 などの意味ではなく、fare は 「 運賃 」「 料金 」「 食物 」 などの意味になるという。


動詞 としては 「 旅する 」 などの意味があるという。
快適に旅する、快適に走行するという意味で「快適走行」のニュアンスらしい。


どう見ても公共の福祉と 公の秩序は 何から何まで真逆だ。

恐るべきことは、真逆どころか、公共の福祉を 公の秩序と置き換えられても全然頭にヒットしないその感覚だ。

人民主権の確立は、こんな体感のレベルの真逆を克服しなければ実現しない。

どうすればいいのか?


言語視野による語学の獲得は、大人と子供ではぜんぜん性能が違う。
しかし、文法という論理を切り口に理解することが大人にはできる。

知性で、「論理という資源」を解放することで、人民主権の確立は可能。Democracyの体感を獲得することは可能。

源泉はここだ。近代社会契約の国家の約束定義。


『国家は人民が作った。人民の自然権を守る為に、人民が国家を作った。』

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