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古寺巡礼コミュの豊饒の道 神戸5番 湊川神社

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建武の中興で功績のあった河内の国の武将 楠木正成公を祀る別格官幣社に指定された由緒正しきじんじゃであり、この地は湊川の戦で正成公が戦死した地でもあるとされている。
兵庫県、豊饒の道
(70)旧別格官幣社
湊川神社(みなとがわじんじゃ)
住 所 〠 650―0015 神戸市中央区多聞通3―1―1
電話番号 電話 078―371―0001
御 祭 神 楠木正成公(大楠公)
開 祀 明治5年(1872)5月24日
アクセス JR神戸線 「神戸駅」から北へ徒歩約3分
<神歴・縁起> H/P  http://www.minatogawajinja.or.jp/index2.html
旧別格官幣社 建武の中興15社の一つ
御祭神
楠木正成公(大楠公)
配祀 楠木正行公(小楠公)
配祀 湊川の戦に殉職された楠木正季卿以下御一族十六柱
配祀 菊池武吉卿
摂社 甘南備神社(御祭神 大楠公夫人)

 大楠公は、後醍醐天皇の目指す親政を阻止せんとする鎌倉幕府の勢力や、また武家の政権を新たにたてようとする足利尊氏と戦い、正義と忠誠を示されました。しかし、延元元年(1336)5月25日、この湊川の地で足利軍と戦い、殉節されました。
 以来、この誠忠の大楠公を慕い、地元の人々は大楠公の塚(お墓)を大切にしてきました。お墓は豊臣秀吉検地の際、免租地とされ、江戸時代には尼崎藩主青山幸利(あおやまよしとし)公によって松と梅が植えられ、五輪の石塔も建てられました。
 そして元禄5年(1692)水戸光圀公(義公)が大楠公のご墓所(境内東南隅にある「嗚呼忠臣楠子之墓」がそれです)を建立されました。このご墓所の建立後は、さらに多くの人々が墓前にお参りし、大楠公のご遺徳をたたえました。
 明治維新の前後には、新しい日本の国づくりを願ったたくさんの志士達がお墓に詣でつつ国事に奔走しました。
 これにより大楠公景仰の気運がいよいよ高まると共に、幕末から維新にかけて大楠公の御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868)、明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するようお命じにな
り、当時のお金で千両という大金を下されました。こうして明治2年(1869)、ご墓所・ご殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定められ、
明治5年(1872)5月24日、湊川神社が創建されたのです。
 延元の戦いで奮戦し、誠忠と正義とを以て生涯を貫かれた大楠公に対する景仰は積年変わることなく、現在も全国からたくさんの参拝者を迎える、日本有数の名社とされています。
大楠公は、智、仁、勇の3徳を備える非常な人格者で、聖人とまで言われ仰がれた人でした。
 大楠公の誠忠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫にまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はないと言われるほど、その後の国民に大きな感化を与えたといわれます。 
 横山大観筆「大楠公像」
 昭和10年(1935)、大楠公600年大祭にあたり奉納された横山大観画伯畢生の力作で、今まさに朝敵迎撃の壮途にのぼらんとする決意のほどが偲ばれるお姿です。

 
 
 
 もともと当地は、楠木正成公一族の終焉の地であった。水戸光圀が、その荒廃を嘆き、元禄5年(1692)、「鳴呼忠臣楠子之墓」と自書した墓碑を立てた菩提所であった。墓碑は亀の背に乗っているが、この亀は、正確には亀に似た伝説上の生物「贔屓」。
龍の子で、重たいものを背負うことが好きな生物。「贔屓する」の語源。
 神社辞典によると
 湊川神社 兵庫県神戸市生田区多聞通。
 旧別格官幣社(現、別表神社)。祭神は主祭神として贈正一位橘朝臣正成公(大楠公)を祀り、大楠公夫人、正行卿、正季卿以下一族殉難将士の霊を配祀している。当社は明治元年(1868)明治天皇の創祀御沙汰書をいただき、同五年現在地に鎮座された。当鎮座地は、延元元年(1336)大楠公が弟正季卿ほか一族とともに七生報国をちかいつつ殉節された遺跡であり、本殿背後の境内地はその御遺骸を埋葬した聖地で、梅と松二株が植えられてあったが、元禄5年(1692)徳川光圀が、その遺跡の荒廃しているさまを歎き「鳴呼忠臣楠氏之墓」と自書した墓碑を立て、裏面には明人朱舜水撰による讃詩を刻したことは有名である、社殿は明治5年素木造の本拝殿が建てられていたが、戦災にて惜しくも焼失したため、昭和27年鉄筋造をもって再建した。祭日は7月21日の例祭のほか、
御鎮座記念日である5月25日には神幸祭が行われ、その昔、湊川の戦に殉難した一族16将を擬した騎馬武者行列が市中に繰り出される。
宝物に、正成公着用と伝えられている段縅腹巻一領(重文)また建武2年(1335)8月25日正成公卿自筆の法華経奥書一幅(重文)があるほか大楠公ゆかりの文化財が境内に設けられた宝物館に収められている。
 【大楠公御真筆「法華経奥書」
(重要文化財)】
 大楠公はかって、逆徒平定・天下安泰を祈願され、建武 
中興の宿願が達成されますと、そのご恩に報いるために
法華経を写経、巻末に願意を記されたのです。
 現在残るご真筆中、楷書では唯一のものです。

 
 
 【段威腹巻(重要文化財)】
 大楠公ご着用と伝えられます。300年来、竜野藩主脇坂家
の家宝として蔵せられてきましたが、明治24年(1891 
年)湊川神社に奉納されました。
 明治34年(1903年)、国宝。昭和25年(1950年)、重
要文化財に指定。

 
 和漢三才図会に
  医王山広厳宝勝(奉聖)禅寺 坂本村(神戸市中央区楠町)にある。
楠判官正成の菩提所で、正成の影像と一代の記がある。近所(中央区多聞通)に正成の石塔がある〔兵庫町より北5丁ばかり〕。元禄4年(1691)、水戸黄門光国(光圀)卿が造り改め、碑銘を作らせた。と記載があります。
 戦前の武者行列
  楠公さんで親しまれている湊川神社には、後醍醐天皇
の命に応えられて建武中興に大いなる功績を残された楠
木正成公(大楠公)をはじめ、ご夫人、お子様正行公(小
楠公)、弟君の正季卿等ご一族十六柱と菊池武吉卿がお祀
りされています。湊川神社は、明治5年、殉節された5
月25日をもってご鎮座となりました。そしてこの日の新暦7月12日が例祭日(官祭)と定められ、これに対して5月25日には、氏子等が賑々しく執り行う私祭としての楠公祭が行われることになります。
そして明治7年には神輿渡御が行われ、大楠公を大将とする騎馬武者がこれに供奉したのです。これが楠公武者行列のはじまりです。

表門

本殿

脇社 菊水天満神社
菅原道真公を祀る菊水天満神社は明治9年(1876)9月21日に創建された。
大正11年(1922)8月に正式に末社として認められる。月次祭は毎月21日で、例祭は8月25日(前後日にも祭典有り)である。

大楠公墓所 水戸光圀書の墓標
 大楠公及び御弟正季卿以下ご一族16柱並びに菊池武吉卿を葬った所で、境内東南隅に位置します(国指定文化財史蹟)。
 このご墓所は長いあいだ荒廃していましたが、豊臣秀吉が検地の際、お墓の東西四間(約8m)、南北六間(約12m)を免租地としました。その後に尼崎藩主青山幸利公によって末と松と梅が植えられ、また五輪塔が建てられました。
 元禄5年(1692)、水戸光圀公(義公)は、家臣佐々介三郎宗淳(助さん)をこの地に遣わして碑石を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を岡村元春に書かせて、これに刻ませました。この墓碑の建立によって大楠公のご盛徳は大いに宣揚されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。すなわち幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木保臣・三条実美、坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文等々は、みなこの墓前にぬかづいて報国の至誠を誓い、国事に奔走したのです。

神仏霊場 ご朱印

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