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反改憲!【条約より憲法が上】コミュの●自由意志と決定論の問題は、量子のレベルでは、未知だ。 人間の持つ自由意志に懸けて、人類は、日本国人民は、立ち上がる必要がある。

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●【自由意志と決定論の問題は、量子のレベルでは、未知だ。
人間の持つ自由意志に懸けて、人類は、日本国人民は、立ち上がる必要がある。】


●【電子のレベルでは、因果律の働く余地が全くない。「量子力学のパラドックス(ジレンマ、真と偽の混在)について。」】

※【参考情報】
(出典:「理性のゆらぎ」  青山圭秀著 P.180〜P.182 )
*−−−−−−引用開始−−−−−−−*
 たとえば、物質を構成する原子は、中心に原子核があり、その周りを電子が回っているものと考えられた時期があった。今でも、中学や高校の教科書には、そう書いてある。とすれば、ある時点における電子の位置(q)という運動量(p、質量×速度)は、古典力学、すなわち因果律にしたがって一意に定まることになる。
 しかし、そのような電子の“軌道”というものは、実際には存在しないのである。量子力学の教えるところによれば、ある時、ある電子がどこにいるのかは、測定した瞬間に確定するのであるが、その結果は純粋に確率的に決まる。多回数の観測を行った場合の傾向は分かっても、一度の観測でどういう結果が得られるかは、全くの偶然による。その結果に対応する原因は、「分からない」のではなく、「ない」のである。ある時、ある電子がどういう運動量を持つのかも同様に、純粋に確率的に、偶然決まる。そこには、因果律の働く余地が全くないと考えられているのである。
 この思想を推し進めていくと、われわれが物理的に「実在」していると思っているものも、実は全て、本質的にあやふやな存在であることになる。この世界には、およそ知りうる本質的に確定したものは、何一つない。何事も、どこまでも、確率的事象であり、確率的存在であることとなる。
 量子論のこの思想は、われわれの直観からは到底受け入れ難いものである。しかし今日、科学者たちがこれを認めざるを得ないのはなぜか。それは、これによって、自然の現象をより単純に、整合的に説明できるからである。もともと、因果律も、われわれの経験を説明するための産物である。経験の質と量が増せば、常識もまた、変更される。しかし、ここまで来ればだれにも明らかなように、これで本当に正しい常識が得られたのかどうかなど、実はどこまで行っても分からないのである。

 覆る常識は、因果律に限らない。われわれの科学を支えるもう一つの柱、「観測」もそうである。
 われわれは、ものごとをありのまま観測し、そこから客観的データを得ていると、何世紀にもわたって思い続けてきた。まさにそれこそが科学の基盤であり、科学を科学たらしめるもののはずであった。ところが、やはり今世紀に入ってから、われわれの観測はつねにある「ゆらぎ」がつきまとうことがはっきりと認識される。
 現在成功を収めている量子力学の基本方程式は、対象にある観測を行ったときに、その対象の状態が変わり、それを含んだある観測値が得られる、という形をしている。つまり、われわれが何かを観測しようと思ったとき、観測されたものはすでに状態を変えている、ということである。
 ある粒子の位置を確かめようとすれば、運動量が決まらない。運動量を測定しようとすれば、今度は位置が決まらなくなる。Δq・Δp≧h/4πという一遍の不等式で表されるこのゆらぎは、人間の物理的認識において根本的に避けがたい要素と考えられている(不確定性原理:Uncertainty principle)。
 さらに、その観測を行う装置や、当の観測者自身はどういう法則に従うのかという問題も生じる。観測対象が不確定性に従うことはいいとして(よくはないが、仕方がないとして)、ではそれを観測する装置や観測者自身は、確定した何かなのだろうか。しかし、観測装置は明らかに量子力学に従うだろうし、観測者である人間も、これを物体と考えるなら、その個々の構成粒子は量子力学に従い、不確定なもののはずである。そうすると、それらの間で行われている観測という行為が、何かしら意味のあるものだという保証は、どこにあるのだろうか。
 この問題を解決するために、たとえばノイマンという天才数学者(アメリカ)は、量子力学から独立した、つまり、物理法則によらない、観測者の「自意識」というものを想定した。あらゆる観測を行う主体は、結局、この自意識だというのである。(J.von Neumann 『 Mathematische Grundlangen der Quantenmechanik 邦訳:量子力学の数学的基礎  みすず書房』)。
 なるほど、そう考えればことは収まるし、また、そのように考えざるを得ないようにも見える。ところが、この想定は、一つの大きな犠牲をわれわれに強いることとなる。なぜなら、もともと物理学には、この世界の実在を、全て物質とその相互作用とに帰着させようという大前提があったはずだからである。その物質をとことんつきつめていくと量子力学という理論につき当たり、その挙げ句われわれは、この巨大な思想を完結させるために、非物理的実体を想定せざるを得ないというパラドックスに陥る。
 実は、量子力学にはこのような根本的なパラドックスがいくつかあり、それらの解決はついていない。量子力学が本当に「完結」するのか、さらに一般相対性理論というもう一方の大理論と折り合いがつくのかどうかも、大いに疑わしい。
 そもそも、この世界を記述する際に、それを物理的側面からのみで完結させることができるなどという保証は、どこにもないのである。
 以上のような人間理性の本質とも関連して、イギリスの天才物理学者ホーキングは、次のように語る。
「もし、完全な統一理論が本当に存在するとすれば、それはわれわれの行為をも決定しているだろう。これはつまり、この理論をわれわれが探究することによって得るであろう結果も、この理論自身によって決定されているということだ。しかし、われわれが証拠から出発して正しい結論を引出すことをこの理論が決定づけていると、どうして言えるのか?われわれが誤った結論を引出すと結論づけられていても、不思議ではないのではなかろうか?ひょっとして、そもそも結論になどたどりつきさえしないようになっているのではないのか?」(S.W.ホーキング 『A BRIEF HISTORY OF TIME 邦訳:ホーキング宇宙を語る 早川書房』)

*−−−−−−引用終了−−−−−−−*

リーフ注:パラドックス:「パラドックス(paradox)とは、ギリシャ語で「矛盾」「逆説」「ジレンマ」を意味する言葉。 数学・哲学の分野では「一見間違っていそうだが正しい説」もしくは「一見正しく見えるが正しいと認められない説」等を指して用いられる。」(出典:パラドックスとは (パラドックスとは) [単語記事] - ニコニコ大百科 http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9)  



●「本人が高まり、浄化されることが、まわりの環境をも浄化するという思想」について。

※【参考情報】
(出典:「理性のゆらぎ」  青山圭秀著 P.249〜P.251 )
*−−−−−−引用開始−−−−−−−*
・・・

 では、現時点だけとれば、われわれの体と環境とは別々なのだろうか。
 個々の粒子が別々の独立した存在だと思われたのは、ニュートン時代のことである。現代物理学の教えるところでは、どんな粒子も個々別々のものではありえない。というよりも、それはわれわれが頭の中で想像するような粒子ではないのである。先にも書いたように、物質には原理的に波動性が含まれている。「波動関数として数学的に扱われるその波動は、中心に最大の存在確立を持つが、すそは無限の遠方まで広がり、互いの時間と空間を共有する。
 この世界で時々刻々と生起する物質的な事象とは、結局、互いに触れ合い、時空を共有する、これらの波動の相互作用である。原理的に、それは全体として一つであり、とてつもなく巨大な一個のエネルギーのうねりといえる。ただ、これをそのままの形で捉え切ることは人知では不可能なので、便宜上われわれはその要素を一つひとつ区別し、近似的な観測をし、近似的な理論を展開する。ありがたいことに、人はそれを科学と呼んでくれている。
 物質、つまり存在の表層レベルですらそうなのである。ましてや深いレベルでは、一見別々に見える存在は、お互いに深くつながっており、そして最も深いレベルでは全ては一つであるというのがシャクシマールの主張であり、ヴェーダの主張である。
 こうした考え方は、実はインド文化に限ったものではない。瞑想であれ何であれ、それによって本人が高まり、浄化されることが、まわりの環境をも浄化するという思想は、世界中の文化に根づいている。どんな社会にも、祈りや祭祀を専門とする人々が発生し、彼らは、その集団で最も、場合によっては王よりも尊敬されることとなる。
 たとえば、カトリックの修道会には、外で社会活動をする「実践修道会」と、内に籠もって祈りと犠牲の生活を送る「観想修道会」とがある。後者は、前者のように学校や病院を経営したり、孤児院を運営したりというような、いわゆる生産的なことはしない。自分たちのものは自分たちで賄い、外部とはほとんど接触することなく、祈りと犠牲の生活に明け暮れる。社会全体が物質主義に陥っても、こうした修道会が脈々と続いてきた根底には、彼らの生活が、それ自体、社会に大きく貢献しているのだという根強い思想がある。
 同様に、ヒマラヤの聖者は山に籠もって瞑想して、社会に何の貢献もしていないかといえば、おそらくそうではない。彼らのかもしだす肯定的な波動は、この精妙な科学の法則に基づいて、世界を覆っているに違いない。

・・・
*−−−−−−引用終了−−−−−−−*


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