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反改憲!【条約より憲法が上】コミュの◆日本人民であることの矜持

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「どうせ研究するなら、天皇制のある民族と無い民族の、奴隷根性の違いを研究しろ!
2017年05月14日15:10
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960397319&owner_id=38378433

の続き。


■日本人民であることの矜持

【1】古代の天皇制の下でほとんどの日本人民は奴隷だった。

魏志倭人伝(3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間))の中の日本人民は、古代の天皇制の下での奴隷制支配の真っただ中にいたと推察される。

魏志倭人伝の中に、身分の高い人が通りすがるとき、日本人民がすごすごと草むらに入っていくシーンがあるが、この記述だけで日本人民の本性を悲観的に評価するのは早計だ。

ましてや今の日本人民の矜持のなさを、古代の天皇制の下での奴隷と比べて、日本人民の本性とはそういう腑抜けだと否定的に関連付けるなら、それはあまりに性急だ。

日本人民がいかに社会的に政治的に圧政と戦ってきたか、日本人民がいかに悲劇的な圧制に果敢に挑んできたか、その歴史を認識しておくことは、現日本人の矜持の為に欠かせないことだと思う。

*−−−−−−−−−−−−−−−−*
●日本の古代社会の奴隷制

・原始氏族社会 から 古代奴隷社会 へ

・原始氏族社会:生産力の発達につれて崩壊

・古代奴隷社会:少数の支配者が人民の多数を奴隷として所有し使役する

・魏志倭人伝によれば、紀元前1世紀ころから人民の多数が少数の支配者によって所有され使役されるに至った。

※縄文時代は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)
※稲作:日本列島における稲作の歴史は長きに亘って弥生時代に始まるとされてきた。しかし、近年になって縄文後期中葉に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内から5500年前イネのプラント・オパールが発見されたことや、朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、縄文時代中期以前まで遡って陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が有力となっている。稲作が生業であったかどうかは別にしても、縄文時代後期・末期頃に陸稲(熱帯ジャポニカ)が栽培されていたことは確実になった。(今の説明に書き換え以前の上記の記述があった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.B8.E3.81.AE.E4.BC.9D.E6.9D.A5
陸稲での稲作はあったのである。

ブランドオパールについて:遡る縄文稲作の年代
このプラントオパール分析法の開発によって日本列島に於ける古代イネの研究は急速に進むことになった。1999年時点でプラントオパールが出土した遺跡は、農学者佐藤洋一郎によれば次の31例に及んでいる。・・・・
さらにその後、2005年2月には、岡山県の灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパールが大量に見つかった。その量は土1gあたりプラントオパール2000〜3000個という大量のもので、上表の縄文前期の遺跡・朝寝鼻貝塚の数千倍の規模である。これはただ単にイネが何らか理由で持ち込まれたという規模ではなく、まさに栽培されていたというレベルである(http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html


・古代の日本において人民の男女が公然と奴隷として売買され、当時の主要の生産としての農業にこれらの奴隷が使役されていた。

・古代ギリシア:全人口の9割内外が奴隷

・古代日本:全人口の1割内外が奴隷。
(1)きわめて少数の特権的支配者の手に集中的に所有されていた。
(2)全国民の生産または富の程度ははなはだ低く貧しかったかった。
(3)低い<全国民の生産>であるのに、少数の特権階級の手に高度に集中していた。
(4)少数の特権階級、天皇、その周辺の貴族、または豪族に、大量に数十、数百、数千人というように集中していた。
(5)古代日本天皇制の下に、日本人民の大多数は、実質的に奴隷として、または、奴隷に近い状態において、部民として世襲的に支配されていた。
(6)この点において日本の古代社会は奴隷社会であった。はなはだ残酷な性格を持つ奴隷社会であった。

・氏族社会:原始的平等を本質としたもの。
生活の基本単位が氏族である社会。家族や国家が成立する以前の原始共産制の社会とされる。

・原始共産制:社会発展の初期,きわめて低い生産力段階で,血縁関係を基礎に生産活動や分配・消費を共同で行うとされる社会体制。エンゲルスらにより唱えられた。原始共同制。

・氏姓制度:階級制度を本質とし、氏族社会の崩壊後に発生した社会。
「氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったが、それが国家の政治制度として編成し直された。その成立時期は、5〜6世紀をさかのぼらない。同族のなかの特定の者が、臣、 連、伴造、国造、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色がある。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%A7%93%E5%88%B6%E5%BA%A6)」

・ヨーロッパの古代は氏族社会が完全に清掃された。
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/07/001294.html
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=245353
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=245315
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=245320




天皇制貴族階級の奴隷制支配を崩壊させたのは、奴隷の反乱の頻発と逃亡であった。

奴隷制支配に対する反乱の頻発、奴隷の逃亡の増加で、もはや、天皇制貴族階級による奴隷制支配は成り立たなくなった。

それが大化の改新に至った必然であり、大化の改新で奴隷制は多少の自由を与える農奴制【といっても半奴隷半農奴レベル】に移り、しかし、それでも反乱し、逃亡し、ついには半奴隷半農奴制も成り立たなくなり、ここに日本の天皇制貴族階級の支配が崩壊した。

この王朝貴族の支配を崩壊させたた原動力は武士ではない。

半奴隷半農奴制の農民であった。

武士を擁して農民を管理しても、農民の反乱と逃亡、非生産性、死亡率の高さ前に立ち行かなくなったのだ。

人間を抑圧することの敗北である。

そして、天皇も封建領主の一人になった。

中世のスタートだ。

日本の中世は純然たる農奴制となった。



さらに、王朝貴族が奴隷支配から半奴隷半農奴支配者に変わっていったときに養成された半奴隷半農奴に対するカウボーイ、ゲシュタポたる武士が、やがて封建的大土地領有者となり、半奴隷半農奴は正真正銘の農奴に昇格したが、過重な貢納労役は変わらず、最低限の生活さえ圧迫し続け、人民の武装解除を徹底したがそれでも、一揆は頻発した。

 中世でも、社会科学的には、歴史の証明するところでは、日本人民は無抵抗な今のボケ日本人が本性ではなく、別のもののはずだと。

 なかでも1485年、山城國に起こった国一揆は、素晴らしい。会議を開いた。
山城國を武士の蹂躙から守るために。農民自身が軍隊を組織し、人民の反乱。武士は撤退。
翌1486年、宇治の平等院で第二回国民大会。国民という考えが日本に現れた。立法議会と政府を持つ共和制の方向を伴っていた。国民会議制は7年続いた。

この時代には農民の自主的な組織の寄合とか集会とか惣とかdemocracy的組織の傾向が表れた。

日本でも農奴解放の運動と並んで自由都市共和制の運動が萌芽として起こった。

 自由都市共和制は和泉の堺、摂津の平野、伊勢の桑名、遠江の見附などに端緒が表れ、越後の柏崎、武州松山などにおいては、支配者である領主から市場警察権を町人の自治機関は手にした。また、市内に軍隊が入ったら町人の自治機関が逮捕処分する権能を承認された。市民が都市警察をもとうとしていた。

 ヨーロッパのような商工業の発達もなく、自給自足の孤立した経済が当時の日本ですから。堺など特別。

 

 約9割が農奴で約1割が武士階級で、江戸時代に突入。

 徹底した、服従主義の強制。
 土地に縛り付け、移動の自由の剥奪。強制の連帯責任。狭い単位に相互に束縛。相互に密告させる社会。分裂による支配。あらゆる自由の厳禁。関所制度の網。鎖国。

 この徳川300年で徹底的に幾世代にわたって日本人民は9割の農奴的人民は精神上の悪影響を受けた。

 自給自足の生活で孤立分散させられ、人民の生産の生活は全国的に連携なし。全国の人民が同じく苦しい生活をしながら、孤立分散。

 百姓一揆は17世紀中ごろから人民の英雄をだし、一般的になり、18世紀の初めには平均して一年間に5件。
 18世紀後半には15件前後。1833年には3およそ30件。1866年には40件前後。
 打ちこわし、すなわち都市民暴動は並行して現れ、18世紀後半には大阪江戸をはじめ全国のほとんどの主要都市に起こった。
 しかし、当時の打ちこわしは無秩序な乱暴ではなく、いずれも決して盗賊、掠奪の行為が全くなかった。
 1856年の江戸市中打ちこわしについて“一揆はみな盗賊の所業をなさざるは奇妙なり”と記され、1856年の大阪打ちこわしは“恐れながら、今じめついたしくれ候か、または三百目くらいにいたし候か、右両用とも出来がたくば、市中黒土にいたし候あいだ、返答承りたく、此の如く張り紙を以って願上奉り候。月日。難渋者より。御老中様 ”とし、同年、江戸の打ちこわしには江戸奉行所の門に張紙があり、その文に、“御政事うりきれ申し候”と言ったばかりではなく“貧窮の者國内に一人もこれなきようにいたすこと、米ならびに諸色ことごとく下直(リーフ注:安価)にいたすこと、右の通り改革いたし、日本國をば世界第一の善國といたしたし”と言った。

 
明治維新を成功させた原動力は百姓町民。決して坂本竜馬や西郷隆盛ではない。

下級武士は崩壊し始めた封建的支配によってもはや生活の保障がされなくなった現実を意識した。




日本人民の今の体たらくは、民族のDNA的、あるいは、民俗的な面からのアプローチにどちらかというとあまり重きを私は置いてません。

情緒的にはつい、民族のDNA的、あるいは、民俗的な面からのことを言う時がありますが(^^

 (民族のDNA的、あるいは、民俗的な面、その面もあるのでしょうが、より、社会科学的な面からの影響を重視しています。)


自由都市共和制を実現できなかったことは大きいですが、しかし、確実にその萌芽はあった。


一揆のすさまじい歴史もある。



今なぜこんなに体たらくなのか。


かなり乱暴な言い方ですが、
もし、日本人民に、今、テレビも、ラジオも、ネットも、大新聞もなく、瓦版ぐらいしかなく、義務教育はなく、高校も大学もなく
もし、そんな環境にあったら、(仮定ですが)
とっくに自民党政権も天皇制も終わってるのでは。

メディアの洗脳、教育の洗脳、この力は大きいと思います。


『日本人民の歴史』羽仁五郎著 岩波新書を拾い読みしながらみるだけでも、いろんなことがわかる。

■明治維新と自由民権運動


1.【明治維新の不完全さ】

それは、封建主義を倒した原動力である百姓町民の一揆が、非常に戦略的に、かわされたため、日本人民の革命が、トンビに油揚げさらわれたようになってしまった。
ええじゃないか運動が突然起こった背景には、
英国の日本への工作が働いていると思います。

第二次世界大戦と同じ構図ですね。

天皇をなくし共和制にまで行く革命を、百姓一揆を駐日英国公使書記官サー・アーネスト・メイソン・サトウに依れば(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6)望んでいなかった。

商品を消費市場日本に売りつける目的、消費国日本を作るために、混乱は良しとしなかった。
天皇制を残し、利用する。そうした政府を画策していた。
政治的権力の秩序を残そうとした。中国における経験によって。

ええじゃないか運動が、1867年に起こり、1866年までの革命的な人民蜂起全く消えた。
民衆がええじゃないか運動から覚めたときすでに明治天皇政府ができていた。1968年。

一揆打ちこわし
1866年約40件
1867年数件(ええぢゃないかの一時的興奮による大衆混乱)
1868年約20件
1869年約40件
1870年約30件
1871年約25件
1872年約15件
1873年約35件
1874年約15件
1875年約3件、これは1874年、民選議院設立の要求が日本人民の目標の中心になってきたため激減してきた。


明治政府のしたこと。
1875年、
新聞紙条例、と、
讒謗律(ざんぼうりつ、明治8年6月28太政官布告第110号)とは、明治初期の日本における、名誉毀損に対する処罰を定めた太政官布告。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AE%92%E8%AC%97%E5%BE%8B
を発布。
1868年前後から成長し始めたばかりの言論の自由剥奪が目的。

1875-6年、二年間に新聞記者の刑罰事件60件を超える。
1876年、内務省が治安維持のために新聞を発行禁止、または停止できるとする官僚専制を強行。
この間、反動的暴動がしきりに起こる

明治天皇政府は、西郷隆盛がその手紙の中に露骨にも言ったように
<【内乱を願う気持ちを外に移す】ために、く朝鮮に軍事行動を>の計画を立てた。

日本人民は軍国主義侵略主義への傾向に反対の意志を明らかにした。


1875年、西郷が軍艦を出発させたとき、東京日日新聞は「夕暮に、帆をかけた船が出るぞい、あれ、民が泣く、民の声」と嘆息した。

1876年、以下の人民蜂起あり。

5月和歌山県那賀郡
11月、茨城県眞壁、那珂、久慈の三郡
三重県飯野、飯高の二郡、似て人民蜂起。

・・・・


1880年(明治13年)集会条例(集会の弾圧)、植木枝盛らの指導で自由党結党(12月)
1881年、いろいろあり(大隈重信美国会開設の主張等)
明治天皇政府は1890年に国会開設を誓約と同時に、憲法を天皇が裁定すると宣言、人民の運動に対しては急進國安を害するものは処刑すると言って弾圧政策表明。
この間も以後も弾圧の数々。

1882年福島事件、
1883年高田事件、
1884年加波山事件、飯田事件、群馬事件、秩父事件、名古屋事件、

1884年10月自由党解党。
日本人民は、全国にわたって涙と血とをもって真実の憲法と議会の実現のために言論出版、集会結社の自由のためにたたかった。
明治天皇政府の官僚の代表者三島通庸(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E9%80%9A%E5%BA%B8)は「自由党と火付け泥棒は一匹も館内に置かぬ」と放言した。
日本の半封建的資本主義の財閥の代表者岩崎弥太郎は「全財産をかけて自由党を撲滅してみせよう」と宣言していた。

1885年大阪事件、
1886年静岡事件



188年内閣制を専制的に決定
1886年宮内省を内閣から独立させ、政府財産(人民の財産)のうち、木曾の森林そのほか財産として価値の高いものを天皇の財産にした。日本銀行や日本郵船の株式を人民の税金で大蔵省が買い入れて天皇の財産とした。
学者を、明治天王政府の絶対主義に奉仕させるために帝國大号令を公布。

拳法と議会とが成立する前に天皇を中心として専制権力をできるだけ大きくしておこうという陰謀を公然と実行した。

1887年12月、突然一片の官報号外をもって保安条例という専制主義的法令を公布。この日に、警視総監三島通庸は府下の各警察署員を芝公園弥生社に集め忘年会にかりて酒食を饗したあと、午前三時急に総動員を行い、自由民権の名士570名を襲って逮捕。「内乱を陰謀し、または治安を妨害するのおそれありと読む」として「皇居または(行在所を距る三里以内の地から三年間追放を命じ人民の要求の政治的集中を粉砕した。予備罪だ。歴代自民党政権が、いかに恐るべき予備罪を作っているか共通するものがある。いつでもこの刀を抜く。

最大の専制主義を実現するため。最小限の譲歩として1889年の憲法と1890年の議会を成立させたに過ぎない。

腐敗はしましたが板垣退助の自由党史の序の主張、
<日本人民は決して座して憲法と自由を与えられるのを待っていような無気力な国民ではなかった>という内容は
1880年以来の戦いが血と涙をもってした闘争であったことを言ってるのだと思います。

腐敗した連中には憤りを感じますが、戦って散った人々は私見では評価したく。


2.【天賦人権の件】

>明治に流行った天賦人権論(人権とは本来的にみながもっているのだ)



取ってつけた天賦人権思想、輸入物、という感はぬぐえませんね。

ただ、こういう人物もいたというのは、捨てたものじゃない気がしてます。

福沢諭吉なんか案外影響受けているのでは・・・。

安藤 昌益「(あんどう しょうえき、1703年(元禄16年) - 1762年11月29日(宝暦12年10月14日))は、江戸時代中期の医者・思想家・革命家・農業指導者。秋田藩出身。号を確龍堂良中。日本のマルクスと称される。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A
なる人物が江戸時代に出てますね。

封建的支配に対する人民の批判を理論的に表現した稀有の思想家。
「富も無く貧も無く、上も無く下も無く、男女も無く、上無ければ下を責取る無く、故に乱軍の出ることも無し。法を立てて下を刑罰することも無く、売仏法も売神法も無し。真の仁は耕織する衆人にあり。耕さず織らずして衣食を貪ること止むれば、窮民無し。」(自然眞営道)



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