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古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良 霊山寺

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ゴルフの打ちっぱなしや温泉設備があるバラの花でも有名な寺です。
奈良県、鎮護の道
(28)登美山 鼻高
霊山寺(りょうせんじ)
住 所 〠 631―0052 奈良県奈良市中町3879
電話番号 電話 0742―45―0081(代)
本  尊 薬師如来
開 山 行基菩薩 聖武天皇(勅願)
創  建 天平8年(736)
アクセス 近鉄奈良線富雄駅より奈良交通バス「霊山寺前」下車 時刻表必見
     便数が少ないので注意 タクシーあり
<寺歴・縁起> H/P http://www.ryosenji.jp/index.html
霊山寺真言宗 神仏霊場 巡拝の道 第28番 西国薬師49霊場第2番
仏塔古寺18尊 第5番 役行者霊蹟札所

 霊山寺の所在する富雄の里は、古事記には「登美」であり、日本書紀では「鳥見」の地となっています。
敏達天皇の頃より、この地方は小野家の領有でした。右大臣小野富人(遣隋使・小野妹子の息子と伝わる)は壬申の乱に関与したため、弘文元年(672)官を辞し、登美山に閑居しました。天武12年(684)4月5日より21日間熊野本宮に参籠。この間に薬師如来を感得され、登美山に薬草湯屋を建て、薬師三尊仏を祀って諸人の病を治されました。そして富人は鼻高仙人と称され尊崇されたのです。
神亀5年(728)流星が宮中に落下し、大騒ぎになり孝謙皇女が征中の病(ノイローゼ)にかかられた時、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋の薬師如来を祈念すれば治るとのお告げがあり、すぐに行基菩薩が代参。皇女の病が快癒しました。天平6年(734)聖武天皇は行基菩薩に大堂の建立を勅命。天平8年8月インドバラモン僧、菩提僊那が来日され、登美山の地相が霊鷲山(りょうじゅせん)にそっくりということから、寺の名称を霊山寺(りょうせんじ)と奏上され、落慶となりました。
平安時代、弘法大師が来寺され、登美山に力の強い龍神様がおられると感得され、奥の院に大辯財天女尊(弁天さん)として祀られました。それまで当寺は法相宗でしたが、弘法大師が真言宗を伝えられ、以後は法相宗と真言宗の2宗兼学の寺となりました。
鎌倉時代には北条氏の帰依厚く、弘安6年(1283)本堂の改築、堂塔寺仏の修復新調が行われ、僧坊21ケ寺という所説からも非常に栄えました。その後、豊臣秀吉公の社寺政策により寺領百石を与えられ、また徳川幕府にも受け継がれ、御朱印寺として国家安泰と五穀豊穣そして幕府の武運長久を祈願して参りました。 ところが明治維新の廃仏毀釈により、伽藍の規模は半減、200体以上の仏像焼却の運命をたどりました。しかし本尊薬師如来のご加護と、弘法大師が勧請された大辯財天の霊験により復興し、今もなお国宝重文建物6棟、重文仏像宝物30余点を所蔵し、隆盛を保っています。
境内にある1200坪の薔薇庭園は先代住職の戦争体験から平和を願って、昭和32年に開園されました。200種2000株の色とりどりの薔薇が心の安らぎを与えてくれます。
 寺伝では聖武天皇の勅願により行基が開いたとされているが、このことは正史には見えず、開創の時期や事情、中世以前の歴史についてはあまり明らかではない。しかし、現存する本堂、三重塔は鎌倉時代の本格的な建築であり、
本尊薬師三尊像は平安時代後期にさかのぼるものなので、古くから栄えた寺院であったと思われる。兵火に遭わなかったため、建物、仏像などに古いものが残り、近世には徳川幕府の朱印寺として一定の規模を維持していたが、明治の廃仏毀釈以後は衰退した。宗派は中世には興福寺の末寺であり、のち高野山真言宗に属したが、昭和26年(1951)に独立して霊山寺真言宗を称している。昭和期以降は本尊薬師如来とともに、奥の院(主要伽藍の西方約1キロの山中にある)の弁才天が信仰の中心となっており、昭和10年(1935)に奥の院の弁才天を勧請して大弁才天堂を建立したのをはじめとして、「弁才天のお告げ」によって造ったとされる多くの堂や施設が山内に建てられている。

 境内東側の正面入口には一般の仏教寺院と違い、門ではなく朱塗りの鳥居が立つ。これは信仰の中心となっている大弁才天堂への入口を示すものである。鳥居をくぐって道の右側(北側)にはバラ庭園、天龍閣(食事宿泊施設)、大弁才天堂、黄金殿、白金殿などがあり、奥の石段上に国宝の本堂が建つ。道の左側(南側)には仙人亭(喫茶軽食)、薬師湯、ゴルフ練習場などがあり、その奥の石段上に三重塔が建つ。三重塔近くには南大門跡があり、
当初は他の古代寺院同様、南側が正面入口であった可能性が高い。

本堂
 鎌倉時代の代表的建物。弘安6年(1283)に改築。昭和17年(1942)解体修理を行う。本尊薬師如来、脇侍日光、月光菩薩は春日厨子内にあり秘仏、十二神将、二天王、大日、阿弥陀如来、行基菩薩、菩提僊那を祀る。
桁行5間、梁間6間、一重入母家造り本瓦葺で一間の向拝がある。
向拝の左右の柱上と、柱間に架けた虹梁中央の蟇股上との3か所に出組の組物を置く。蟇股内に薬壷を刻んだ細工の配慮がある。外陣、内陣、脇陣からなり、外陣は室内に柱がなく天井は折上小組格天井である。その下に額縁型の区画を設けその中に堅連子がある。正面三間は上が吹寄菱格子欄間、下には引き違い格子戸で内外陣を区画している。内陣の天井は外陣と同様で、連子窓に古材が遺っている。

鐘楼
 桁行一間、梁間一間、袴腰付入母家造りの桧皮葺である。正面や斜面からの姿は均斉がとれて優美である。細部の手法から室町初期の創建とされる。
梵鐘は寛永21年(1644)の鋳造で、霊山寺の沿革と鋳鐘の由来を伝えた史的価値の高いものである。
本堂の手前にあり、本堂と同時期の建築と推定される。

大弁財天堂
 弘仁時代弘法大使ご駐留の時大龍神の霊験を感得せられ、大龍神を辯財天として奥之院へ勧請されたが、当寺開創1200年辯財天の命令により、現世利益の道場として昭和10年新築する。本尊には辯財天の本地仏聖観世音菩薩を祀り、脇侍に不動明王、毘沙門天を祀る。

鎮守社殿
 十六所神社(重文)とも称し、本堂背後の山腹にあり、南北朝時代の建立。霊山寺の鎮守社であった。
今は十六所神社として独立しているが、明治の神仏分離以前は霊山寺の鎮守社であった。 社殿は5棟並んでいて現在覆屋の中にあり南面して向かって左から春日社、住吉社、本社、龍王社、大神宮となっている。 中央の3社は棟木墨書に至徳元年(1384)の建立としるされており重要文化財に指定されている。 ことに本社の蟇股、木鼻などの装飾彫刻は巧みである。資料によれば応永年間(1394〜1427)建立の優れた割拝殿があったが、明治末年破却されて失われたのは惜しい。

薬師湯殿
霊山寺は薬師湯やゴルフ練習場をもつ近代的?な寺院に変貌をとげたような感じが山門を入る時にはしたが一旦境内にはいるとそこは寺院そのものである。

三重塔
 三間三間の桧皮葺、総高17mの小塔で弘安6〜7年(1283〜1284)頃の建立と推定される。 鎌倉期の純和様式で、各重中の間板扉、両脇の間連子窓、組物もよく整ったその姿勢は華麗である。 初重内部全面に巨勢金岡筆と伝わる極彩色の壁画(非公開)がある。
三重塔もありお寺そのものである。

神仏霊場 ご朱印

                   霊山寺本尊 薬師如来

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