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反改憲!【条約より憲法が上】コミュのとある日記のコメントより (【暴力革命】についてのとっかかり議論)

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(投稿元:kさんの日記:http://mixi.jp/home.pl?from=global#!/diary/4836335/1951276578


【1】.アステローペ・リーフ 2016年3月23日 22:50

逆に、現代の【暴力革命】は如何にして可能か、そこの議論をぜひ、やってみたい。
私は可能だと思うんです、はい。
暴力革命をどのように定義するのか。どうすれば暴力革命ができるか。暴力革命で実現する政治とはどんな政治か。せっかく政府が暴力革命という言葉を今、登場させたのだから、国民的議論でそこのところ逆に抉り出して、どこまで可能性があるのか、どうすれば可能なのか、その議論はきっと日本国人民の覚醒に大きなインパクトがあると思うのです。今、みんな臭いものに蓋をしろで、共産党も、共産党支持者も一般国民も掘り下げて見ないようにしてますから。ここは非常に大きなとっかかりだと。

【2】..Mさん 2016年3月23日 23:00
> アステローペ・リーフさん 共産党は公安に常に見張られていますからね。やってくれたら政権の思うつぼでしょう。

【3】..アステローペ・リーフ 2016年3月23日 23:24
> Mさん そうとも言えないと思いますよ。いくらなんでも、火炎瓶闘争などしない。

【4】.kさん 2016年3月24日 13:43
> アステローペ・リーフさん 私は暴力革命なんて無理だと思っています、もっともデモであれ何であれ権力側の暴力に対する自衛権行使が暴力とされることが多いですが。

 Mさん、絶対に有り得ないです。

【5】.アステローペ・リーフ 2016年3月24日 14:02
> kさん きっと、kさんは、爆弾や機関銃など武器でという考えなんでしょう。丸腰でも人民の津波が起これば、革命は起こりますが。暴力革命という言葉の意味定義の問題では?

http://blog.goo.ne.jp/isshin3_jph_m/e/e3fc8132e2b5f7f3b17f833765063ba5←これも、選挙によらない人民の津波という意味では、物理的な国家の一新=革命です。暴力革命と命名するのもしないのも、選挙によらない一新=革命=暴力革命といえます。

政治は、下駄を天になげて、「革命は、起こるか起こらないか」という、天気予報じゃないから、人民の意志次第です。眺めるのではなく。

暴力とは何か、その追究がkさんはできてない。

暴力とは何か、その追究を蓋をせずに直視しないと、いつまでたっても、共産党は暴力革命を目指しているというプロパガンダに、受け身の防戦になる。目指してない、目指してる、という。

じゃあ、革命権の行使も認めないということですか?

それは、自然法に反する。

自然法違反するというのは、自然権に反する。自然権に反するというのは、天賦人権、基本的人権に反する。

【6】.Mさん 2016年3月24日 15:22
西洋の基本的人権は「神より与えられしもの」であり絶対王政時代の「王権神授説」を覆すものでした。ですから西ヨーロッパでは「市民革命」が起きました。その後「資本家」と「労働者」の格差拡大に歯止めがかからず「プロレタリアート革命」という思想が生まれました。
しかし「日本国憲法」ではどちらにも基本的人権があるとされます。したがって血の流れる革命はいかなる場合でも「ノーです」だからこそ「日本共産党」は「選挙協力」という「合法的」方法で「革命的」な変革を起こそうとしているに過ぎません。
警察庁の答弁は「自民党のプロパガンダ」の代弁者に過ぎないと思います。警察庁も官僚組織ですから時の政権の意向を無視できません。要するに国家的「ヤラセ番組」を放送したということになりますよね。

【7】.アステローペ・リーフ 2016年3月24日 15:37
> Mさん 流血になるなら、ノーで、流血にならないならokなんて、それは結果論です。ピープルパワー革命では、流血にならないと確信を持って臨んだのではないでしょう。しかし、兵士は武器をすててデモに合流するものまで現れた。流血がある革命権の行使はだめで、人民は暴力的権力に殺されるまで、従順でいなさいなどと、どこで決まっているでしょう。
どんな小さな生きものだって、生命が脅かされたら抵抗します。それが生命の原理です。

>西洋の基本的人権は「神より与えられしもの」であり絶対王政時代の「王権神授説」を覆すものでした。ですから西ヨーロッパでは「市民革命」が起きました。その後「資本家」と「労働者」の格差拡大に歯止めがかからず「プロレタリアート革命」という思想が生まれました。
しかし「日本国憲法」ではどちらにも基本的人権があるとされます。したがって血の流れる革命はいかなる場合でも「ノーです」

これは、まちがってます。論理的推論としてなりたってない。
1.西洋の基本的人権は「神より与えられしもの」であり絶対王政時代の「王権神授説」を覆すものでした。
2.ですから西ヨーロッパでは「市民革命」が起きました。

1.から2.は、事実の連関として、演繹されない。
1.の事実関係が出だしから間違っている。
基本的人権は、日本国憲法においても、自然権です。万人共通です。

>しかし「日本国憲法」ではどちらにも基本的人権があるとされます。したがって血の流れる革命はいかなる場合でも「ノーです」

これも間違いです。
1.「日本国憲法」ではどちらにも基本的人権があるとされます。
2.したがって血の流れる革命はいかなる場合でも「ノーです」

1.から2.は、事実間関係として演繹されない。あなたの情緒的価値判断です。
人民の基本的人権を守るために、革命権の行使は、自然権としてあります。
流血が発生したら現行犯を逮捕できないのでは、犯人など捕まえられない。

(コメントは 2016/03/24 15:50現在 以上 )

************************************

場外私見:

自衛権といおうが、抵抗権というおうが、意味定義の問題ですから、情緒的価値判断の世界ですから、本質的意味定義、経験的意味定義の問題ですから、そんなことはどうでもいいんであって、革命権の行使を拒否しているのが、事実の法に反してますね。

じゃあ、煮て食おうが焼いて食おうがご自由に行くところまで行けばいい、自衛権の行使のデモで意思表示はしますが。ということだろうか。

邦人だけでも310万人先の大戦で殺された。
3.11では1800人以上殺された。
暴力的権力、非合理な権力が支配している限り、こうした非合理は続く。
メディア弾圧、メディア腐敗に八百長選挙に年金貯金の強奪に、枚挙にいとまがない。

革命権の行使を、その駒を捨てれば、暴力的権力は非合理な権力は、矯正されるのか?

あり得ない。

一般的にテロは殺戮を認識目的とするが、
革命権の行使は、人民の基本的人権を守る国家を作ることを認識目的とする。
両者は違う。

流血の有無は、起こるときもあるし、起こらない革命のケースもある。
ピープル・パワー革命は画期的だった。
http://blog.goo.ne.jp/isshin3_jph_m/e/e3fc8132e2b5f7f3b17f833765063ba5

だが、流血の有無にかかわらず、ピープル・パワー革命の遂行者は、進んだだろう。
兵士の銃口がどっちを向こうが。
そこに、フィリピン人のdemocracy【人民支配、人民主権】の矜持がある。

殺されるまで、ちょっとばかり抵抗の意志表示を自衛権の行使と意味定義してするだけで、あとはご自由にどうぞ、とは、ならない。それが、歴史の真実だ。
第二次世界大戦に突入した日本人民が、天皇制ファシズムで徹底的に洗脳され、官憲に徹底的に弾圧されしばられた結果であったことからして、その教訓は、日本人民の脳裏にどこかで生きている。すくなくとも、一定の人々に。

政治は天気予報ではない。下駄を放り投げて、明日は天気かどうかではない。

人間の意志でどうにでも動く。

●【自由意志と決定論の問題は、量子のレベルでは、未知だ。
人間の持つ自由意志に懸けて、人類は、日本国人民は、立ち上がる必要がある。】


●【電子のレベルでは、因果律の働く余地が全くない。「量子力学のパラドックス(ジレンマ、真と偽の混在)について。」】

※【参考情報】
(出典:「理性のゆらぎ」  青山圭秀著 P.180〜P.182 )
*−−−引用開始−−−*
 たとえば、物質を構成する原子は、中心に原子核があり、その周りを電子が回っているものと考えられた時期があった。今でも、中学や高校の教科書には、そう書いてある。とすれば、ある時点における電子の位置(q)という運動量(p、質量×速度)は、古典力学、すなわち因果律にしたがって一意に定まることになる。
 しかし、そのような電子の“軌道”というものは、実際には存在しないのである。量子力学の教えるところによれば、ある時、ある電子がどこにいるのかは、測定した瞬間に確定するのであるが、その結果は純粋に確率的に決まる。多回数の観測を行った場合の傾向は分かっても、一度の観測でどういう結果が得られるかは、全くの偶然による。その結果に対応する原因は、「分からない」のではなく、「ない」のである。ある時、ある電子がどういう運動量を持つのかも同様に、純粋に確率的に、偶然決まる。そこには、因果律の働く余地が全くないと考えられているのである。
 この思想を推し進めていくと、われわれが物理的に「実在」していると思っているものも、実は全て、本質的にあやふやな存在であることになる。この世界には、およそ知りうる本質的に確定したものは、何一つない。何事も、どこまでも、確率的事象であり、確率的存在であることとなる。
 量子論のこの思想は、われわれの直観からは到底受け入れ難いものである。しかし今日、科学者たちがこれを認めざるを得ないのはなぜか。それは、これによって、自然の現象をより単純に、整合的に説明できるからである。もともと、因果律も、われわれの経験を説明するための産物である。経験の質と量が増せば、常識もまた、変更される。しかし、ここまで来ればだれにも明らかなように、これで本当に正しい常識が得られたのかどうかなど、実はどこまで行っても分からないのである。

 覆る常識は、因果律に限らない。われわれの科学を支えるもう一つの柱、「観測」もそうである。
 われわれは、ものごとをありのまま観測し、そこから客観的データを得ていると、何世紀にもわたって思い続けてきた。まさにそれこそが科学の基盤であり、科学を科学たらしめるもののはずであった。ところが、やはり今世紀に入ってから、われわれの観測はつねにある「ゆらぎ」がつきまとうことがはっきりと認識される。
 現在成功を収めている量子力学の基本方程式は、対象にある観測を行ったときに、その対象の状態が変わり、それを含んだある観測値が得られる、という形をしている。つまり、われわれが何かを観測しようと思ったとき、観測されたものはすでに状態を変えている、ということである。
 ある粒子の位置を確かめようとすれば、運動量が決まらない。運動量を測定しようとすれば、今度は位置が決まらなくなる。Δq・Δp≧h/4πという一遍の不等式で表されるこのゆらぎは、人間の物理的認識において根本的に避けがたい要素と考えられている(不確定性原理:Uncertainty principle)。
 さらに、その観測を行う装置や、当の観測者自身はどういう法則に従うのかという問題も生じる。観測対象が不確定性に従うことはいいとして(よくはないが、仕方がないとして)、ではそれを観測する装置や観測者自身は、確定した何かなのだろうか。しかし、観測装置は明らかに量子力学に従うだろうし、観測者である人間も、これを物体と考えるなら、その個々の構成粒子は量子力学に従い、不確定なもののはずである。そうすると、それらの間で行われている観測という行為が、何かしら意味のあるものだという保証は、どこにあるのだろうか。
 この問題を解決するために、たとえばノイマンという天才数学者(アメリカ)は、量子力学から独立した、つまり、物理法則によらない、観測者の「自意識」というものを想定した。あらゆる観測を行う主体は、結局、この自意識だというのである。(J.von Neumann 『 Mathematische Grundlangen der Quantenmechanik 邦訳:量子力学の数学的基礎  みすず書房』)。
 なるほど、そう考えればことは収まるし、また、そのように考えざるを得ないようにも見える。ところが、この想定は、一つの大きな犠牲をわれわれに強いることとなる。なぜなら、もともと物理学には、この世界の実在を、全て物質とその相互作用とに帰着させようという大前提があったはずだからである。その物質をとことんつきつめていくと量子力学という理論につき当たり、その挙げ句われわれは、この巨大な思想を完結させるために、非物理的実体を想定せざるを得ないというパラドックスに陥る。
 実は、量子力学にはこのような根本的なパラドックスがいくつかあり、それらの解決はついていない。量子力学が本当に「完結」するのか、さらに一般相対性理論というもう一方の大理論と折り合いがつくのかどうかも、大いに疑わしい。
 そもそも、この世界を記述する際に、それを物理的側面からのみで完結させることができるなどという保証は、どこにもないのである。
 以上のような人間理性の本質とも関連して、イギリスの天才物理学者ホーキングは、次のように語る。
「もし、完全な統一理論が本当に存在するとすれば、それはわれわれの行為をも決定しているだろう。これはつまり、この理論をわれわれが探究することによって得るであろう結果も、この理論自身によって決定されているということだ。しかし、われわれが証拠から出発して正しい結論を引出すことをこの理論が決定づけていると、どうして言えるのか?われわれが誤った結論を引出すと結論づけられていても、不思議ではないのではなかろうか?ひょっとして、そもそも結論になどたどりつきさえしないようになっているのではないのか?」(S.W.ホーキング 『A BRIEF HISTORY OF TIME 邦訳:ホーキング宇宙を語る 早川書房』)

*−−−引用終了−−−*

リーフ注:パラドックス:「パラドックス(paradox)とは、ギリシャ語で「矛盾」「逆説」「ジレンマ」を意味する言葉。 数学・哲学の分野では「一見間違っていそうだが正しい説」もしくは「一見正しく見えるが正しいと認められない説」等を指して用いられる。」(出典:パラドックスとは (パラドックスとは) [単語記事] - ニコニコ大百科 http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9)  

●「本人が高まり、浄化されることが、まわりの環境をも浄化するという思想」について。

※【参考情報】
(出典:「理性のゆらぎ」  青山圭秀著 P.249〜P.251 )
*−−−引用開始−−−*
・・・
 では、現時点だけとれば、われわれの体と環境とは別々なのだろうか。
 個々の粒子が別々の独立した存在だと思われたのは、ニュートン時代のことである。現代物理学の教えるところでは、どんな粒子も個々別々のものではありえない。というよりも、それはわれわれが頭の中で想像するような粒子ではないのである。先にも書いたように、物質には原理的に波動性が含まれている。「波動関数として数学的に扱われるその波動は、中心に最大の存在確立を持つが、すそは無限の遠方まで広がり、互いの時間と空間を共有する。
 この世界で時々刻々と生起する物質的な事象とは、結局、互いに触れ合い、時空を共有する、これらの波動の相互作用である。原理的に、それは全体として一つであり、とてつもなく巨大な一個のエネルギーのうねりといえる。ただ、これをそのままの形で捉え切ることは人知では不可能なので、便宜上われわれはその要素を一つひとつ区別し、近似的な観測をし、近似的な理論を展開する。ありがたいことに、人はそれを科学と呼んでくれている。
 物質、つまり存在の表層レベルですらそうなのである。ましてや深いレベルでは、一見別々に見える存在は、お互いに深くつながっており、そして最も深いレベルでは全ては一つであるというのがシャクシマールの主張であり、ヴェーダの主張である。
 こうした考え方は、実はインド文化に限ったものではない。瞑想であれ何であれ、それによって本人が高まり、浄化されることが、まわりの環境をも浄化するという思想は、世界中の文化に根づいている。どんな社会にも、祈りや祭祀を専門とする人々が発生し、彼らは、その集団で最も、場合によっては王よりも尊敬されることとなる。
 たとえば、カトリックの修道会には、外で社会活動をする「実践修道会」と、内に籠もって祈りと犠牲の生活を送る「観想修道会」とがある。後者は、前者のように学校や病院を経営したり、孤児院を運営したりというような、いわゆる生産的なことはしない。自分たちのものは自分たちで賄い、外部とはほとんど接触することなく、祈りと犠牲の生活に明け暮れる。社会全体が物質主義に陥っても、こうした修道会が脈々と続いてきた根底には、彼らの生活が、それ自体、社会に大きく貢献しているのだという根強い思想がある。
 同様に、ヒマラヤの聖者は山に籠もって瞑想して、社会に何の貢献もしていないかといえば、おそらくそうではない。彼らのかもしだす肯定的な波動は、この精妙な科学の法則に基づいて、世界を覆っているに違いない。

・・・
*−−−引用終了−−−*


●【マルクスは、決定論だ。放っておいても矛盾から革命すると言う決定論だ。】


だが、「決定論」のマルクスよ、核爆発で人類が滅んでも革命があると言えるのか!?

天国ででも革命を成就するつもりか♪(*^^*)




量子力学の哲学的な意味は大きい。

マルクスが決定論であるのに対して量子力学は決定論でない。

電子は誰かが観測したら粒子になって位置が決まるが、誰も観測してない時には波。

観測したとたんに、すなわち、「だるまさんが転んだ」で振り返った途端、

「ここにいるよ」と位置を決定して形になって姿をあらわす。粒子なって存在する。

観察されることで、波の未来が決定したに等しい。

観察されることで、「粒子」の姿と現在の位置が決定した。

量子の世界では、未来があらかじめ決定しているという「決定論」はないのだ。

観察という行為起こるまで未来は何も決定していない。

量子の世界では、「だるまさんが転んだ!」で振り返るまで、未来は何も決定していないのだ。



●【羽仁五郎の主張した、量子力学の、未来はわからないと言う主張、決定論に対する反論は、
人類に希望をもたらしている。】

我々の自由意志で、決まる。

マルクスの決定論の欠陥を拒否する。

すなわち、日本共産党の眠っていればそのうち革命が起きると言う思想は、まちがいだということだ。核弾頭が落ちた後、人類はない。



だが、量子力学には、「だるまさんが転んだ」で、形のないものが粒子の形になって姿を現すという事以外に、もう一つ重要な点がある。

なぜ、粒子は、上記スリット実験で、観測した時、波の形になって(縞模様になって)粒子が疎密に偏ってしまうかという位置の問題だ。


これを、人間界、歴史に変換したらどういうことが言えるのか。

量子力学は、「未来のことはだるまさんが転んだ状態だ、決定論でない。」と言うレベルの話だけではない。疎密の波の形に確率的に位置を片寄らせていると言う点は、実に重要な点である。
粒子は出現した粒子はどこにでも出現しない。意志をもってあるところに偏る。

これを、人間界、歴史に変換したらどういうことが言えるのか。

私の仮説では、ここの歴史の出現は、決定論ではなく、人類の意志のベクトルが働いていることは当然だと思う。

人民の想念の方向、願いの強さ、意志の強さ、覚醒の強さ、こうした意志、願い、理念、というものへの強さが、
「だるまさんが転んだ」の観測時点での粒子の位置決めに、
すなわち、人類史、歴史、世の中の動きの確定に、
【ベクトル】として働いている。

それが量子力学を人類の歴史に座標変換した時には言えると思う。
マルクスの「決定論」に対してアゲインストする意味で言えてるのではないかと思う。

人類史、歴史、世の中の動きを確定する意志の【ベクトル】として、日本国憲法第9条の理念は、多大な可能性を秘めていると言えるのではないか。

主権者人民のdemocracyへの覚醒による、社会契約説への覚醒による、自由への確信による、人類の新たなる強烈な意志の、理念の【ベクトル】、
覚醒による【ベクトル】、
この【ベクトル】は、歴史を位置決めする強烈な力がある。
「決定論」ではなく、止揚(アウフヘーベン)して社会を前進させ、社会制度とし座標を出現させる原動力がこうした【ベクトル】にはある。

歴史は受動的な「決定論」ではなく、能動的な「自由意志」をもって動かさなければならないものだ。

(了)


*-----------------*
【関連日記、関連トピック】
第15-1124  ●自由意志と決定論の問題は、量子のレベルでは、未知だ。 人間の持つ自由意志に懸けて、人類は、日本国人民は、立ち上がる必要がある。
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-5960.html
(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=79155583&comm_id=6172614)
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1948768019&owner_id=38378433)

第15-213 福一の件。この災害を乗り越える能力について。
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-5028.html
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1939981625&owner_id=38378433)

第16-0209 【権力を持っているものの暴力と、権力を持たないものの権力への暴力とは全然性質が違うのだ。】
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-6216.html
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6172614&id=79456237

第16-0297 暴力には正しい暴力と、正しくない暴力があるのだ。暴力革命だけを取り出して議論するのは間違いだ。安倍晋三の暴力的権力、非合理な権力とセットにして論ずるべきものだ。
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-6304.html
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1951276647&owner_id=38378433)

第16-0296  暴力という言葉をしっかりと認識することだ。安倍晋三は、暴力的権力の権化だ。暴力的権力が、暴力で俺を倒すなと言っていることの意味をしっかりと考えてみる必要がある。暴力とは何か。
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-6303.html
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1951270193&owner_id=38378433)

第16-0295 暴力には正しい暴力と正しくない暴力がある。暴力的権力、非合理な権力を倒し、市民的平和権力、市民的平等権力、合理的権力に取り換えることをもって、暴力革命というなら、それは正しい暴力である。
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-6302.html
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1951261575&owner_id=38378433)

第16-0202 政治的公平公正って一般の公平公正と全く違う。権力の暴走を止めなければいけないのが公平公正。 
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-6209.html
(http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6172614&id=79508462)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950706757&owner_id=38378433

第16-0140 国家権力の「現実の力」に対して、「抵抗する言論」というもの以外に「言論の自由」はあり得ない。実際に戦争が起きれば、人間の自由など一切吹き飛んでしまうのだから
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-6147.html
(http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6172614&id=79508462)
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950319506&owner_id=38378433)

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