ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 16番 今宮神社

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
京都の八百屋の娘が将軍の生母となった桂昌院の崇敬が厚く今現在でも多くの女性が参拝に訪れるじんじゃであり、京都の伝統的な祭りであるやすらい祭りの発祥神社でもある。別名玉の輿神社と云われている神社です
京都府、楽土の道
(96)旧府社
今宮神社(いまみやじんじゃ)
住 所 〠 603―8243 京都府京都市北区紫野今宮町21
電話番号 電話 075―491―0082
御 祭 神 下記三坐
開 祀 長保3年(1001)
アクセス JR京都駅下車 市バス205・206番「船岡山」下車、北へ徒歩7分
地下鉄烏丸線 国際会館行「北大路駅」下車→市バス1・北8・12・M1・204・205・206番「船岡山」下車→北へ徒歩7分
<神歴・縁起> H/P  http://imamiyajinja.org/
御祭神
中御座:大己貴命(おおなむちのみこと)
東御座:事代主命(ことしろぬしのみこと)
西御座:奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)
境内社 紫野大将軍 王城鎮護・北方

当社地には平安建都以前より疫神(えきしん)を祀る社があったといわれる。建都の後、平安京が都市として栄える一方で、人々はうち続く疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるため神泉苑、御霊社、祗園社など各地で盛んに御霊会(ごりょうえ)が営まれた。今宮社の紫野御霊会もその一つである。
すなわち、一条天皇の御代正暦5年(994)6月、当社地の疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源である。そしてこの時、京中の老若男女は挙って神輿に供をし船岡山へ登り、綾傘に風流を施し囃子に合わせて唱い踊り、病魔のよれる人形を難波江に流したといわれる。これが夜須礼(やすらい祭)である。
長保3年(1001)ご霊夢によって疫神は船岡山から再び現在の当社地に奉遷され、新たに設けられた神殿三宇ともども今宮社と名づけられた。これが今宮神社の起源である。
創祀以来朝野の崇敬を集め、とりわけ徳川綱吉公生母桂昌院の崇敬は西陣への愛郷の念とともに厚く、元禄7年(1694)には荒廃していた社殿の造営など大いに務められ、祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝えられる。
明治29年本社殿を焼失したが、同35年に再建し、
その後も西陣をはじめ多くの人々の崇敬を集めている。

社殿

 疫社 素盞鳴命を祀る      拝殿          楼門

摂社 織姫社
 御祭神、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の御子で皇祖天忍穂耳尊(あめのおしほみのみこと)の御妃であり、天火明命(あめのほあかりのみこと)邇々杵尊(ににぎのみこと)の御母にあたる。別に天栲幡千幡姫命(あめのたくはたちはたひめのみこと)、萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)とも言う。神名の「栲」は「たへ」と同じく、梶の木の皮の繊維で織った白色の布を指し、古の布の総称としても用いられる。「幡」はここでは織物を意味し、命の機織の功を称えた美称として使われ「千千」は「縮」に通じて織地の精巧さを言ったものと考えられる。命は織物の巧みさ美しさを賞でられる神として技芸上達を願う人々の崇敬が篤く、七夕伝説の織女に機織をお教えになられたとも言われ、
織物の祖神と云われている。

八社
 境内西側に、一棟に大国社・蛭子社・八幡社・熱田社・住吉社・香取社・鏡作社・諏訪社の八社を祀った細長い社がある。

大将軍社
 大将軍八神社ともいい、素盞嗚尊と同一神ともされる牛頭天王(ごずてんのう)と八大王子(八神・素盞鳴尊の5男3女)を祀る。昔、平安京の四方に大将軍社を建て祀り、都の鎮護としたが、その一つ大徳寺門前に祀られた社を当社境内に遷し祀った。

日吉社
 末社、日吉社(ひよししゃ)には近江の日吉大社(ひえたいしゃ)の御祭神、大山咋神(おおやまくいのかみ)大物主神(おおものぬしのかみ)お祀りしており、当社産土の地「上野村」に祀られていた上ノ御前、下ノ御前の両社を明治初年に合祀した。

稲荷社、織田稲荷社
 境内の少し小高い石垣の上に稲荷社と織田稲荷社がある。「稲荷社」の御祭神は伏見稲荷大社と同じく宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)を祀る。
素盞鳴尊の御子神であり「宇迦」は食(うけ)の意で、食物を治められた功績による御名である。
織田信長公を祀る「織田稲荷社」は、墓所阿弥陀寺の移転跡地、西陣元伊佐町に鎮座したが、これを昭和62年に当社境内に遷し祀った。

若宮社
 境内の西側には加茂斎院、若宮を祀る若宮社がある。天皇の代理として一代毎に一人、未婚の内親王又は皇族の女性を斎王(さいおう・いつきのみこ)と定められ、各所で祀り事を行った。当時は奉斎の館を紫野斎院と言い、この境内の近くに在ったといわれる。若宮とは、霊が激しい祟りをなすとき、その祟りを弱めるため、より強い神格の下に祀った状態を総称してそのように呼んだといわれている。

地主稲荷社
 石畳の坂を上った中腹の地主稲荷社(じぬしいなりしゃ)には倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)・猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀る。両神は共に天孫降臨に関わる神として知られる。当社地を守護する地主神として祀られている。

月読社
 石畳の坂のつきあたり高台の上に月読社(つきよみしゃ)がある。伊勢神宮
の別宮月読宮(つきよみのみや)の御祭神、月読尊(つきよみのみこと)を祀る。

宗像社
 楼門の東側、東門との間に、
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
を祀る宗像社がある。
素盞鳴尊の十握剣(とつかのつるぎ)から生まれられた宗像3女神である。
今宮神社由緒略記
当社地は昔から洛北七野(内野・北野・平野・萩野・蓮台野・紫野・上野)の一つで、朝廷の禁野として御猟又は遊覧の野原であったと伝えられます。御祭神に大国主命・事代主命・奇稲田姫命を、又摂社に素盞烏命をお祀りしております。往昔、正暦5年(994)一条天皇は邦内に疫病が流行しました時とくに神輿をお造らせになり船岡山で御霊会を行わせられましたが、後に再び疫病の災いが起こった長保3年(1001)御霊夢により紫野の今の地に木工寮修理職に命じて神殿をまた内匠寮に命じて御神輿をそれぞれお造らせになるとともに、勅して祭祀を盛んに修せしめられてをります。これが「今宮祭」の起源でありまして「四方の人来り詣ずる者幾十萬なるを知らず」と伝へられてをります。また、都下の男女歌舞粉粧して鎮花祭を行ったのは今の「やすらい祭」の濫觴であります。爾来今宮神社への歴朝の御崇敬は厚く、後宇多天皇の御世には正一位の神階を奉られ、また往古より年々神馬三頭を献上されるなど奉幣、献物の礼を欠かせられることはなかったと云はれてをります。足利義晴将軍は社殿を修復し、豊太閤は聚楽第が今宮神社の産土地にあることで、秀頼公の出生に当り、御旅所を再興し御幸道を改修し、神輿を寄進されていますが、とりわけ徳川五代将軍綱吉公の時、その生母桂昌院殿は西陣の出で当社の産子であった由緒もあり、元禄7年時の奉行に命じて本殿摂社その他の殿舎を御造営されたのであり、以来神威愈々顕われ、祠学巍然として今日に至って居ります。とある。
 神社辞典
旧府社。祭神は大己貴命・事代主命・稲田姫命を祀る。今宮、紫野社、また、紫野明神とも称す。疫癘の神であるという。(中略)今宮祭りは一名、夜須礼
祭と称された。すなわち京中の児女が風流をつくして、「やすらいはなや、やす
らいはなや」と唱えながら笛鼓を打ち鳴らして当社へ参詣するのである。とあ
ります。
 やすらい祭
この祭りは、民俗無形文化財の指定を受け、「太秦の牛祭」「鞍馬の火祭」とともに、京の三奇祭の一つとされている。また京都の春の祭りのさきがけをなす祭でもありこの日が好天に恵まれるとその年の京の祭はすべて晴れると言われている。
紫野の疫(えやみ)社は、古来疫病除けの神として崇められ、諸国に悪疫が流行すると風流の装いを凝らして詣で鎮静安穏を祈願する習わしで、これを「やすらい祭」と呼んだ。一条天皇の御代正暦五年(994)都に疫病が流行し、船岡山にて御霊会が営まれたのを契機として、毎年盛んに行われるようになった。その後近衛天皇の御代久寿元年(1154)に祭のために京中の人々があまりにも風流を凝らし、その行装が華美に過ぎるというので、勅命により禁止された。それからこの祭も衰えたがやがて順徳天皇の御代承元4年(1210)復活し、応仁の乱で一時中絶はしたが、近世に入り東山天皇の御代元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉公の生母桂昌院により社殿の造営、神輿、御鉾の寄進とともに再興され今日に至っている。
花の精にあおられて陽気の中に飛散するという悪疫を、囃子や歌舞によって追い立てて、花を欺く風流傘に宿らせ、紫野疫社に送り込み神威を仰いで鎮めるというのがこの祭の行法である。
行列は「練り衆」と呼ばれ、先立、鉾、御幣持ち、督殿(こうどの)、羯鼓(かんこ)、羯鼓廻し、大鬼、花傘、音頭取り、囃子方と続く。「花傘」は、「風流傘」「傘鉾」ともいわれ、径六尺(約二米)の大傘に緋の帽額(もっこう)を掛けた錦蓋の上に、桜、椿、山吹、柳、若松を挿したもので、この中に入るとその年の厄を除かれるといわれている。 祭礼日は、元来3月10日であったが、明治改暦以後4月10日となり、今日では4月第2日曜日と定めている。
 あぶりもち
京都洛北の今宮神社は大国主命が祭神でその昔、一条天皇の長保2年(1000)京の町に疫病が流行したので別にお宮を建て疫病よけを祈願した。陽春四月(第2日曜)”やすらい花”という歌い踊る伝統の”やすらい祭り”は花散る頃にやる疫病を封じようと氏子の人々の願いから今も長く伝わり、参拝の人々は帰りに”あぶり餅”を食し疫病よけをするならわしとなって伝わっている。西陣の織物所の初詣りに、七五三詣りに、親戚近隣の人々に”あぶり餅”をおみやげにくばり共にすこやかな生長を祈り、喜び、広く賞味される物なり。(かざし屋栞より)

今宮神社の横手の門をぬけるとそこには、2件のお餅屋さんが、お客の呼び込みにも力が入る。

神仏霊場 ご朱印


               
 やすらい祭風景





                         鳥居

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

古寺巡礼 更新情報

古寺巡礼のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング