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古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良4番 大安寺

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平城京の15町の寺域に荘厳な伽藍を構えた寺であります。

大安寺(だいあんじ)
住 所 〠 奈良市大安寺2―18―1
電話番号 電話 0742―61―6312
本  尊 十一面観音
開 山 (伝)聖徳太子
創  建 天平17年(745)
アクセス JR奈良駅、近鉄奈良駅より大安寺行、シャープ前行、白土町行
所要時間約10分大安寺バス停下車
<寺歴・縁起> H/P http://www.daianji.or.jp/
高野山真言宗(総本山 金剛峯寺)大和13仏霊場 第13番
神仏霊場 巡拝の道 第17番 がん封じの寺

 奈良時代の大安寺は東西2基の七重塔をはじめとする大伽藍を有し、東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、「南大寺」の別称があった。南都七大寺のなかでも、七重塔が建っていたのは東大寺と大安寺のみである。奈良時代の大安寺には、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧、菩提僊那をはじめ歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たした寺院であった。しかし、平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末〜近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品としては、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。
 大安寺の歴史については、正史『日本書紀』『続日本紀』の記述のほか、天平19年(747)作成の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」(だいあんじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)が主なよりどころとなっている(「資材帳」の写本は奈良市、正暦寺旧蔵、国立歴史民俗博物館蔵)。「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が今の奈良県大和郡山市に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)であり、これが移転して、「百済大寺」(くだらのおおてら、くだらだいじ)、「高市大寺」(たけちのおおてら、たけちだいじ)、「大官大寺」(だいかんだいじ)と改称を繰り返し、平城京遷都とともに寺も新都へ移転して「大安寺」となったという。
「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が建てた熊凝精舎であった。
病床にあった聖徳太子は、見舞いに来た田村皇子(のちの舒明天皇)に、熊凝精舎を本格的な寺院にすべきことを告げ、太子の意思を受けた田村皇子が、即位後の舒明天皇11年(639)、百済川のほとりに建てたのが百済大寺であるという。熊凝精舎については、大和郡山市額田部(ぬかたべ)に現存する額安寺がその跡ともいわれるが、「大安寺資材帳」以外の奈良時代の史料にその名が見えないことから実在が疑問視されており、日本仏教興隆の祖とされる聖徳太子を創立者に仮託した伝承とみるのが通説である。
一方の百済大寺については、奈良県北葛城郡広陵町に百済寺という寺が現存するものの、舒明天皇との関連は明確でなく、付近に天皇建立の寺院らしき寺跡も発見されていない。平成9年(1997)、奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所)は、奈良県桜井市南西部(藤原宮跡の東方)にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されるとの見解を発表した。発掘調査の結果、吉備池廃寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式伽藍配置の寺院であったことが明らかになり、発掘された古瓦の様式年代からもこの寺院が舒明天皇11年(639)に建立された百済大寺に該当する可能性は高いと見られている。
 『日本書紀』には、天武天皇2年(673)12月17日に美濃王(みののおおきみ)と紀訶多麻呂(きのかたまろ)が造高市大寺司に任命されたとあり、
高市大寺が今の大官大寺だとする記述がある。「大安寺資材帳」には、その同じ日に御野王(「みののおおきみ」で美濃王と同じ)と紀訶多麻呂が造寺司に任命され、このときに寺を百済の地から高市の地に移したとある。673年は天武天皇(大海人皇子)が壬申の乱に勝利した翌年であり、同天皇の父舒明天皇の33回忌、母斉明天皇の13回忌にあたることが指摘されている。
資材帳にはさらに、天武天皇6年(677)9月に高市大寺を改称して大官大寺としたと見える。高市大寺と大官大寺の関係については、単なる名称の変更と見るか、移転を伴う改称と見るかで研究者の意見が分かれているところである。
 大官大寺跡は奈良県明日香村小山に残り、国の史跡に指定されている。
寺跡の北には大和三山のうちの香久山、南には飛鳥浄御原宮跡が位置する。
寺跡の残存状況は良好とは言えず、金堂の礎石は抜き取られて残っていない(明治時代、橿原神宮建設の際に抜き取られたという)。伽藍配置は廻廊の南側に中門、北側に金堂が位置し、廻廊で囲まれた方形の区画の東側(金堂の右手前)に塔が位置していた。廻廊内の西側(金堂の左手前)には建物跡が検出されておらず、東西2基の塔を建てる予定だったものが中断されたのか、もともと1基のみの塔を建てる計画であったのかは定かでない。塔は方5間(初層平面の1辺に柱が6本立ち、柱間が5間あるという意味)の大規模なもので、伝承のとおり9重塔であった可能性が高い。昭和48年(1973)から同57年(1982)にかけて奈良国立文化財研究所の行った発掘調査によって、寺跡からは
大量の焼け土や焼けた瓦が検出され、この寺が完成後まもない頃、もしくは工事中に火災に遭ったことが判明した。さらに出土した土器の編年から、この伽藍の建立は持統天皇の末年から文武天皇の初年頃(7世紀最末期)であったことが推定された。以上のことから、前述の天武朝に建立された高市大寺とは年代が合わず、高市大寺と大官大寺とは別の位置にあったとする説が有力となっている。
 飛鳥地方にあった7世紀建立の寺院のうち、法興寺(元興寺)、薬師寺、厩坂寺(うまやさかでら、後の興福寺)などは平城京への遷都とともに新都へ移転している。大官大寺も平城京左京6条4坊の地へ移転し、大安寺となった。平城京への移転の年次については正史『続日本紀』には記載がなく、いくつかの説があるが、霊亀2年(716)の移転とみるのが通説とされている。
この説の根拠は、『続日本紀』の霊亀2年5月条に「元興寺を左京六条四坊へ移し建てる」という意味の記載があるが、この「元興寺」を「大官大寺」の誤記とするものである。なお、『扶桑略記』によれば飛鳥の大官大寺は和銅4年711年)すなわち遷都の翌年に火災に遭ったという。前述の大官大寺跡の発掘調査の結果からも、火災のあったことは確認されている。
平城京の街路は1町(約109m)ごとに碁盤目状に配され、4町ごとに走る東西路は一条大路、二条大路・・、南北路は一坊大路、二坊大路・・、と名付けられていた。大安寺の正門にあたる南大門は六条大路に面して建っていたが、寺域は六条大路の南側にも伸び、東西3町、南北5町に及ぶ広大なものであった。伽藍配置の特色は、東西両塔(7重塔)が金堂から大きく離れ、南大門の外側(南方)に建つことであり、「大安寺式伽藍配置」と称されている。
天平19年(747)の「大安寺資材帳」によると、同年現在、大安寺には887名の僧が居住していた。奈良時代の大安寺には、インド僧、菩提僊那、唐に16年間滞在した留学僧、道慈など、帰化僧、留学僧を含む著名な僧が在籍していた。菩提僊那は東大寺大仏開眼の導師を務めた僧として知られる。
道慈は三論宗系の学僧であり、奈良時代に護国経典として重視された新訳『金光明最勝王経』を日本にもたらすなど、上代仏教史上重要な人物である。唐僧・鑑真を日本へ招請するため唐に派遣された普照と栄叡(ようえい)、空海や最澄と交流のあった勤操(ごんそう)、また最澄の師にあたる行表も大安寺の僧であり、大安寺が日本の上代仏教の発展に果たした役割は大きかったが、都が平安京へ移ると次第に衰退した。寛仁元年(1017)の火災では本尊釈迦如来像と東塔を残してことごとく焼失し、以後、かつての規模を取り戻すことはなかった。慶長元年(1596)の地震による損害の後、近世には小堂1つを残すのみであったという。
大安寺の旧本尊である乾漆造釈迦如来像は「資材帳」に天智天皇発願の像
と記され、名作として知られていた。平安時代末期の保延6年(1140)に南都の諸寺を巡った大江親通の『七大寺巡礼私記』は、薬師寺の本尊像(現存、国宝)についての記述のなかで、「薬師寺の本尊像は優れた作だが、大安寺の釈迦像には及ばない」という趣旨のことを述べている。
平安時代末期に和様彫刻様式を完成させた仏師、定朝も大安寺の釈迦像を模作したことが知られている。この釈迦像も今は失われ、見ることができない。
なお大安寺自身により、学術論文集『南都大安寺論叢』(南都国際仏教文化研究所編、平成7年―1995)と、『大安寺史・史料』(昭和59年―1984)が刊行されている。

本堂

本尊 本尊十一面観音立像(重文)
 本堂内にお祀る御本尊で、本堂は近代の建築物である。
本堂中央の御本尊で、特定の期間を除き、平素は秘仏となっています。
がん封じのご本尊として日々に祈願がこめられ、多くの人が参拝されます。
十一面観音は頭上に十一面をいただく仏様で、菩薩修行階位の十地を表し、頂
上仏は仏果を表しています。
喜怒哀楽の表情は衆生の苦楽を観て、共に喜び共に涙する観音様の慈悲が表わ
されており、左手に宝瓶を執り、右手は垂れて与願の印を結ぶ姿は一切の苦悩
を滅除する観音様の働きが示されています。
わが国では奈良時代に既に信仰がありました。奈良時代後期から平安時代に入
って、密教伝来とともに、その信仰はさらに広く流布していきました。
本像は頭部や左手などに後補の部分がありますが、体部および台座はよく保
存されています。胸部の瓔珞(装身具)は精巧華麗に刻み出されて美しく、肉付きのよい体部と柔らかい条帛裳の流れ、そして天衣の見事な表現はこの像の優美さをよく引き立てています。また腹部にしめる石帯には数珠つなぎの飾りが垂れ、台座の菊座と対葉花文が刻まれ、実に見事な意匠と彫り口が示されています。
この像は天平時代を代表する大安寺彫刻群の中でももっとも優美な仏像と言えます。

嘶堂
 忿怒の形相で、一面六臂の馬頭観音様がまつられています。人々の苦悩を除き、幸運をもたらす厄除け観音として信仰されています。
文化財の指定では千手観音となっていますが、寺伝では馬頭観音として伝わり、嘶堂に安置される秘仏です。3月のみ公開されます。
後補部分が多い像ですが、当初の体部の状態からみて、この像もやはり堂々たる天平彫刻の風格が感じられます。
一般に馬頭観音様は、頭上に馬頭をいただく忿怒の形相ですが、この尊像にはその馬頭がありません。かわりに胸飾りの瓔珞(装身具)と足首に蛇が巻きつき、腰には獣皮をまとっている極めて珍しい姿です。

馬頭観音立像
 儀軌以前の古像で、馬頭観音の原初の姿とも考えられます。
馬頭観音様は、馬が牧草を食むように、もろもろの悪を食い尽くし、たくさんの水を一気に呑み干すように私達の災厄を除くといい、厄除けの仏として信仰されます。馬頭明王様とか馬頭大士様ともいい、後には牛馬の守りとして無病息災を祈る対象にもなりました。馬は馬力ともいうように力強さの代名詞でもありましたが、その力強い働きを示すかのように馬頭観音は厳しい忿怒の形相をとっておられます。
紀州徳川家に伝わったという、大安寺馬頭観音の秘仏神符のお守りは、厄除守りとしてあらたかといわれています。
馬頭観音立像特別公開日 → 3月1日〜31日

神仏霊場 ご朱印

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