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古寺巡礼コミュの建武の中興 15社について

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神仏霊場150所も豊饒の道、神戸(兵庫県)に入り、ちょうど湊川神社になりましたので建武の中興15社について記載したいと思います。
建武中興15社
 建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)とは、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族、武将などを主祭神とする15の神社である。
これらの神社は「建武中興十五社会」を結成している。
後醍醐天皇による建武の中興は、それまでの武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものであった。これは、明治維新によって江戸幕府から実権を取り戻し明治政府を樹立した明治天皇にとって意義深いものであり、明治以降、建武の中興に関った人々を祀る神社がその縁地などに作られた。
 第96代・後醍醐天皇は天皇専制の復古を目論み、1331年(元弘元年/天徳3年)、笠置で挙兵(元弘の乱)したが捕らえられ隠岐に流された。
1333年、護良親王・楠正成の軍事行動に呼応し隠岐を脱出。名和長年に擁けられ伯耆国船上山から朝敵滅亡の宣旨を発した。これに呼応して、各地の武士、悪党らがいっせいに討幕の軍を起し鎌倉幕府は滅んだ。
1334年、元号を「建武」と改め、武家から天皇へと政権が奪還され、天皇専制の「建武新政」復古となるはずであった。だが、後醍醐天皇の手兵となった悪党らにより宮中、王都の秩序は乱れ風紀は紊乱した。また、多くの地方武士らは恩賞にありつけず冷遇され、親政への不満を急速に募らせていった。
そして、わずか2年後、足利尊氏が反旗を翻し、光厳上皇を奉じて入京し、光明天皇を即位させ、南北両朝並立の時代となった。
 この後醍醐天皇による建武の中興は、武家中心の社会を古代の律令国家へ戻し、天皇中心の社会へ復帰させることが目的であったが、これは、徳川幕府の武家社会から維新によって、明治政府を樹立した明治天皇にとっても、意味深いものであり、建武中興に尽力した南朝側の皇族、武将は明治になって、各地に官幣社として祀られた
 昭和天皇の歴史的教科書「国史」講談社刊に
三、建武の中興
後醍醐天皇のご計画は失敗しましたが、北条氏の権力は衰え、諸国の多くの武士達も心服していなかった為、この行動は武士達を各地で蜂起させる絶好のきっかけとなりました。
 天皇が密旨を下された時、まず立ち上がったのは鎌倉から遠く離れた近畿や西国の武士で、多くは皇室の御領に住むものでした。
河内國、楠正成が詔を奉じて千早赤阪城で兵をあげましたが、かまくらの軍に敗れました。そして護良親王が吉野で兵を上げますと、正成は千早城に立てこもり、一方播磨、伊予、肥後の豪族たちまで味方するものも出てきました。
天皇はこの形勢をご覧になり、ひそかに流刑地である隠岐を出て、伯耆の名和長年のもとに行かれました。
 高時は下野国に居りました足利高氏に大軍をひきいさせ京に向かわせましたが高氏は、もはや時勢も鎌倉に味方していないのを見てとり、高時に背いて幕府側の六波羅を攻め落としました。
 高氏の同族である新田義貞も、上野から出て一挙に鎌倉を背間ました。
高時とその一族は自害し、北条氏は滅びました。そして幕府もまた倒れました。
武士が従う事で始まった幕府は、武士が背いたことで滅びたのです。元弘3年の事です。源頼朝が鎌倉幕府を開いてからおよそ150年、鎌倉はここに権力の中心であった地位を失いました。
 後醍醐天皇は京都が元の状態に戻った事を聞かれ、ただちにお還りになり、御位をあるべき姿にされ、光厳天皇は即位を退かれました。
鎌倉幕府が倒れ、実権が朝廷に戻りましたので、天皇は自ら政務を取られました。しかし大宝令の制度はすたれて、国土の大半は皇族、朝臣、寺社の荘園、武士達の領域で占められ、実力は武士にあり、政府の組織は時勢にふさわしくなく、役に立ちません。
 朝廷は、護良親王を征夷大将軍に任命し、親王は京都で天皇の相談役として政務に携わりました。又朝廷は記録所を置き、雑訴決断所を設けて土地に関する訴訟をさばく機関としました。又武士を治めるための武者どころを置き、新田義貞をその頭人に任命しました。この制度は鎌倉幕府に準じたものでした。
 ちほうでは、朝臣は国司、武士は守護として諸国を管理しました。東国は鎌倉幕府の根拠地で下から、特に重要とみて足利高氏の弟忠義を鎌倉に派遣し、直義は皇子成良親王を奉じて関東の治安の維持にあたりました。また北畠親房の子顕家を陸奥にやり、顕家は皇子義則親王を奉じて奥羽を治めました。
このように皇室が政治の中心となり、皇族、朝臣は武士とともに軍事、政治を司り、中興の業を成功させようと励みました。年号を建武と改元しましたので世にこれを建武の中興といいます。
 四、吉野の朝廷
 中興の業が成功したのは、全国の武士が鎌倉に背むいたからでした。これは、鎌倉幕府が衰えた結果全国の武士が領地の安全に危機感を持ったためでした。
ところが朝臣はこのことを理解せず、ただ皇室の権威回復の時が来たとばかり、ややもすれば武士を軽んじました。その為賞を与える時も武士には薄くし、そのうえ領地を取り上げたりしました。これに関する訴訟の裁判も公正を欠くことが多く、ぶしは新政に対する不信感を抱きました。さらに皇居造営の為、課税が重くなり、武士の心はますます朝廷から離れてしまいました。この機に乗じて幕府復興をたくらんだのが武士の大将となった足利高氏です。
 足利高氏は戦の功績により、天皇の御名尊冶の一字を頂き尊氏と改めました。
足利尊氏は自分の勢力をのばすために護良親王、新田義貞を
しりどけようとして、まず護良親王を鎌倉に幽閉し、その後すぐに直義に命じて殺させました。
 足利尊氏は鎌倉に赴き、関東の武士を集めて新田義貞を除くことを理由に自ら征夷大将軍と名乗り朝廷の命に従いませんでした。新田義貞が勅命を奉じて京都から下り尊氏を討とうとしますが、足柄、箱根で尊氏軍と戦って敗れてしまいます。尊氏は新田義貞を追って京都に入りました。そこで北畠顕家が陸奥から援軍を出し、新田義貞、楠正成らと力を合わせ今度は尊氏の軍を破ります。尊氏は遠く九州まで逃れました。ところが九州の多くの武士達が尊氏に付いたため尊氏は勢力を盛り返し、東上をはじめます。
 尊氏の大軍が東上すると、正成、義貞らは兵庫で防ぎますが、正成は湊川で戦死してしまい、尊氏は再度京都に侵入しました。
後醍醐天皇が比叡山に行かれますと、尊氏は勝手に光厳上皇の弟豊仁親王を擁立して主上としました。これが光明天皇です。
後醍醐天皇は皇位のみしるしである三種神器をお持ちになり吉野に行かれました。これにより大覚寺統、持明院統の両統がそれぞれの天皇を立てられた為、一時に御二人の天皇がある状況となりました。又公卿はそれぞれ支持する天皇に従い、両朝に分裂しました。(南北朝時代に入る)
 吉野朝廷は建武の大方針を守り、皇室が依然ととして政治を取り行っていましたが、京都では尊氏が征夷大将軍となってあらたに幕府をひらき、鎌倉時代の制度を受け継ぎました。延元元年の事です。幕府が倒れ朝廷の政治が回復して3年半、尊氏がかまくらに背いていたのは1年余り前の事でしたから建武の中興の政の続いたのはわずか2年余りにすぎません
世に吉野方を南朝、京都方を北朝といいます。
 五、崩御
後醍醐天皇は吉野において政権奪回されようとしましたが、全国の武士は尊氏に付くものが多く、朝廷の命令を聞くものは少数でありました。この間義貞は皇太子恒良親王と尊良親王を頂き越前にあり、北陸を支配しようとしたが失敗に終わり皇太子はとらわれのち殺され、尊良親王は自害、義貞は藤島で戦死しました。また顕家は義良親王を頂いて陸奥から京に向かい、京を取り戻そうとしましたが攝津、和泉で尊氏軍と戦い戦死しました。
こうして後醍醐天皇は、吉野に約3年おわしましたが崩御なさいました。再び都の春をご覧になることはかないませんでした。と国史にきさいされています。
建武の中興15社
吉野神宮に参拝時に案内書に記載がありましたので
下記に書き示します

社格     名称    祭神     住所
旧官幣大社  吉野神宮  後醍醐天皇 奈良県吉野郡吉野町吉野山3226
旧官幣中社  鎌倉宮   護良親王  神奈川県鎌倉市二階堂154
        井伊谷宮 宗良親王  静岡県浜松市北区引佐町井伊谷                
1991-1
       八代宮   懐良親王  熊本県八代市松江城町
       金崎宮   尊良親王  福井県敦賀市金ヶ崎町1-1
             恆良親王
旧別格官弊社 小御門神社 藤原師賢公 千葉県成田市名古屋898
        菊池神社  菊池武時公 熊本県菊池市隈府町1257
              菊池武重公
              菊池武光公
        湊川神社  楠正成公  兵庫県神戸市中央区多聞通
        名和神社  名和長年公 鳥取県西伯郡大山町
        阿倍野神社 北畠親房公 大阪府大阪市阿倍野区北畠3-7-20
              北畠顯家公
        藤島神社  新田義貞公 福井県福井市毛矢3-8-21
        結城神社  結城宗廣公 三重県津市藤方2341
        霊山神社  北畠顯家公 福島県伊達市霊山町大石字古屋舘
              北畠親房公
             北畠顯信公
              北畠守親公
        四条畷神社 楠木正行公 四條畷市南野2-18-1
        北畠神社  北畠顯能公 三重県津市美杉町上多気1148
              北畠親房公,
              北畠顯家公
以上15社、24柱諸侯をお祀りしています。
神仏霊場にも参加されている神社もあります。
阿倍野神社 四条畷神社 湊川神社の3社であります。

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