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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 35番 青蓮寺

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天台宗山門派の門跡寺院で、近畿36不動尊、青不動でも有名であります
京都府、楽土の道
(115)粟田御所
青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)
住 所 〠 605―0035 京都市東山区粟田口三条坊町69―1
電話番号 電話 075―561―2345
本  尊 熾盛光如来
開 山 最澄   中興 行玄大僧正
創  建 久安6年(1150)
アクセス 地下鉄東西線 「東山駅」下車 徒歩5分
<寺歴・縁起> H/P  http://www.shorenin.com/
天台宗山門派 近畿36不動尊19番 神仏霊場115番

 青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡(天台宗の三門跡寺院…青蓮院、三千院、妙法院)の一つとして古くより知られ、現在は天台宗の京都五箇室門跡(五箇室…青蓮院門跡、妙法院門跡、三千院門跡、曼殊院門跡、毘沙門堂門跡)の一つに数えられています。
青蓮院門跡は、古くより皇室と関わり深く格式の高い門跡寺院(門跡寺院…門主(住職)が皇室或いは摂関家によって受け継がれてきたお寺のこと)とされております。
 日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を開くにあたって、山頂に僧侶の住坊を幾つも作りましたが、その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われています。伝教大師から円仁(えんにん、慈覚大師)、安恵(あんね)、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊でした。平安時代末期に、青蓮坊の第12代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第7王子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりであり、行玄が第1世の門主であります。
その後明治に至るまで、門主は殆ど皇族であるか、五摂家の子弟に限られていました。
 青蓮院が最も隆盛を極めましたのは、平安末期から鎌倉時代に及ぶ、第3代門主慈圓(慈鎮和尚、じちんかしょう、藤原兼実の弟)の時です。慈圓は4度天台座主をつとめ、その宗風は日本仏教界を風靡しました。また、日本人初めての歴史哲学者として不朽の名著「愚管抄」を残し、
新古今時代の国民的歌人として「拾玉集」も残しております。
慈圓は、時代の流れにも積極的な理解と対応を示し、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致しました。それ故、現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深いのです。浄土真宗の祖親鸞聖人は、上記慈圓門主のもとで得度したため、
青蓮院は同宗の聖地の一つとなっています。親鸞聖人の得度の折、剃髪した髪の毛を祀る植髪堂が、境内北側にございます。

 17代門主の尊円法親王は伏見天皇の第6皇子で、名筆家として知られています。和風唐風を融合した尊円法親王の書風は「青蓮院流」と呼ばれ、江戸時代に広く普及した和様書風「御家流」の源流でもあります。
室町時代には後に室町幕府第6代将軍足利義教となる義圓が門主を務め、また衰微期の本願寺が末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くした蓮如もここで得度を受けています。
江戸時代の天明8年(1788)に、大火によって御所が炎上しました時に、後桜町上皇は青蓮院を仮御所としてご避難されました。庭内の好文亭はその際には御学問所として御使用されたものであります。また、青蓮院は粟田御所と呼ばれており、「青蓮院旧仮御所」として国の史跡にも指定されています。
青蓮院では平安後期開創の時から「熾盛光如来曼荼羅」(しじょうこうにょらいまんだら)を御本尊としておまつりしてきましたが、幾多の戦乱火災等を経て、現在の御本尊はおよそ400年前、桃山時代に豊臣秀吉によって復元再作成され奉納されたものです。熾盛光如来を御本尊とするお寺は、日本中で当青蓮院門跡のみです。この曼荼羅は約2m四方の掛け軸で、中心に熾盛光如来を表す種子(しゅじ、仏さまを表す梵字)「ボロン」が描かれた「種子曼荼羅」です。
中心の熾盛光如来は、大日如来の仏頂尊(頭の頂におられる極めて崇高な仏さま)で、偉大な仏の智慧と光を発せられています。熾盛光如来の上には、金色の一字金輪仏頂を描き、向かって時計回りに、観自在、金剛手、毘倶胝、赤色の仏眼仏母、不思議童子、文殊、救護慧の各菩薩が描かれています。
その周りには熾盛光如来のお力を表した八つの月輪が描かれています。
周囲四隅には、四明王を配しています。向かって右上に金剛夜叉、右下に降三世、左下に軍荼利、左上に大威徳の各明王が描かれています。不動明王は御本尊と重なっています。

熾盛光堂(本堂)             内陣
背景は、「群青」という極めて高価な青色の顔料で彩色されており、虚空(広大な宇宙)を表しています。損傷が著しかった為、平成17年(2005)の御開帳の前に大修復を致しました。
その際に色の塗り直しは一切行いませんでしたが、今も変わらぬ美しさを保っていることに驚かされました。


「熾盛光如来曼荼羅」をおまつりして行われる正式な修法を「熾盛光法大法」と申します。この大法は、慈覚大師円仁が鎮護国家を目的に、嘉祥3年(850)初めて厳修したもので、天台宗における最も重要な修法の一つです。その祈願するところは、以下の三つです。
• 天変地異や疫病の鎮静・息災
• 日本国の安泰と国民の繁栄
• 皇室の安寧と外敵の侵略を防ぐ
青蓮院は天台密教の嫡流の一つとして、本尊にこの熾盛光如来を頂き、特に平安時代から鎌倉時代にかけては、宮中から中心的に勅命を受け、折々に天変地異の息災と皇室の安寧を祈願する役割を担いました。爾来、途中中断の時代もありましたが厳粛に引き継がれて、現在では比叡山根本中堂における毎年4月の「御修法」に於いて、4年に1度厳修されております。

不動明王、二童子像
国宝 平安時代 絹本著色 縦203.2Cm 横148.5Cm 秘仏
 画面中央の岩座上に、右手に剣、左手に羂索を持つ忿怒の相をした不動明王が描かれている。その周囲には朱と丹で激しく燃える紅蓮の炎を表す。まるで一切の煩悩を焼き尽くすが如くである。画面の右下には上目遣いで合唱する
矜羯羅童子、左側には棒を構える制吒迦童子が描かれている。青蓮院の不動明王図は天台宗の安然が著した不動明王についての儀軌を忠実に踏まえて描かれている。その肉身の色から青不動と呼ばれ高野山、明王院の赤不動、三井寺の黄不動と並んで日本三大不動として知られる。
天台宗で云うところの不動明王は大日如来の化身が不動明王であると説く、
大日如来は宇宙のすべてを司る中心的な存在でそれを現したのが曼荼羅であるという。
大日如来はあまりに崇高で直接には拝みにくいため、その化身の不動明王を拝むようになりました。不動明王は、日本では「お不動さん」の名で親しまれ、私たちにとって拝みやすく身近な存在であります。しかし、不動明王を拝むということは大日如来、つまり、
宇宙の中心に向かって拝むということになります。これは自らが中心に溶け込み、宇宙と一体になるという思想にもとづくものです。
曼荼羅では大日如来の周りにたくさんの仏さまがとりまいていますが、お釈迦さまはそのうちの一つの仏さまであり、中心ではありません。曼荼羅の構成は、お釈迦さまが悟りを開かれ、仏教の教えを説かれ、その弟子たちが体系化していったものです。
曼荼羅は仏様の世界、つまり仏様の宇宙観を現したものですが、その中心は大日如来であり、その化身が不動明王です。不動明王を拝み、自らが不動明王と一体となることは、宇宙の中で本当に自分がひとかけらの存在であることに気づくことであり、同時に大きな大日如来(仏さま)の力に生かされていることに気づくことでもあります。 (台密の特徴的な考えかも)
 不動明王は、五色(青・黄・赤・白・黒)に配せられることがあり、赤不動、黄不動、目黒不動、目白不動などはその例です。その中で青色は、方位に配せられれば中央、五大に配せられると大日如来の三昧耶形(さんまやぎょう・仏を表す象徴物、仏さまの持物)である五輪塔婆(ごりんとうば・地水火風空の五大をそれぞれ方形・円形・三角形・半月形・宝珠形に石などでかたどり、順に積み上げた塔)である五輪塔婆の頂上の宝珠形となる様に、青不動は五色の不動明王の中では最上位にあり、中心にあります。すなわち、青不動明王は「不動明王中の不動明王」という地位を占めております。


不動堂内陣
 熾盛光堂(本堂)背後の裏堂には、青不動尊を祀る不動堂が一体となって建てられている。中央に安置されてる青不動尊は秘仏であり、普段はお前立ちとして青不動尊の写しが奉懸されています。不動堂内陣に向かって右脇壇上には
 薬師如来坐像及び日光、月光菩薩立像、さらにその左右に十二神将が安置されている。又左脇壇には厨子内に歓喜天像(秘仏)が安置されている。

寝殿
 入母屋造、桟瓦葺きの、寺内で最も大きな建物。徳川家康の孫である東福門院(後水尾天皇女御)の御所を移転。明治26年(1893)に焼失後復興。
宸殿は門跡寺院特有のもので、主要な法要はここで行う。有縁の天皇及び歴代門主の御尊牌を祀る。宸殿前に右近の橘、左近の桜を配するのは、御歴代尊儀の在ます所の意味である。
親鸞聖人が第3代門主慈圓により得度をした場所でもあり、「お得度の間」ともいう。今、杉苔に覆われた宸殿の前庭は本来白砂を敷いていたものである。宝珠の付いた右のお堂は熾盛光堂といい、当院の本堂で天台宗の4大秘宝の一つである熾盛光法の本尊を祀っている。

濱松図屏風
 重要文化財(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)。
徳川秀忠の息女が後水尾天皇の女御として入内した時に、幕府は立派な女御御殿を造営した。その御殿が不要になってから朝廷は各所に分割して賜ったが、この宸殿の前身の建物はその一つで絵も建物に付属していた。仕様の仕方が変わったために、画面にはその変更の後が見られるが、よく見れば亭々たる赤松の老木の枝振りも古雅に神韻漂渺たるものがある。

小御所
 本堂の北側に建つ入母屋造桟瓦葺きの建物。当院所蔵の『門葉記』門主伝によると、平安時代末は門主の居間であった。後櫻町上皇が当院を仮御所としてお使いの際上皇もご使用になった建物である。但し明治に焼失した為、江戸中期の建物を移築している。好文亭の入口の門を背にして眺めると、相阿弥作の「作られた庭」に対して、東山の「自然の山麓」が左側に迫り、自然と人工の巧みな融合を見せる。

小御所の広間(上)と上段の間(下)

華頂殿           内陣
 青蓮院境内の中で最も大きな建物が華頂殿と呼ばれる客殿(白書院)である。
ここは本来門主の私的な対面用に用いられるもので、ここから見る相阿弥作の庭は見事である。お抹茶有りだそうで、三十六歌仙額絵有り百人一首を思い出す人もおられるとか。木村英輝氏奉納の、蓮の襖絵(60面)有ります。

植髪堂
 親鸞聖人の得度の折、剃髪した髪の毛を祀る御堂です。現在は納骨堂として活用されているそうです。

大玄関            輿
 宸殿の先にある、正式の玄関。孝明天皇ご使用の輿を陳列。
襖絵「日月松桜百鶴図」有り。(黒田正夕氏筆)

長屋門
拝観入口の手前右手に建つ門。四脚門同様、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもの。門前には名木「楠」が5本ある。親鸞聖人御手植と伝えられる。京都市の登録天然記念物指定他、多数の指定を受けている。

不動明王坐像       不動明王立像
2体のお不動様、造立 鎌倉時代 木造 彩色 像高 坐像42.0Cm
立像 93.7Cm 塔頭の尊勝院安置
尊勝院には、明治以降多くの仏像が集められている。現在尊勝院の須弥壇に向かって右手の脇段上に立像と坐像の2体のお不動様が安置されている。いずれも檜材、寄木造り、玉眼を嵌入してをり、作風からして鎌倉時代のものであろうと思われる。


神仏霊場 ご朱印

熾盛光如来曼荼羅

                    近畿36不動尊 ご朱印
京都府、楽土の道

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