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反改憲!【条約より憲法が上】コミュの【京大は地に落ちた。これが戦前なら特高や憲兵の先頭に立って活動しているのと同じだ。本質は変わらない】

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■「マジ迷惑」 京大中核派バリケード解除させたのは学生
(朝日新聞デジタル - 02月29日 18:30)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3875429

●【京大は地に落ちた。これが戦前なら特高や憲兵の先頭に立って活動しているのと同じだ。本質は変わらない】

【所感】

1.【国民の基本的人権が、暴力的国家権力、非合理な国家権力の暴走に侵されている今、
学生組合である大学が、率先して、国民の先頭に立って、危機感をもって抵抗する、ストライキをするということは当然のことだ。】

「学問の自由」を守ることは、「学問の自由」を守ることにとどまらない。
日本国人民の命や自由という基本的人権を国家権力から守ることと直結している。
それを劣化学生が、勉強の邪魔だ、学問の邪魔だといって破壊する。

だが、戦争になれば、あらゆる自由は破壊される。
学問の自由も破壊される。

だから、戦争反対のバリケードを撤去するところに学問の自由はない。
戦争になれば、あらゆる自由は破壊されるのだから。


2.【もとより、大学には歴史的、本質的に、治外法権がある。法律以前の問題だ。】

だから警察はバリケードに手を触れることができない。
治外法権のシンボルだ。
その治外法権のシンボルを以って行うストライキに対して、学生が警察化して解除する。
あり得ないことだ。

大学側が、大学の自治の歴史をかえりみもせず、警察を使う。
あってはならないことだ。


3.【それにしても、勉強の邪魔だという。学問の邪魔だという。なんたる「学問の自由」を守ることへの認識欠如か!】

「学問の自由」は、一人一人がどんなに頑張っても守れない。
みんなで守らなければ「学問の自由」を守れない。
一人机に向かっていても学問の自由を守れはしないのだ。
そして、「学問の自由」が破壊されたら、学問は死ぬ。
戦争になったら、すべての自由が破壊される。学問の自由も剥奪される。

だからこそ、みんなでその戦争を防ぐ為に抵抗するストライキを呼びかける。
自由を守るために、学問の自由を守るために、ストライキを呼びかける。

そのストライキの象徴、大学の栄光の自治権の象徴たるバリケードを撤去する一般学生。

地に落ちた一般学生のレベルだ。


4.【そもそも、ファシズム、立憲主義破壊、憲法破壊、その象徴的戦争法遂行に対して、
迎合する学問など学問ではない。そんなところに真理の追究などない。】

このバリケード撤去の一般学生は、いったい何を勉強するというのだ。
大学はそんな権力迎合、後押しをする勉強をしに行くところではない。
戦争、ファシズム、この道に、いかなる未来もない。無論、自由はない。学問の自由もない。
学問の自由がなければ学問は発達しない。学問の自由によって学問がたえず発達する。
だから最高の学問というのは学問の自由のことだ。
その学問の自由を守らない京大一般学生は、劣化も甚だしい。

(了)



◆◇◆ 【参考情報1】 ◆◇◆ 

●【大学における治外法権の意味】

(「人間復権の論理」 三一書房 羽仁五郎著 P.52〜P.54)
*−−−−引用開始−−−−−−*
大学における治外法権の意味

大学の本質がどういうところにあるかということは、歴史的にも証明できるのだ。ルネサンスのボロニアというところにボロナ大学というのがある。このボロナ大学は近代の大学の典型なんですね。さっきあげた慶応義塾の池田君なんかは、自分がイギリスで勉強したのかな、ケンブリッジとかオックスフォードとかいうものが大学の模範だと思っているが、ケンブリッジやオックスフォードは近代の大学の典型じゃないよ。あれは僧院に付属して発達した大学で、中世的な色彩が非常に多い。反対にボロナ大学というのは近代に新しくできた大学だ。このことはぼくの岩波新書の『都市』、あるいは『都市の論理』の中に書いてあるから、くわしいことはいまここで述べないが、ボロナ大学が世界の歴史にはじめて大学ユニバーシティと名のった。そのウニヴェルシタスとはユニオン、組合という意味であり、中世の末から近代のはじめにさまざまの職業の組合が自立した。そのなかに、ボロニア市にはじめてあらわれたウニヴェルシタス・スコラリウムは学生の組合なんです。したがって第二にボロナ大学の場合には、学長、あるいは総長は、学生組合の議長ですから当然学生なんです。だから古田君はやめるのにちっとも心配いらないんですよ。ほんとはああいう人がやらないで学生がやったほうがずっとうまくいくんですね。そうすれば二十億円の使途不明金なんて出っこないんですよ。学生がやっていれば、学生が何を希望しているかよくわかりますからね。つまり現在の大学で起こってくる問題が、ボロナ大学では、解決されているんだね。それから第三には、教授の任命権というものは、当然学生の組合が持っている。それから第四に、これからだんだんと問題が複雑になって来るんだが、さっきの治外法権の問題だね、つまり大学は国家の警察権の下にないということです。いまの大学は別に治外法権じゃないけれども治外法権の性質があるか、ないかということは、たえず問題になるんだよ。誰が問題にするのかといったら、学生がつまり警察と衝突するんだ。
 だから学生が大学の主体であるということは、こういうところにもあらわれているんだね。教授が警官と衝突してその問題が問題になるという場合も無くはないんです。たとえばさっきいったように、ぼくがつかまっていくというような問題ね。そういうときに大学教授をつかまえていいのかどうかということを、社会が問題にしてくれといいたいんだが、なかなか問題にしないんだよ。それから教授の中にはそういう目に会わない人もいて、羽仁さんはひとこと多すぎてつかまったんだろうと思っている人もあるんだね。そこでこの問題がたえず社会の問題になってくる。その点では学生もそういう非常に大きな功績をもっているんだよ。いま大学における治外法権というものを守っているのは学生だけだと言っても差しつかえないんだな、本質的に。
 現在、法的には治外法権は持っていないんです。しかしその本質があることを主張するのは学生です。それを社会が認めざるを得ない。現に警察ははいってこないでしょう。それはああいうふうに細くなっているからということもあるけれどもね、そればかりじゃないんだよ。全然近寄れない。あんなバリケードだっておまわりさんが大勢来れば、自衛隊が来れば、片づけるにはわけないんですよ。けれども手を出すことはできない。驚くべきことだね。あそこに別に化け物が出るわけじゃないんだよ。けれどもあれに警察官が手をふれることができないというのは、あれは治外法権のシンボルだから。これはこしらえている君たち学生が知っているわけじゃないんだな。だいたいぼくの本を読んでない人が多いんだから、あれに治外法権の意味があるなんてことはわかってない。本能的にバリケードを築いている。けれどもなぜ学生が本能的にバリケードを築くかというところに、学生の本質をあらわしていることがわかるんだよ。つまり、人間であるという本能と同じように、学生である本能は別に人に教えられなくても、あれを築くんだね。現にここで築いた人は別に安田講堂へ行って見てきたわけじゃないんだろう。だけどまったく同じバリケードを築いている。それは同じ原因からくる同じ結果なのです。

・・・

(日大農獣医学部学生会文化部連合---一九六八年十月十一日)

*−−−−−引用終了−−−−−−−*


◆◇◆ 【参考情報2】 ◆◇◆
 
●団結と学問の自由
(「人間復権の論理」 三一書房 羽仁五郎著 P.42〜P.46)
*−−−−−−引用開始−−−−−−−−*
団結と学問の自由

大学はなんのためのユニオンであるかというと、学問の自由を守るためのユニオンなんだね。ですから、大学の第一の本質はユニオン、つまり、団結ということにある。組合ということにある、そして第二の性質としては、学問の自由ということが出てくるんだよね。この順序を混同してしまうと、ぜんぜん話がわからなくなちゃうんだよ。だから、学問の自由、学問の自由ということをよくいう人があるが、学問の自由というものは団結なしに守られるものじゃないんだよ、実際の問題としてね。そのいい例がさっきもいったが、ぼくなんかが戦争中学問の自由を守ろうとするとつかまっちゃうでしょう、一人でいたんではね。一人でいて、牢屋の中にはいっていくら威張ってみたところで、仕方ないんだ。ふつうの学問だったらそれは一人でもできるんですね。しかし学問の自由ということになると、一人ではできないんです。
 したがって世間でよくいう、大学は最高の学問をやるところだなんてのは、いかにでたらめかということがわかるね。ふつう、個々の学問が現在において到達している比較的に最高の状態、それを最高の学問というらしいんだね。だけど最近ですと、エレクトロニクスなんかずいぶん発達しているね、それから原子核物理学とか、そんなものが現在の花形科学というのかな、そういうものが最高の学問だって。あるいは農獣医学というふうなものに関しては、遺伝学の最近の発達とか、いろいろそういうものがあるし、そういうものが最高の学問だと思っている人が多いんだね。
 だけどそうでないということは、それが過去のそれぞれの学問の最高の段階ではあるけれど、たとえば遺伝学におけるデオキシリボ核酸の問題というのは、現在の遺伝学としては最高の段階かもしれないが、ほかの学問には別に影響がないんだね。ぜんぜんないとはいえないけれども、直接の関係はない。それに、かつまたそれはこれから何年か立てば乗り越えられてしまうものなんだ。
 これをまとめていうと、部分的な、かつ、一時的な学問の段階だね。つまり、五、六年もすれば乗り越えられちゃう一時的な学問の発達を、最高の学問というふうに世間ではふつう考えているんだね。おれはエレクトロニクスをやっているなんてね。エレクトロニクス電子計算機がいかに発達しているからといって、現在の世界のすべてを変えるわけじゃないんだ。そんなことをいうのは、電子計算機の会社の宣伝をやっているにすぎないんだね。電子計算機で解決できない問題はいくらでもあるんだ。
それからかつまた電子計算機の問題は、今後五、六年たてば別の、なんらかの問題に乗り越えられてしまうかわからない。ですから最高の学問というときに、個々の学問の部分的な、一時の最高の水準というものを問題にしているのは、ふつうの常識なんだ。けれどもその常識が間違っているということはいま証明したとおりだね。
 それでは、本当の最高の学問というのはなんだ。このごろどうもみんなの考え方が、何か言うと、けっきょくデパートで売ってるようなもののように考えやすいんだな。デパートでは、エレクトロニクスなんかは現に売っているんだよ。デオキシリボ核酸だって売っているんだ。けれども学問の自由だけは売ることができないんだな、デパートでは。それは三越がいくら大きくなったって、高島屋がデカくなったって、飛行機を売ろうが、ヘリコプターを売ろうが、デオキシリボ核酸を売ろうが、電子計算機を売ろうが、学問の自由を売ることはできないんだよ。
 その第一は、学問の自由というのは与えられているものじゃないということだね。この与えられているものじゃないというのは、よくこのごろ共産党なんかに対して、前衛不在なんていう人があるがね、この前衛というものも存在するものじゃないんだ。つまり、前衛も、いるかいないかではなくて、われわれがつくり出すもんだな。それが学問というものなんだな。だからそれを自分がつくり出しもしないで、ない、ないといっているんだからね。つまり前衛というものをデパートで売っているように思っているんだね。けれども前衛というものはデパートでは売っていないんだよ。だから不在だとか、在とかいう概念はあたらないんだよ。
 そういう意味で、学問の自由というものは与えられた与件ではないんだ。つくり出すものなんだね。かつ、学問の自由によって、学問がたえず発達するものなんだよ。だから最高の学問というのは、すなわち学問の自由のことなんだ。
 この自由ということについても、日本ではずいぶんいいかげんなことをいっているんだ。たとえば岩波新書に慶応の池田潔君の『自由と規律』という本がある。あの本は非常によく売れるんだな。けれども『自由と規律』というこの題からして、自由と規律というふうにならべているだろう。自由もいいけども規律も必要だという考えなんだよ。これはぜんぜん自由のことも規律のことも分かってないんだよね。自由と規律というのはならぶものじゃなくて、自由が規律なんだよ。それを自由というんだね。
 これは基本的人権と公共の福祉という場合も同様です。基本的人権というものは尊重する、しかし、公共の福祉によって制限されるなんてのは、無学な人のいうことなんだよ。いまの国家公務員法ではそういうことになっちゃっているんだ。公務員法が敗戦後最初に日本にできたときには、そんな規定はなかったんだ。公務員も争議権、ストライキをやる、あるいは政治活動の自由も保障されていたんですがね。ところが二・一ゼネストというのに失敗してから、占領軍と政府とで公務員法を改めて、公務員の争議権をとっちゃったんだね。公務員は争議権はないんだ、それから政治活動の自由をとっちゃたんだ。そしてそれを理由として、基本的人権は尊重するけれども、公共の福祉によって制限されるというふうな、憲法に書いてある言葉を誤った意味で使ったんだよ。
 そのとき人事院総裁というのが浅井清という、前、慶応義塾の憲法の先生で、戦争中もわりに、美濃部達吉先生なんかと同じように、ある程度まで日本の憲法を守ろうとした人で、戦後に復活したんだが、ぼくは参議員のその人事委員会で、浅井人事院総裁に、あなたはこの公務員の争議権をとっちゃって、また公務員の政治活動の自由を制限する、そして、基本的人権は尊重するけれども、公共の福祉によって制限されるというけれども、それをあなたは本気で思うのか。そこにならんでいる政府の閣僚に聞いているんじゃない。だいたい政府の大臣なんかにぼくは聞いているんじゃないんだ、大臣なんかに基本的人権と公共の福祉関係なんて聞いてみたって、チンプンカンプンでなんにもわからんよ。けれども浅井さん、あなたはいま人事院総裁だが、このあいだまで慶応義塾で憲法の講義をやっていた人だ。しかも戦争中もやや節操を守って、そのために慶応義塾をやめさせられたあなたの学者の良心に基づいて、ぼくに答えてみろ。基本的人権と公共の福祉というものはならぶものかどうか。どうだといったら、浅井さんはすさまじきものは宮仕えだといったんだよね。そんなこといまさら気がついてもだめだ、またそんなことでは返答にならない、はっきり答えなさいといったら、私といえども基本的人権と公共の福祉とはならぶものだなんて考えていない、もちろん基本的人権が最高のものなんだ、公共の福祉というのは下のものなのだ。それなら下のものが上のものを制限しうるという論理上の根拠はどうしたらできるんだ、そんなことは論理上できないじゃないか。そうしたら、理屈でおっしゃればそのとおりだというんだね。理屈でおっしゃればそのとおりって、ほかにどういう理由があるんだ。
*−−−−−−引用終了−−−−−−−−*

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