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反改憲!【条約より憲法が上】コミュの【権力を持っているものの暴力と、権力を持たないものの権力への暴力とは全然性質が違うのだ。】

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■「高市氏言及の停波は違憲」 憲法学者ら見解表明
(朝日新聞デジタル - 03月03日 01:26)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3879570

●【権力を持っているものの暴力と、権力を持たないものの権力への暴力とは全然性質が違うのだ。】

高市早苗は、権力の暴力だ。

安倍晋三の解釈改憲も権力の暴力だ。

安倍晋三の、違憲改憲も権力の暴力だ。

安倍晋三は、権力の暴力の総合デパートだ。

特定秘密保護法も、TPPも、消費増税も。



democracy革命が必須だ。
このナチス国家に対しては、democracy国家にすべく、革命権の行使をする日が迫っている。
その日の為に、国民は腹をくくるべきだ。


●次の発言は、カウンター情報であり、間違いだ。

*−−−−掲題記事−引用開始−−−−−−*
【樋口氏は「何人も自分自身がかかわっている事柄について裁判官になってはならないという、自由民主主義社会の基本原則が肝心な点だ」と述べ、政治的公平を政治家自身が判断することの問題点を指摘した。
*−−−−掲題記事−引用終了−−−−−−*

「何人も自分自身がかかわっている事柄について裁判官になってはならない」などというのは間違いだ。

最高裁判所の裁判官というのでさえ、あれは、国家権力の側の裁判官であり、その上に主権者国民がいる。

人民主権の主権とは、政治を最終的に決定する権利は人民にあるということだ。

国民は腐った国家は一新しなければならない。その主権が人民にはある。


くり返す。

人民主権の主権は、政治を最終的に決定する権利は人民にあるということだ。
人民が最終的、裁判官だ。

最高裁判所の裁判官は、国家権力の側の最終的な司法判断だ。

その上に人民の主権がある。

受け入れる受け入れないは、人民の主権だ。

国家権力とは、人民が国家に信託したものだ。

何の為に?国家に国家の本分を果たさせるためだ。

国家の本分とは何か?

国家は、人民が作ったのだ。人民の基本的人権を守るために。それが社会契約の国家の定義だ。日本国憲法は、近代社会契約にのっとっている。

主権の最終的行使は、革命権の行使である。





●【歴史的には、もはや、暴力革命をする非常事態に、日本国人民は位置している。暴力革命というのは、良いか悪いかの問題ではない。成功するかどうかの問題だ。】

抵抗権の行使、革命権の行使にはランクがある。

【通常時】
4年毎の選挙で変革する。

【緊急時】
しかし、緊急時には緊急時の手段がある。

【ランク1】:デモ

【ランク2】:スト権の行使。

【ランク3】:ゼネスト。

これで政府を倒せるのだが、我が国は、違憲な法律で、公務員のスト権が行使できないように縛り上げられている。
したら官憲が手錠と投獄で取り押える暴力国家になっている。
だが、時は、やるべき時に至っている。

スト権は、いかなる悪法で禁じようとも、禁じられない自然権だ。基本的人権だ。

組織的に、憲法に反する法律や行政命令や裁判所の判断に従わない行動をとることは、ゼネストに相当する。

【ランク4】:無血_革命権の行使。

peopleパワー革命は、無血democracy革命の好例だ。
<photo src="v2:2089427117:l">
ソース:フィリピン「ピープル・パワー革命」25周年 Vol. 2(ソース:http://blog.goo.ne.jp/isshin3_jph_m/e/e3fc8132e2b5f7f3b17f833765063ba5)
*−−−引用開始−−−−−*
 マルコス大統領とイメルダ夫人は、国民感情が自分たちから離れていることに気づき、状況を打開するため、シン枢機卿に自分たちの側について国民を説得してくれるよう依頼しましたが、枢機卿はこれを丁重に拒否。大統領と夫人に対して、マルコス打倒を叫んでエドサに集結していた群衆に対して武力行使を行わないようお願いしました。にもかかわらず、大統領は軍に対してデモ制圧のための武力行使といった強権を発動したのです。
 戦車と兵士の一隊がデモの大群衆に接近した時、デモに参加していた民衆はその場にひざまずき、ロザリオの祈りを唱え、聖歌を歌いました。これを見た兵士たちは、マルコス大統領の武力制圧の命令を拒否したばかりでなく、一部は逆にデモ隊に加わりさえしたそうです。
*−−−引用終了−−−−−*

【ランク5】:基本的人権を国家暴力団の暴力から守る為の暴力革命

究極の非常の手段である。

【主権者人民の基本的人権を守る為の暴力革命】は、究極の抵抗権の行使であり、究極の革命権の行使であり、究極のdemocracyそのものだ。

【主権者人民の基本的人権を守る為の暴力革命】は、良いか悪いかの問題ではない。

【主権者人民の基本的人権を守る為の暴力革命】は、可能かどうかの問題だ。)



(1)物理的な行動として、

憲法に反する法律は守らないこと!

憲法に反する裁判所の判断には従わないこと!

これらは日本国憲法98条が言っていることだ。
近代社会契約の国家、国家権力、人民主権の近代において当たり前のことなのだ。
近代社会契約の国家、国家権力、人民主権の日本国憲法下において当たり前のことなのだ。

憲法違反する法律にも、憲法違反する行政命令にも、憲法違反する裁判所の判断にも従わない、それが抵抗権であり革命権の行使だ。

(2)物理的な行動としての最後の最後の手段は、【人民の基本的人権を守る暴力】が自然権として保障されている。どんな小さな動物でも、絶壁に追い詰められたら、猛獣に向かって走り出し、その間隙から逃げていく。
魚だって、人間に追い詰められたら、人間のいる方向に向かって突進して、その間隙から逃げ去っていく。
それしか生きるすべがなければ、相手が何者だろうと立ち向かっていって、その先に開けている生きることのできる世界に突進していくのは、すべての生物の生命の原理だ。

犬だって猫だって、どんな凶悪な人間が取り押さえようしても、必ず、絶対に、牙をむき、大声を発し、噛みつき、抵抗し、逃げようとするのだ。勝てるか勝てないかではない。それが生命の原理だ。

権力を持っているものの暴力と、権力を持たないものの権力への暴力とは全然性質が違うのだ。

(歴史家の羽に五郎氏は言っている。
『人間復権の論理』 三一書房 羽仁五郎著 
資本に奉仕する学問 (P.97〜P.98)
「たえずぼくがいうように、誰かかりに乱暴したとしても、いわゆる暴力論では片づけられないんだ。暴力というのは二種類ある。乱暴にも二種類ある。権力を持っているものの暴力と権力を持たないものの暴力とは、まったく性質が違う。これは時間がないからくわしい論理は省きますけれども、わかりやすい例は、かりに現在夫婦げんかが起こった。そのとき三つか四つか五つくらいの子供がそこにいるとして、これは私はあらゆる暴力に反対ですなんていうはずがないんだね。必ず父親の味方をしないで、母親の味方をする。それは父親の暴力は権力を持つものの暴力である、これは許すべからざるものであるが、母親の暴力は、権力を持っているものの暴力に対して戦う唯一の手段である。これはあくまでも支持しなければならないということを、五つくらいの子供だって知っているんだ。 
・・・
第一には東京大学が戦争に少しも抵抗しなかったという問題があるけれども、第二は権力を持つものが、安田講堂の学生に向かってガス銃を十五メートルぐらいの距離から直撃したりしているということのほうに問題があるんだ。もちろんぼくは法学部のいろんな資料がだめになったということも残念なことだとは思っている。しかし、学生に向かってガス銃を直撃するようなことは残念なんていう程度のものじゃない、許すべからざるものだ。」

思うにこの権力を持つものの暴力とは、権力という圧倒的な強者が、権力にものを言わせて基本的人権を毀損する暴力であり、
それに対して、権力を持たないものの権力への暴力というのは、暴力的権力、非合理な権力への抵抗の暴力だと思う。


国家暴力団の暴力に対して、暴力の行使しか人民の基本的人権を守る手段がない時には、
暴力を以って資格無き国家、資格無き国家権力を打ち倒す道が人民の自然権として保障されているのだ。
そのような暴力はすべての生命あるものにとって正しい暴力なのだ。自然権だ。
人間にとってはれっきとした人民主権の行使だ。すなわち、democracy【人民支配、人民主権】だ。基本的人権の行使なのだ。

暴力革命が絶対にいけないなどというのは、だから、間違った、ナチスの洗脳フレーズだ。

国家暴力団が暴力を使い、それに対してもはや暴力を以ってしか人民の基本的人権を守ることができない時には、暴力を以って資格無き国家、資格無き国家権力を倒し、人民の基本的人権を守るというのは、当たり前の人民の権利なのだ。

そのことを、日本国人民は理解する必要がある。

暴力には、正しい暴力と正しくない暴力があるのだ。

人民の基本的人権を守る為の暴力は正しい暴力だ。
人民の基本的人権を守らない暴力は、正しくない暴力だ。

(3) ただ、それで、残虐な国家の、プロレスラーのような暴力に、
人民の正義の暴力が勝てるかは別問題だ。
強大な国家権力を持つ、武器を持つ、銃口を持つ国家と、人民の暴力の対決は、まさに、プロレスラーと、子供の闘いのようなものだ。
話にならない。
だから、通常は暴力では解決にならないのだ。

(4) だが、最後の最後、人民の怒りが究極に達したときには、・・・

子供を守る母親の怒りが人民の総意となって物理的力となって、国家権力に歯向かう必要がある。
それが生物の自然の摂理だ。究極の抵抗権であり、究極の革命権だ。

棒を持って髪の毛を逆立てて立っている女に、
暴力は止せと叫ぶ前に、
見よ!その女性の後ろに幼子がいて、その女性の前には狼がいるのだ。

暴力には、正しい暴力と正しくない暴力があるのだ。

人民の基本的人権を守る為の暴力は正しい暴力だ。
人民の基本的人権を守らない暴力は、正しくない暴力だ。

最後は、人民の基本的人権を守る正しい暴力の行使で政府を倒す権利が、主権者人民の基本的人権にはあるのだ。天賦人権にはあるのだ。

基本的人権を守る為にもはやそれしかないときには、一億総結集して、政府を倒す権利が
人民の基本的人権にはあるのだ。
そのような正しい暴力の行使を行う覚悟を主権者人民が心の根底に持つことは、非常に重要な心の準備だ。

【主権者人民の基本的人権を守る為の暴力革命】は、

究極の抵抗権の行使であり、

究極の革命権の行使だ。

それはまた、究極の人民主権の行使であり、

究極のdemocracyだ。

【了】

<追記>
注:自然権には二種類ある。価値一元論と価値二元論だ。
このレベルでの話は、また別の議論になります。私は価値二元論の立場です。

日本の人民の多くは、価値二元論を理解していない。だから、この世に、先験的に、ア・プリオリに、正しい価値があると思っている。宗教もその一形態だ。憲法9条も、非暴力も、戦争も。

価値一元論で初めに絶対正しい価値が実在するという思考は、人間の思考を硬直させる。価値相対主義、価値情緒主義、価値二元論、同じものだ。
「すべての暴力はいけない」を価値一元論として信じ込まされている人々が「暴力には二種類ある」という理解をできないでいる。日本国人民が思考的に未開人である証拠だ。

この面でも、日本人民は進化しなければ淘汰される。いまがその淘汰の瀬戸際だ。
(了)

<追記>
●【内乱罪について】

内乱罪というのは、安倍晋三に適用すべきものだ。

強盗集団が、国家を乗っ取り、抵抗する国民を内乱罪だというのは、当たらない。
強盗が、刃物を突きつけ 「抵抗するな、抵抗したら俺が怪我するじゃないか、お前を傷害罪で訴えるぞ} と言ってるのと同じだ。


【関連日記】
第16-0140 国家権力の「現実の力」に対して、「抵抗する言論」というもの以外に「言論の自由」はあり得ない。実際に戦争が起きれば、人間の自由など一切吹き飛んでしまうのだから
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-6147.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950319506&owner_id=38378433

第16-0202 政治的公平公正って一般の公平公正と全く違う。権力の暴走を止めなければいけないのが公平公正。 
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-6209.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950706757&owner_id=38378433

第16-0204  【京大は地に落ちた。これが戦前なら特高や憲兵の先頭に立って活動しているのと同じだ。本質は変わらない】
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-6211.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950724902&owner_id=38378433

第16-0142 歴史的には、もはや、暴力革命をする非常事態に、日本国人民は位置している。暴力革命というのは、良いか悪いかの問題ではない。成功するかどうかの問題だ。
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-6149.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950310811&owner_id=38378433

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