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古寺巡礼コミュの欣求の道  12番 御上神社

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国道8号線沿いに鎮座されていますが境内に入るとその静けさに驚く神社であります
滋賀県、欣求の道
(144)旧官幣中社
御上神社(みかみじんじゃ)
住 所 〠 520―2323 滋賀県野洲市三上838
電話番号 電話 077―587―0383
御 祭 神 天之御影神
開 祀 養老2年(718)3月
アクセス JR東海道本線野洲駅下車、滋賀交通バス北山台行へ乗車 御上神社前下車
<神歴・縁起> H/P  http://www.mikami-jinja.jp/
式内社 近江國野洲郡 御上神社 名神大 月次新嘗
旧官幣中社

 当神社は、古来御上神社と称し三上神社とも称した。又、三上大明神社・三上大明神・三上山大明神・三上社等と称した事が諸記録に残る。
 神体山・三上山は、標高432m「近江富士」ともよばれ、俵藤太のムカデ退治の伝説で知られる。山は2つの峰からなり、男山・女山とよばれ、頂上には巨石の盤座があり奥宮が祀られる。旧暦6月18日には山上祭が行われ、神体山信仰の姿を伝えている。
 御鎮座年代は不明だが、『古事記』開化天皇の段に「近つ淡海の御上の祝がもちいつく天之御影神」の記事があり、社伝によると孝霊天皇6年6月18日
三上山山頂に天之御影命が出現し御上祝が三上山を盤境と定めて祀った。その後、養老2年(718)3月15日に現在地に藤原不比等が勅命により榧の木で社殿を造営した。
 『延喜式』神名帳には、明神大社・月次・新嘗の官幣社として記され、早くから野州川下流域の重要な神社であった。
 境内の主要な社殿は、鎌倉時代後期、14世紀始めごろ整備されたと考えられ、本殿・拝殿・楼門をはじめ貴重な建造物が今日に残されている。
 古代から中世にかけて三上山山麓一帯は「東光寺」があったといわれ数多くの伽藍・堂舎があった。「三上古跡図」にその様子が描かれている。嘉吉元年(1441)興福寺の末派社寺を記した『興福寺官務牒疏』には下記のように記されている。
 
東光教寺  在同州野州郡三上郷 三上大寺内  僧房十九字  交衆八口
          天武天皇叡願 相続持統帝勅願也 本尊薬師仏也 元興寺道智法師開基 三上神法楽之精舎也
  妙光寺    三上大寺内   僧房九字  本尊岩本釈迦仏
  三上神    在野州郡三上郷 社僧二人 神主二人 
          養老元年丁巳年三月十五日降臨 二火二水神為日本第二忌火神 金勝寺四箇所鎮守守神也
 又、弘仁年間(810〜824)成立とされる仏教説話集『日本霊異記』下巻24に「修行の人を妨ぐるに依りて、猴の身を得る縁」の説話がある。又、宝亀年中(769〜780)「タガ大神」三上の神が白猿の姿となって「社の辺の堂」で修行していた大安寺の僧に、罪報により猿になりこの身を逃れたいため読経を頼む。この堂は「九間の大堂」記されるが、この史料は近江の神仏習合の文献上の初見であり、御上神社の古くからの神仏習合の様相がうかがえる。この神仏習合は明治の廃仏毀釈に至るまで続いた。
 中世の頃は度重なる戦乱により社殿が荒廃した時期もあった。明応3年(1494年)の棟札には、荒廃の有様が切々と記され、多くの人々の努力により修復がなされたことが読み取れる。
 明治31年(1898)には、本殿・拝殿・楼門が特別保護建造物に指定された。大正2年(1913)には県社、大正13年(1924)には官幣中社となる
 御祭神・天之御影神が孝霊天皇6年、三上山に降臨され、その後、御上祝によって三上山を磐境として祀られたという。つまり、社殿を持たず、神奈備山を祀る古代の信仰形態が本来の形だったらしいく、現在地は、当時の遥拝所である。
 逸話:三上山のむかで退冶
 朱雀天皇の御代に田原藤太秀郷という剛勇の者が、ある日瀬田の橋を渡ろうとすると大蛇が橋上に横たわっていたが、田原藤太秀郷は臆することなく大蛇を踏付け通りすぎた。
 その晩大蛇は小男に化け、田原藤太秀郷の剛勇を褒め称え、『吾は竜宮に住む竜神であるが、三上山を七巻き半巻いている大ムカデに悩まされているから助けて欲しい』と頼んだ。
 田原藤太秀郷は承諾し、瀬田の唐橋から矢を放ち、一矢は射損じた。二矢目は鏃に唾を付け放ち大ムカデを射止めた。
 竜神は大層喜び、御礼として減ることのない米俵や使っても無くならない反物や宝物を贈った。この米俵から田原藤太秀郷の名前を俵藤太と改めた。



南参道鳥居     鳥居扁額     西参道鳥居

楼門            拝殿

本殿
本殿が滋賀県の建造物で初めて国宝指定を受け、拝殿・楼門・若宮神社社殿(境内社)が重要文化財に指定されています。本殿は、神社建築・仏道建築・寝殿造以来の殿舎建築が融合した「入母屋造り」と呼ばれる社殿建築で、入母屋造りの最古の例とされています。神社というよりも、仏堂や当時の上流階級の邸宅を想起させる造りであることは、御上神社所蔵の古文書に「本社は紫震殿作り、拝殿は内室の作り」とあることからも分かります。
 また、本殿の背面(北側)には扉が付いています。この裏扉ですが、
祭りの時に扉を開けることで本殿から三上山を望視し、三上山の山神を招き入れるという機能を持つものです。今でも御上神社は三上山なくして語れないのです。
楼門と拝殿と本殿が一直線上に並んで建てられているそうです。拝殿は
もとの本殿であろうとの説もあります。
 神社辞典には、御上神社 滋賀県野洲郡野洲町三上。神体山である三上山の麓に位置する。旧官幣中社(現、別表神社)。祭神は天津彦根命の御子であり、国土開拓の祖と伝える天之御影命を祀る。創建は孝霊天皇の御代に三上山山頂に出現したのを御上の祖が祀ったのが始まりと伝えられる。のちに山頂より現在地に移し社殿を造営した。古くから我が国鍛冶の祖神と崇められ、浄火守護の神、すなわち日本第二忌火神として崇敬されている。
『新抄格勅符抄』に近江の地二戸を賜っている。『三代実録』の貞観元年(859)に従五位上を授け、同7年に正四位下を授け、同17年には従三位に叙せられている。また、『延喜式神名帳』の名神大社に列している。天延2年(974)に勅願所となった。武士の崇敬が殊に篤く、源頼朝が建久元年(1190)に、足利尊氏が建武3年(1336)に、豊臣秀吉が天正14年(1586)にそれぞれ社頒を寄進している。また、嘉禎3年(1237)六角泰綱が社頭を修理し、文安2年(1445)佐々木政頼が社殿を修理したのをはじめ、しばしば改造修理が行われている。例祭は5月と10月の14日で、10月の祭礼を「そうもく」ともいい、相撲の字をあてている。本殿は入母屋造り神社建築の代表例とされるものであり、縁柱の礎石に蓮弁を彫り、外観は一見して仏堂のような感じを与える。鎌倉時代の建築で国宝である。拝殿は入母屋造りで四方吹き抜けとなっている。楼門は二層で、入母屋造りで弘安3年(1280)の墨書が残されている。摂社の若宮神社本殿も一間社流造りで、ともに重要文化財に指定されている。宝物のうち木造狛犬一対も重要文化財に指定されている。










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