ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

反改憲!【条約より憲法が上】コミュの自由への確信

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
https://twitter.com/reef100/status/762977976652660736

羽仁五郎bot ‏@gorohani 8月8日

モラルや道徳の問題で一番重要なのは、自由ということだ。自由は最高の規律である。言いかえれば自分の意志で決定することが、人間の最高のモラルなのだ。誰かに言われてやるのでは本物でないし長続きもしない。自由は規律を伴わなければならないという考えは、つまり自由に対する確信がないのである。


上記に対するコメント。

アステローペ・リーフ@reef100 20:44 - 2016年8月9日(最終更新2016年08月10日 08:50)

「自由自体が規律である。最高の規律である。」この命題の後続は、「自由はモラル(道徳)である。」としてしまっては焦点がボケる。ミスリードになる。読者は「そうか、やっぱり道徳はだいじなんだなあ。自由も道徳という集合の中に包含されるんだなあ」という感想になる。

本物の羽仁五郎なら、「自由自体が規律である。最高の規律である。」この後続は、「よって自由を規律で縛れば、最高の規律である自由が死ぬ」で結ばれなければならない。

【自由への確信】が無いという言葉は、
【自由は規律である、最高の規律である、自由を規律でしばれば最高の規律である自由が死ぬ】から導出するには、飛躍がある。

羽仁五郎としては理解しているのだろうが、一般庶民にはリンクしない。そこの咀嚼を説いて見せるべきだ。

日本人には確かに自由への確信がない。自由にしておけばやりたい放題でめちゃくちゃになるという発想が日本人を支配してる。この自由というものへの確信のなさを「いや、そうじゃないんだ。自由にしておけばひどいことにならないのだ。良くなる。」ということへの確信に導くべき。

ここは羽仁五郎の自由論の核心部分だと思うから、この核心部分を披露していただきたく。

【自由への確信】というものが日本人にはない。
規律でしばらなければ、収拾が取れなくなるのだという発想しか日本人にはない。
私見では、このもっともよい例が、【公共の福祉】に対する考え方だと思う。

【公共の福祉】という非常に日本人にはわかりずらい日本語がある。個人個人の自由のぶつかり合いを調節する個人の内面的な働きという考え方、すなわち「人権相互の矛盾を調整するために認められる実質的公平の原理」とか言われているけれども実感はわかない。

これこそ、<自由にしておいては「人権相互の矛盾を調整するために認められる実質的公平の原理」など働くわけがない。> よって、
<公共の福祉を実現する規律がいる!>という発想に日本人はなる。

しかし、自由への確信があれば、そうはならない。
「じゃあ、日本人には自由へ確信がないんだ。」ということになる。実際にないのだ。
だからこそ、【公の秩序】という、均質な要素としての人間を、画一的に統理する言葉に、自民党憲法草案が【公共の福祉】から【公の秩序】に置き換えても、日本人は、明確に反論する能力を個人個人持ってない。

ここは相当深く日本人が内省する必要がある。

一口に【自由への確信】といっても、
【自由は最高の規律である】といっても、
【最高の規律である自由を縛れば自由が死ぬ】といっても、
【自由】そのものの真価、実力を、実感できない、イメージできない日本人にあっては、
【自由への確信】など、言葉だけが有って実体がない。

ということになってしまう。

事実なっている。これが、自民党憲法草案のような極右カルトに対して、それを明確に否定することのできない日本人を量産している。【自由】の実力、【自由】の真価、【その自由の力、自由の持つ能力への確信】を日本人は 1946年(昭和21年)11月3日、日本国憲法公布から約70年たっていまだに理解でないでいる。政党もインテリも大衆をこの件でリードできず。自由も公共の福祉も自由への確信も自由が最高の規律であり最高の規律を規律で縛れば最高の規律である自由が死ぬことの意味を日本人はたった一度も理解する機会にさえ遭遇することなく、緊急事態条項改憲で日本国憲法が抹殺される危機に瀕している。

自由への確信とはどんなものなのか。自由の真価、自由の実力、自由の能力、自由のポテンシャルを日本人がイメージし実感できる例を羽仁五郎は具体例で指摘すべき。


私見:●まず、パブリック(public)について。

英語のパブリック(public)とコモン(common)、両方とも公共と訳せるのに、かなり意味が違っているという。
この public は、日本語の公共に訳すとかなり本来のパブリックの意味がなくなってしまう。
public の pub( パブ )は「酒場」のパブだそうだ。

渾然一体とした人 々 の集まりを表 しているという。
利害はそれぞれ異なる。

客同士は、一回こっきりその場で居合わせただけのような場合もある。

敵対関係者もいるだろう。

自由気まま。

だけどそこでみんながある時間酒を飲みあい楽しむための暗黙の了解を心得ている。拳銃撃ち合ったり、テーブルひっくり返したりするのは暗黙のルール違反だ。混然一体としながらもそこで時間を共有しそれぞれが楽しむために、成文なき暗黙のあうんのルールをみんな心得ている。

public にはこんなイメージがあるようだ。自由自体の持つ素晴らしい能力について、このpubなる世界は持っている。

それに対してコモン(common)は同じ「公共」でも、そこにいる個人個人が、より均質化された集団をイメージするものだという。

価値観的に等質なイメージというのは、たとえば communism(コミュニズム・共産主義)はそうだろう。

コミュニティも原理的にはそういうものですね。
あえて反対意見を言いに行く人もいるでしょうし、それを許容するところもありますが、基本的に何らかのある均質な価値観のグループ。
政治コミュで魚釣りの話などテーマにはしない。フィッシングはフィッシングのコミュに行く。

オリジナルの日本国憲法英語版では、 public welfare( パブリック・ ウェルフェア) と書いた。
それを「公共の福祉」と訳したが、「公共」と訳したその日本国憲法の原本なるものには、コモン(common)でなく、パブリック(public)を使ったpublic welfare( パブリック・ ウェルフェア) と書いている。
すなわち、酒場が語源の pubが根底にある。


●【自民党憲法草案】
このパブリックを「公共」と訳せば、本来のパブリックの持つ酒場の良さのイメージが消失してかなり均質化した集合体の属性のイメージを想起させてしまう。
自民党の憲法草案のように「公の秩序」という文言に「公共」を飛び越していってしまえばこれはもう完全に全体主義的な色彩を帯びてくる。
とてもじゃないが、パブリック(public)じゃない。


●welfare( ウェルフェア)について
これも自由のポテンシャルを感じさせる。

welfare( ウェルフェア)を「福祉」と訳している。

しかし福祉と訳したことでこれもかなり喪失した意味があるようだ。

パブリックが酒場のもつ意味合いを失っていつのまにか均質化したイメージの翻訳になったように。

英語の welcome の wel も welfare( ウェルフェア) のwel も同義という。「 気分良く come に応じる 」 というニュアンスがあるという

fare( フェア) は 、fair( フェア) ではなく、すなわち 「 公正 」「 公明 」 などの意味ではなく、fare は 「 運賃 」「 料金 」「 食物 」 などの意味になるという。 動詞 としては 「 旅する 」 などの意味があるという。

快適に旅する、快適に走行するという意味で「快適走行」のニュアンスらしい。

しかし、
自民党の憲法草案の【公の秩序】というもので、気分よく快適走行できますか?
酔いなんか一発で覚めるではありませんか。特高が乗り込んできて、秘密警察がそば耳を立てている社会では。

徴兵制で戦争に送られる社会。
放射性物質を食わされる社会。
消費増税をガンガンふんだくられる社会。
高額医療。TPPで国民保健医療制度壊滅の社会では、・・・

とてもじゃないが快適走行じゃない。

fare は ドイツ 語に同義語の Fahrt( ファールト)があるという。Fahrt( ファールト) には 、「 走行 」「 通行 」 「 旅行 」「 ドライブ 」 などの意味があり 、 女性名詞 というから、
Fahrt( ファールト) には 、女性、 つまり弱い立場にある人が快適に旅 する ( 人生を歩む ) ことができる状態にも援用されるという。

例えば生活保護を称して Wohlfahrt( ヴォー ルファールト ) と呼んだと辞書に書かれているという 。

「 福祉 」 と日本語に訳してしまうと消えてしまう意味が 、 そこには隠されているという。

ああ、なんということだ。

public welfare( パブリック・ ウェルフェア) は、もうずたずただ。

「公共の福祉」としてしまえば、酒場のひと時を過ごす人々の、利害を超えた、敵対関係も乗り越えた、そこで人々が限られた時間を過ごす自由のイメージもなければ、
弱いものにやさしい快適走行のニュアンスもない。

これで社会契約説の、democracyが成り立つのか。人民主権が成り立つのか。基本的人権が成り立つのか。

弱いものに優しい、限られた人生という時間を、利害を共有しようが対立しようがすべて呑み込んで、
パブでの暗黙のルールで、自由への確信で、楽しくすごせる、

弱いものにもやさしい快適走行
そんな public welfare( パブリック・ ウェルフェア) は、微塵も、「公共の福祉」という硬いことばから発露していないではないか。

それどころか「公共の福祉」で基本的人権を制限できると主張し、「公共の福祉」は「公益」だの「公の秩序」にさらに悪化し、なんでもかんでも縛り上げて、均質な「公の秩序」「国家の利益」のために生きろ、いや死ねとまで、言い出している自民党憲法草案だ。それへの改定とは、とんでもない話ではないか。

すべては、 public welfare( パブリック・ ウェルフェア)の思想を切り捨てたところから始まっている。
pubのもつ自由な人々の自律性の発揮、 welfareの意味する快適走行。人間の自由な精神からの優しさ、弱者への思いやり。これらはまさに自由を獲得した人間の持つ潜在能力の発揮。自由への確信はここにある。自由でないから知らないだけだ。自由になれば何でもできる。


我々は自由にならねばならない。

【了】

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

反改憲!【条約より憲法が上】 更新情報

反改憲!【条約より憲法が上】のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。