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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 39番 妙法院門跡

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通し矢の行事等で有名な三十三間堂を管理する門跡寺院で日頃は拝観出来ない寺です
天台宗三門跡の一つでもあります
京都府、楽土の道
(119)南叡山 
妙法院門跡(みょうほういんもんぜき)
住 所 〠 605―0932 京都市東山区妙法院前側町447
電話番号 電話 075―561―1744
本  尊 普賢菩薩
開 山 (伝)最澄
創  建 平安時代初期
アクセス 京都駅 市バス東山七条下車すぐ
<寺歴・縁起> H/P ありません
天台宗(3門跡寺院の一つ)神仏霊場119番 非公開寺院

 通称綾小路御所と呼ばれる門跡寺院で、天台宗3門跡の一つに数えられる。
妙法院は比叡山上にあった坊(小寺院)がその起源とされ、初代門主は伝教大師最澄(767〜822)とされている。その後、平安時代末期(12世紀)、後白河法皇の時代に洛中に移転し、一時は綾小路小坂(現在の京都市東山区・八坂神社の南西あたりと推定される)に所在したが、近世初期に現在地である法住寺殿跡地に移転した。記録によると、比叡山三塔のうちの西塔に所在した「本覚院」が妙法院の起源とされている。(「華頂要略」記による)
 妙法院と本覚院との関係には諸説があり、本覚院から分かれて妙法院が成立したとする説、逆に妙法院から本覚院が分かれたとする説、妙法院は本覚院の別号だとする説などがあるが未だ定まってはいない。又妙法院が比叡山から洛中に移転した時期、綾小路小坂から現在地に移転した時期についても正確なことは不明で、近世以前の寺史は錯綜している。
 平安時代末期、永歴元年(1160)後白河上皇が、紀州の熊野権現本宮(くまのごんげんほんぐう)の祭神を勧請して新熊野神社を創建するときに、
後白河上皇の護持僧だった比叡山三塔の一つの西塔(さいとう)本覚院(ほんがくいん)の僧 昌雲が初代別当(代表者)に任命され、洛中に移築される。
妙法院の門主系譜では、初代住持を最澄とし、第15世が後白河法皇、第16世が昌雲となっている。昌雲の弟子であり甥でもある第17世実全は、後の天台座主になっている。ことからして諸説が定まっていない。しかし寺院の系譜が正しいと判断すべきであろう。
鎌倉時代、第18世として尊性法親王(後高倉天王の皇子)が入寺してから、
門跡寺院としての地位が確立し「綾小路房」「綾小路御所」「綾小路宮」などと称されていたという。
事実上、妙法院が日本史に登場するのは後白河法皇の時代である。後白河天皇(1127〜1192)は、在位3年足らずで譲位し、保元3年(1158)には上皇、嘉応元年(1169)には出家して法皇となった。この間、後白河上皇は譲位後の居所(院御所)である法住寺殿の造営を進め、永暦2年(1161)からはここに住むようになった。ここで院政が行われ、また御所の西側に千体千手観音像を安置する巨大な仏堂(蓮華王院=三十三間堂)が建てられたことは史上名高い(三十三間堂の落慶は長寛2年/1164)。後白河上皇は永暦元年(1160)、御所の鎮守社として比叡山の鎮守社である日吉社を勧請し、新日吉社(いまひえしゃ)とした(新日吉社は「新日吉神宮」として現代まで存続している)。この新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命されたのが妙法院の昌雲という僧であった。昌雲は御子左家(みこひだりけ)の藤原忠成の子であり、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた快修の甥にあたる。昌雲は後白河上皇の護持僧であり、上皇からの信頼が篤かったという。
 豊臣秀吉が造営していた方広寺の大仏殿が完成したのは文禄4年(1595)のことであった。この年以降、秀吉は亡父母や先祖の菩提を弔うため、当時の日本仏教の八宗(天台、真言、律、禅、浄土、日蓮、時、一向)の僧を集めた「千僧供養」を「大仏経堂」で行った。この「大仏経堂」は妙法院に所属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、現存する妙法院庫裏(国宝)だとされている。庫裏自体の正確な建立年代は不明だが、秀吉の千僧供養に妙法院が関与していたことは当時の日記や文書から明らかであり、妙法院は遅くとも16世紀末には現在地へ移転していたことがわかる。
 妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615)からである。これは大坂の陣で豊臣宗家が江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰である。大坂の陣後、徳川幕府によって進められた豊国神社破却の流れのなかで、当時の妙法院門主であった常胤は積極的に幕府に協力、豊国神社に保管された秀吉の遺品や神宮寺(豊国神社別当神龍院梵舜の役宅)を横領することに成功している。三十三間堂については、創立者である後白河法皇との関係から、早くから妙法院が関与していた。正応4年(1291)の後白河法皇百回忌供養は、妙法院門主の尊教が三十三間堂において行っており、以後、50年ごとの聖忌供養は妙法院門主が三十三間堂にて行うことが慣例となっている。近代に入って方広寺と新日吉社は独立したが、三十三間堂は現代に至るまで妙法院の所属となっている。



普賢堂(本堂)
 江戸時代 境内の南東端に、ほかの堂宇とは独立して建つ。本尊 重文の
普賢菩薩騎象像を祀る3件4面の二重宝形造りの本瓦葺建物で、妙法院の本堂にあたる。西側正面に浅唐戸の観音開き扉と、その左右に花頭窓を設けた瀟酒な建物である。寛政11年(1799)に建立され、それまでの小書院に安置されていた本尊、普賢菩薩騎象像を移した。

本尊 普賢菩薩騎象像
重文 平安時代〜鎌倉時代 木造 漆箔彩色 像高57.8cm
 普賢菩薩は法華経を読誦する者を守護する菩薩で、同教を教えの根本とする天台宗寺院では、特に篤く信仰された。穏やかな藤原彫刻の風を残しながらも、理知的な表情とほっそりした体つきは新しい鎌倉時代の兆しを見せる。6本の牙を持つ白像に乗る姿は、法華経の普賢菩薩勧発品や観普賢経の描写に基づく。
又、胸前で合掌する普賢像は平安時代初期に円仁が将来した図像により本像のごとき合掌騎像の普賢の仏画も、法華経信仰の高まった平安時代後期になり盛んに描かれた。

護摩堂(江戸時代)
 大書院の南東に西面にして建つ。瓦葺の宝形造りの建物で、正面3間奥行2間の板敷きの宗室には奥くいっぱいに仏壇を設け不動明王立像を中心に、千手観音、薬師如来、大日如来、阿弥陀如来など密教仏を祀って中央に護摩壇を設置する。この建物は、比叡山西塔東谷の常住金剛院を前身とし、17世紀中ごろに妙法院に移されたのち、南側に仏間を設けるなど増改築が進められ、亨保8年(1723)に落慶している。天台宗門跡寺院中でも、密教修法を行う道場建物の様態を最もよく残した貴重な遺構である。

不動明王立像
平安時代 木造 彩色 像高133.7Cm
 一木造りで、平安時代初期まで遡る古像。髪を細かく編み上げる事や、左手をまっすぐに垂らすこと、裳裾がめくれて両膝が露出し、左足をやや踏み出すことなど、初期天台系の不動明王の特徴を見せる現存最古像である。
 回峯行者の道場として知られる比叡山南谷の無動寺本尊を模刻したとの説がある。護摩堂は、比叡山西塔東谷の常住金剛院を前身とし、江戸時代前期に妙法院に移築されたので、本像も同時に移された可能性が指摘されている。
光背と台座、左右の矜羯羅童子と制吒迦童子の二童子は享保5〜8年(1720~1723)
の制作。

神仏霊場 ご朱印

ポルトガル国印度副王信書
国宝 安土桃山時代(天正16年) 羊皮紙墨書著色 縦60.0Cm 横76.8Cm
妙法院門跡に伝わった、いわゆる「豊公遺宝」の中で、本書は最も重要なもので、ポルトガル領印度副王ドン、ヅアルテ、デ、メネーゼスが豊臣秀吉に宛て天正16年(1588)4月に書いた書簡である。秀吉の国内統一を祝しイエズス会活動の庇護を請う文章が書かれている。

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