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反改憲!【条約より憲法が上】コミュの蓮舫氏、民進党は、ナチスを倒すことを理解できない馬鹿なのか、ナチスの一角なのか、という問題だ。

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■<民進代表選>蓮舫氏の「あいまい戦術」 党の苦悩反映か
2016年08月05日 21:25 毎日新聞
蓮舫氏の戦術 党の苦悩反映か
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4130171


蓮舫氏の

「政策なくして連携 なし」

「政権選択選挙で綱領や政策が違うところと一緒に政権を目指すことはあり得ない」

この二つのことばは、いずれも成り立たない。

それを見てみよう。


●【「政策なくして連携 なし」というが、この『政策』とはどういうものか?】

ナチス 対 反ナチス の構図において、

蓮舫氏、民進党は、ナチスなのか、反ナチスなのか?

ナチスか 反ナチスか? この構図を明確に認識しなければならない。


この構図を理解したなら、『ナチスを倒すには、反ナチスで国民はひとつにならなければナチスに勝てない。』 ←これが、ナチスを倒す大原則だとわかる。


●【ナチスの本質とは何か。】

これを正しく認識するには、何を【認識目的】とし、そのためにどんな【視点】を選択するのかをまず明らかにしておかねばならない。

ナチスの本質を理解するためには、近代社会契約の国家の約束定義をもとにしなけれなならない。現代人類は、近代社会契約を出発点として、人類史をリスタートしているからだ。

我が国の憲法は無論、近代社会契約に基づいている。
近代democracyも、近代社会契約に基づいている。

だから、ナチスの本質を理解する為には、近代社会契約の最も根本的な約束定義である『国家とはどんなものか』、この国家の約束定義をもとにして、見てみる必要がある。

近代社会契約の国家の約束定義は、『国家は人民が作った、人民の自然権たる基本的人権を守る為に人民が国家を作った』というものだ。

この国家の約束定義 『国家は人民が作った、人民の自然権たる基本的人権を守る為に人民が国家を作った』 を実現する為に、ナチスとは、役割を果たすものなのか?

これが、ナチスの本質を理解するための、認識目的だ。

いわば、ナチスは、国家の約束定義 『国家は人民が作った、人民の自然権たる基本的人権を守る為に人民が国家を作った』を実現する為に、どんなベクトルを持っているものなのか?ということが、ナチスの本質を理解する為の、認識目的だ。

この認識目的を持ってナチスの本質を暴くために、では、どんな視点を採用すべきか?

近代社会契約が、守ろうとしている『自然権たる基本的人権』という視点を採用する必要がある。
『自然権たる基本的人権』という視点で、
近代社会契約の国家の約束定義 『国家は人民が作った、人民の自然権たる基本的人権を守る為に人民が国家を作った』を実現する為に、
ナチスはどんな役どころを持っているか、
この分析結果こそが、ナチスの本質だ。

ナチスは、自然権たる基本的人権を認めない。近代社会契約の国家の約束定義そのものを認めないということだ。
ナチスは、自然権たる基本的人権を認めず、国家が法律に書いて人権を与えたり制限できるという思想だ。法律による留保という。
ナチス自民の憲法草案の人権とは、まさにこの法律による留保だ。
自然権たる基本的人権を認めない。
これは、近代社会契約の国家の約束定義そのものを認めないということだ。

すなわち、
近代社会契約の国家の約束定義を認めないということは、
自然権たる基本的人権を認めないということと表裏一体であり、
主権は人民にある、という人民主権を認めないということと表裏一体である。
幾ら言葉で人民主権を守ると言っても、その言葉は、中身のないものだ。

国家権力は、人民が国家に信託したものだ。
近代社会契約の国家の約束定義に基づいて、国家にその本分を果たさせるために、
すなわち、国家に、人民の自然権たる基本的人権を守らせるために、人民が国家に信託した権力が国家権力というものの約束定義だが、この約束定義も、ナチスは、認めない。

よって、国家権力で人民を社会統制する、社会統制の一方通行を行う。
国民から国家への逆社会統制を認めない。
社会統制の双指向性を認めない。
これは、国家中央集権制という体制を意味する。

そもそもdemocracyとは、語源的にはデーモス(民衆)によるクラトス(支配、権力)のことだ。
近代社会契約の国家の約束定義は、人民支配(democracy)そのものだが、
ナチスはこのdemocracyを認めない。

多数決、議会制民主制(間接民主制)というのは、決して、デーモスによるクラトスを意味しない。
多数決というものも、デーモスによるクラトスを実現する可能性のある一つの方法に過ぎない。
多数決によって、権力を手中にした国家権力を掌握したものが、その国家権力を使って、国家から国民への社会統制の一方通行をしたら、もはや、democracyではないのだ。

democracyでない国家権力が誕生したなら、非常手段を以って、人民はその国家権力を一新する権利を持つ。これが、選挙であり、さらに、ゼネストであり、さらに、democracy革命権の行使というものだ。
ゼネストも、democracy革命権の行使も、れっきとしたdemocracyなのである。

ナチスは、以上全てを認めない。
そのナチス思想の中核となるものは、自然権たる基本的人権を認めないということに集約される。これさえ、徹底すれば、人民主権は消え、初めに国家ありきとなり、国家から国民への社会統制の一方通行が実現する。democracyの破壊ができる。

国家の約束定義 『国家は人民が作った、人民の自然権たる基本的人権を守る為に人民が国家を作った』を実現する為に、どんなベクトルを持っているものなのか?ということが、ナチスの本質を理解する為の、認識目的だが、
その為に選択視点が、自然権たる基本的人権であったが、
行き着いた先は、
ナチスは、『国家は人民が作った、人民の自然権たる基本的人権を守る為に人民が国家を作った』とは真逆の世界を実現するということだ。
それが、歴史が証明するナチスの本質だ。
自然権たる基本的人権を認めず、
人民主権を認めず、
国家による国民への社会統制に一方通行を実現する。
それがナチスの本質だ。

なかでも本質中の本質は、自然権たる基本的人権を認めないということだ。


●【蓮舫氏が、民進が、【反ナチス】であって、「政策なくして連携なし」というなら、
【反ナチス】であることこそが連携の核心的な政策であらねばならない。】

自民も維新も、自然権たる基本的人権を認めない。ナチスだ。

ナチス自民とスクラムを組む公明もナチスの証だ。

蓮舫氏が、民進が、【反ナチス】であって、「政策なくして連携なし」というなら、
【反ナチスであること】こそ連携の核心的な政策であらねばならない。

蓮舫氏、民進が、【反ナチス】で、共産党の綱領政策を、【ナチス】と見ているのか?
それとも、
蓮舫氏、民進が、【ナチス】で、共産党の綱領政策を、【反ナチス】と見ているのか?

蓮舫氏、民進が、【反ナチス】の根本政策を持っていなかったり、【反ナチス】をナチスと長い舌で見下しているなら、
蓮舫氏、民進は、【ナチス】である。【ナチスの補完勢力】でしかない。

蓮舫氏、民進は、日本共産党の綱領、政策を問題にするが、それは、【反ナチス】を拒否するものなのか?それとも、【反ナチス】を忌避するものなのか。

それを見てみよう。

●【日本共産党の綱領は、democracyの日本の政治にすることを、絶対に通過しなければならない通過点としている。その先についての共産主義などというものは、日本共産党自身が知らない。日本共産党どころか世界の学者が知らない。今研究中だ。
世界の自称共産主義国家はあくまで自称だ。】


日本共産党は、議会による多数を占めて、民主的政策を実現することを民主革命と呼んでいる。ナチスを倒したあとの民主的政策というものの中身の議論は、
自然権たる基本的人権を認めないというナチスを倒したあとの問題だ。
自然権たる基本的人権を認める政治勢力同士間なら、いかようにも話し合いで政治的に解決することができる。

自然権たる基本的人権を認める政治勢力である日本共産党はれっきとした反ナチスだ。

日本共産党の民主連合政権構想は、反ナチスを大前提としている。

ナチスを倒したあとの、民主的政策を議論する前段階としての、国民連合政権構想は、
日本共産党は、閣外協力でもよいといってる。
民進が、ナチスを倒す気があるなら、ここまで譲歩して、ナチスを倒そうとしている日本共産党を除外する事はできない。反ナチスの勢力を分断することなどあり得ない。

【反ナチス】。これぞ、政策の大同団結の核心的根幹だ。

蓮舫氏、民進党が反ナチスを掲げるなら、
日本共産党抜きなどあり得ない。

まず、ナチスを倒す、この要素のない蓮舫氏、民進党なら、蓮舫氏、民進党はナチスの一角である。


●【ファシズムとナチスの関係】

ファシズムというのは学問的には三権(司法、立法、行政)を一手に掌握してなりたつ。
ファシズムは、国家から国民への社会統制の一方通行だ。

ファシズムでは、国民の自然権たる基本的人権は守れない。

ファシズムでは、主権者人民の自然権たる基本的人権を認めない。

よってファシズムはナチスの証だ。
ナチスはファシズムである。

ナチス ≡ ファシズム である。


●【歴代自民政権は、自然権たる基本的人権を守って来たか?】

否。そうとは言えない。混濁している。

明確に基本的人権破壊をし、明確に日本国憲法違犯をしてきた数々の犯罪に彩られている。
憲法を守るということを言いつつ、憲法を守らない数々のことをしてきた。

ファシズムを実現してきた。
則ち、ナチスの本質を持つ。

だが、一方、反ファシズム、反ナチスの政治家もいた。
また、一人の政治家のなかで、ファシズムと反ファシズムが、混在している人もいた。

だが、日本会議、創世「日本」、神道政治連盟らの極右カルト団体に所属する議員がほとんどとなった現自民党は、もはや、完全なるナチスだ。極右カルト集団となっている。


安倍晋三ナチス政権は突出したファシズム政権であり、突出したナチス政権である。



明確に、自然権たる基本的人権を認めず、
明確に、国家から国民への社会統制の一方通行を主張し、
明確に、緊急事態条項改憲を主張し、
すでに、集団的自衛権行使を解釈改憲して憲法を破壊し戦争法を制定した。
その他数々、違憲をしている。

ナチス自民党憲法草案の中の最高峰のナチス条項が、緊急事態条項だ。
緊急事態条項改憲、安倍自公政権は、ここに向かって暴走しているナチスだ。
補完衛星政党である維新も、ここに向かって暴走しているナチスだ。


●【ナチス 対 反ナチス の構図だ。】

ファシズムか、反ファシズムか、の構図だ。

ナチスに対して反ナチスで大同団結しナチスを倒す。これが大々々前提だ。

大同団結の政策とは、ナチスを倒すということだ。ナチスを倒してはじめて、democracy政治を実現するスタートラインにつく。
democracy政治を実現することが可能になる。

ナチスか、反ナチスか、
ファシズムか、反ファシズムか
自然権たる基本的人権を認めるのか、認めないのか


反ナチスこそ、ナチスを倒すことこそ、
ファシズムを倒すことこそ、
自然権たる基本的人権を認めることこそ、

すなわち、反ナチスこそ、
大々々前提としての大同団結の政策なのだ。


まず、ナチスを倒す、この為に日本共産党とも大同団結は、必須である。

それをしないでナチスは倒せない。
日本共産党と大同団結しないということは、すなわち、民進は、ナチスを倒す気がないということだ。

則ち、維新と同じく、ナチス補完勢力ということだ。

蓮舫氏、民進党は、ナチスを倒すことを理解できない馬鹿なのか、ナチスの一角なのか、という問題だ。


なぜこんなレベルにかくも騒ぐのか?ナチス橋下の話し相手に呼ばれたり、代表選に出たり、首相を目指すとか、身の程知らずも甚だしい。このど素人レベルで。

独占資本が担いでいるということだ。

ナチスがかついでいるのだ。

まさに、ナチスのお客さんだ。本人は気がつかない。それが致命的だ。




【了】



【関連情報】
●【ナチスを倒すためなら悪魔とでも手をつなぐと言ったチャーチル】

第二次世界大戦ではdemocracy国家は共産主義国家と共同で闘った。

ナチス・ドイツ、ファシズムのイタリア、日本軍国主義の日本というものと戦った。

そのとき、イギリスのチャーチルは、ユーゴスラビアでナチス・ドイツと闘っているチトー
(ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者。 のちのユーゴスラビア社会主義連邦共和国 第2代大統領)
を助けようと議会に提案した。

そのとき、「君は共産主義者を助けるつもりなのか」との質問を受けた。

それに対してチャーチルは言った。

「ナチスと闘うためなら悪魔とでも手を握る」と。

自由を守るというのがどういうことなのか、このチャーチルの言葉が示している。

ナチスを倒すというのがどういうことなのか、このチャーチルの言葉が示している。

●【茂木健一郎氏のブログより】
http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/4562528.html
*−−−−−−引用開始−−−−−−−−*

批判よりも代案では民主主義は機能しない

2016/07/09 06:38

いつの頃か、「批判だけでなくて、代案を」というようなことが言われるようになった。誰がどう言い出したのかわからないけれども、おかしな話だと思う。批判と代案は独立であり、批判は批判で大切にきまっているからである。

諸国の議会の様子を見ていると、与党に対する野党の役割は、何よりも「批判」である。しかも、容赦ない、過酷なまでの批判である。英国でも、アメリカでも、その他の国でも、野党は与党の政策を徹底的に批判する。それが野党の存在意義だからだ。

批判は、カトリック教会における「悪魔の代理人」に似ている。提案されたある政策に、どのような欠陥があるのか、矛盾があるのか、岡目八目で検討し、批判する。そのために野党があるのであって、批判のない野党はない。

そもそも、野党に相当する英語は、oppositionである。最初から、与党に対立するものとしてそれが前提とされ、期待されているのである。そうでなければ、野党の存在意義がないと言えるだろう。野党に対して、「批判よりも代案を」というのは、議会制民主主義の本質を知らない人だ。

「批判だけでなくて、代案を」という一見もっともらしいスローガンの矛盾は、野党の代案が通る確率がそもそも低い、ということからもわかる。むろん、与党との話し合いで代案の一部が反映されることはあるかもしれない。その場合も、十分な批判がなければ、そもそも議会が機能しない。

諸外国に比べて、日本の野党による与党の批判は、むしろ、まだまだ生ぬるい方だと私は感じる。これは、日本人気質によるところが大きいのかもしれない。日本の政治に必要なのは、代案よりも、むしろ、より本質をとらえた、容赦ない批判の方だろう。

*−−−−−−引用終了−−−−−−−−*

【私見】

ナチス政策の批判こそは、最大の政策だ。う 

反ナチスの政治をするという政策だ。

ナチスのテーブルで、ナチス政策のバリエーションを提案して何になる!

自由になれば何でもできる。

ナチスを倒せば何でもできる。

【了】

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