ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

古寺巡礼コミュの清浄の道  7番 藤白神社

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
参拝した事のない神社で、未踏地ですが
和歌山県 清浄の道
(7)海南
藤白神社(ふじしろじんじゃ)
住 所 〠 642―0034 和歌山県海南市藤白466番地
電話番号 電話 073―482―1123
御 祭 神 饒速日命
開 祀 景行天皇5年
アクセス JRきのくに線 海南駅から徒歩10分、和歌山バス「藤白」
下車、徒歩約5分
<神歴・縁起> H/P 
県社 
主祭神 饒速日命
御配神 天照大神 熊野坐神 熊野速玉神 熊野夫須美神

 創建年代については不詳であるが、景行天皇の代の創建とされる。また、社殿は斉明天皇の牟婁の湯行幸の際に建立されたと伝わる神社であります。中世熊野御幸の盛期には、99王子の中でも特に格式の高い五体王子のひとつとして崇敬され、熊野詣の途上における要所であった。
吉田経房の参詣記(『吉記』所収)承安4年(1174)9月25日条に「於藤代王子行里神楽」、藤原経光の参詣記(『民経記』所収)承元4年(1210)4月25日条にも参拝の折には馴子舞や藤代王子におかれていた巫女による里神楽が行われたと記され、後鳥羽院参詣記(『明月記』所収)建仁元年(1201)10月9日条に「御経供養」「白拍子」といった文字が見えるなど、歌会、里神楽、相撲などの奉納が行われるのが通例であった。境内東通用口から西へ抜けてゆく道はかつての熊野参詣道で、北側にある正面参道は近世の熊野街道の道筋につながっている。
後鳥羽院の建仁元年(1201)の熊野詣の際には藤白の次の宿泊地であった湯浅で歌会が催され、その歌会で詠まれた歌が藤白王子に献納されている。このときの後鳥羽院らの詠歌が熊野懐紙として3通が残されており、陽明文庫などに所蔵されている。応永7年(1400)付の禅林寺文書に「藤白王子免」として3町3反の記載があり、大野郷で最大の神田を有していた。しかし、戦国時代の兵乱で社殿や神領を失ったが、慶長6年(1601)に浅野幸長から藤白村に6石の寄進があった(『続紀伊風土記』)。
さらに、同年および寛文6年(1666)に社殿の造営が行われた。
江戸時代後期に紀州藩が編纂した地誌『紀伊続風土記』は藤白若一王子権現社として記載し、境内東西28間・南北30間、本社3扉、庁、御供所、鐘楼、石鳥居、末社3社などがあり、和歌山雲蓋院末の寺院が別当をつとめたと記している。
明治以降には村社に列格され、次いで昭和初期に郷社、昭和14年(1939)には県社に列された。明治42年(1909)には祓戸王子を合祀した。
境内にある藤白王子権現本堂は藤代王子を顕彰するもので、祭神の本地仏3体が祀られている。これらの仏像はもともと藤代王子の神宮寺であった中道を寺に祀られていたものであったが、豊臣秀吉の紀州征伐に際して危害が及んだ際に縁の寺院に避難させていたものを江戸時代に復したものである。
明治の神仏分離の際、破棄を免れ今日に伝わっている。
 仏像はいずれも平安末期の作で、主要な像に以下のものがある。
木造熊野三所権現本地仏坐像― 県指定文化財
(美術工芸品、平成17年(2005)5月31日指定)
阿弥陀如来 ―家都美御子大神の本地仏
薬師如来― 熊野速玉大神の本地仏
千手観音 ―熊野夫須美大神の本地仏
木造十一面観音立像 ―藤白若一王子の本地仏。県指定文化財
(美術工芸品、平成17年(2005)5月31日指定)。
毘沙門天および不動明王三尊 - 熊野の入り口の守護 。
聖武天皇が玉津島行幸の時、僧行基を詣らせて、皇子誕生を祈願したところ高野皇女ご誕生、母光明皇后はそのための神域を広め整えた。
これにより、熊野三山の遙拝所とされ、子授け・長寿の守護神として広く信仰を集めた。
境内には、子守楠神社、有間皇子神社がある。
藤白という地名は、ここに成育する藤松(または藤白の松とも)に藤がまつわりつき、皇子を悼んで33年に一度白い花を咲かせたのが、由来とか。
後鳥羽上皇と定家一行は、ここ藤白で宿泊している。
 境内にある藤白王子権現本堂は藤白王子を顕彰するもので、
祭神の本地仏3体が祀られている。これらの仏像はもともと藤代王子の神宮寺であった中道寺に祀られていたものであったが、豊臣秀吉の紀州攻めに際して危害が及んだ際に縁の寺院に避難させていたものを江戸時代に復したものである。
明治の神仏分離の際の破棄を免れ今日に伝わっている。(77頁参照)
 藤白神社には、熊野一の鳥居と呼ばれる大鳥居がたてられ、はるかな熊野三社を拝んだところでもあるが、もう一つ特徴がある。
藤白神社の境内には、歴史の匂いをプンプンさせる旧家がたっていて、”鈴木邸”の表札がかかっている。全国200万人いるといわれる鈴木姓のルーツにあたる家である。
熊野の荘園を管理していた8家のうちの一つであった鈴木家は、平安時代末に熊野から今の海南市藤白に引っ越してきている。このとき藤白神社に、
鈴木家の祖先にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)をおまつりした。
この饒速日命の子孫が、熊野から大和へ向かう途中の神武天皇に、稲をさしあげたところ、”穂積”という姓をもらったと伝えられている。稲穂を積みあげたものは、”すずき”と呼ばれていたので、”鈴木”となったといわれている。
また、ナギの”木 ”に”鈴 ”をつけて馬印としたところから付けられたともいわれている。日本で一番多い姓が鈴木さんなのである。云わば日本全国の鈴木姓のルーツであるのです。

鈴木邸と説明板
 熊野詣での道すがら、旅人が初めて海を見るところといえば、海南藤白である。いにしえには、この神社のすぐそばまで海がきていた。
山と川ばかりの古道を歩いて、海を見たときは、どんな気持ちであったろうか。ここ藤白神社は、五体王子のひとつで、藤白王子の歌会などが催されていた。ここから藤白の御坂越えに加茂郷まで行く景色のすばらしさは、たくさんの人々が歌を詠んでいることでもわかる。
現在は、埋め立てがされて往年の美しさはなくなってはいるが、それでも立ち止まって眺め入る景色が続く。
 藤白神社の境内の坂をやや上ると有間皇子の椿地蔵がある。
日本書紀巻26に記されている皇子の若き非業の死を悼むかに花を手向けていく人がいる。
言葉たくみに仕組まれた罠にかかり、牟婁の湯までその釈明に呼ばれ、その帰りぎわにこの藤白坂で殺された。

家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る

有間皇子の歌の石碑を訪ねてこの藤白坂を歩く人々が多い

←有間皇子の墓


















コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

古寺巡礼 更新情報

古寺巡礼のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング