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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 自分たった一人だとしても反対できる人間を育てる

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われわれは神が何であるかということを知ることはできない。知り得るのはわずかに、神がどういったものではないかということだけである。
トマス・アクィナス「神学大全」


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「未開語」は「文明語」より単純であるというのは「文明人」の迷信にすぎない
テソ語 Iteso
パラ=ナイル語は世界の諸言語のなかでも、もっとも複雑難解の部類にはいるといわれる、、、名詞は男性、中性、女性の性称をもち、複数形のなかには単数形とまったく似ていないものがすくなくない。人称代名詞は、一人称複数に聞き手をふくむものとふくまぬものがあるので7種、、、動詞は人称によって変化し、変化形には2種の基本形がある。
時制は単純現在、進行現在、未来、過去、大過去、完了、未然、継続など多様で、これらが仮定法、条件法、命令法、能動態、受容態、回帰態などと組み合わされ、しかも目的語の性数にも変化が規制されるから、一つの動詞の変化表だけでも気が遠くなる。

形容詞もほとんど変化する。派生語は種類が多く、語根と接頭辞の意味を知ることが重要になる。数は5を基数とし、序数、回数の区別がある。要するにフランス語をずっと複雑怪奇にしたような言語である。「未開語」は「文明語」より単純であるというのは「文明人」の迷信にすぎない。

「テソ民俗誌 その世界観の探究」 長島信弘 中公新書 1972

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Takahisa Taniguchi 22時間前

ドイツに住んでいて、教育に関心があり、ヨーロッパ各地の教育機関を訪ねました。その時に聞いた言葉で、耳から離れない言葉があります。「自分たった一人だとしても 反対できる人間を育てる。ドイツの教育ではそれを目指している」

第二次世界大戦の過ちから学んで、悲劇が繰り返されないために、社会が暴走しかけたその時に歯止めをかけるために、それを目指しているといいます。ドイツの友だちにも、その事について聞いてみたら、こう返ってきました。
「それが明確にどこかに書かれているわけではないですが、そのように感じてます。もし反対意見も持つ人が自分たった一人だけだったとしても、それを声に出す事が歓迎されます。
そして学校でも、政治や倫理に関する話し合いがたくさんなされます。戦争の歴史や、ドイツが犯した過ちなども、13歳から、5?6年に渡って話し合いを行います。それは歴史の授業だけに限らず、国語や英語といった様々な科目の中でです。表現の自由や、民主主義は、私たちの教育の根本にあるものです」

この事の大切さを、僕の30年余りの人生の中で、今、一番感じています。

心の中では「おかしい」と思いながら、ほんの少しの勇気が出せずに従ってしまうと、社会の暴走は加速していき、やがて止める事のできないスピードに達しまう。

「現状のこういうところがダメだ」

「こうなればいいと思う」
そういう事を議論する人に最近たくさん会いますが、大事なのは行動だと思います。
「現状」を「こうなれば」に近づけるために、「自分」はなにをするのか。
「同調圧力」のせいにする事も、人のせいにする事も、人任せにする事も、たやすい。

だけどそれではなにも変わらない。

「あなた」はどうするのか。

それ以上でも、それ以下でないと思う。
沈黙は容認。

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同志山本宣治凶刃に殪(たお)る

昭和4年3月5日、、、遂に発言の機会を得ず、夕刻旅館に帰り、ーーその頃氏は神田の光栄館をその定宿にしてゐた、ーー晩餐を済ますと間もなく、七生義団といふ右翼反動の一グループに属する黒田某なるものにより暗殺され、忽ちにして不帰の客となつた。

(後年私は、小菅刑務所で懲役に服してゐた頃、この黒田といふ男によく会つた。一緒に入浴したことすら度々ある。皮膚の浅黒い、筋骨の逞しい、無学な若者といふ以外に何の特徴も取柄もないこんな男に我が山本君はやられたのかと、同じ湯舟にひたりながら、私は時折彼と語り会ふことを余儀なくされてゐた。
この殺人犯人は、私の服役中、仮釈放の恩典に浴し、刑期半ばに出て行つた。彼の属してゐる七生義団といふ仲間は、毎年定期的に面会に来て金品の差入などし、出獄の際も態々(わざわざ)朝鮮から迎ひに来たくらゐで、出獄後の彼は、さうした仲間の周旋で直ぐに職にありついたとのことである。
彼らの仲間の互助関係は中々義理固いものがあつて、仲間の申合せで一人殺してしまへば、
跡はもう一生食ふに困らぬ仕組になつてゐると云ふことである。)

私は、山本君が暗殺されたといふ報道がまだ新聞でもラジオでも伝へられて居ないうちに、
新聞記者の来訪によつて即刻そのことを知つた。その時は、同君がすでに絶命してゐるか、何者が襲つたのか、まだ分からずにゐたが、私は新聞記者に対し、もし思想上の信念のために斃れられたのなら、山本君も本望だらう、といふ意味のことだけ語つた。

河上肇 「自叙伝」その一 264p


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発表によれば、日本軍は、太平洋戦争で連合軍の戦艦を四十三隻、空母を八十四隻沈めた。
だが実際は、戦艦四隻、空母十一隻にすぎなかった。
誤魔化しは、数字だけに留まらない。守備隊の撤退は、「転進」と言い換えられ、全滅は、「玉砕」と美化された。
戦局の悪化とともに軍官僚の作文と化した大本営発表は、組織間の不和と政治と報道の一体化にその破綻の原因があった。
今なお続く日本の病理。悲劇の歴史を繙く。


「大本営発表  改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争」

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精神のくもりに気づく経験

https://bit.ly/3CKBKZ5

「大学と人文学の伝統」  精神のくもりに気づく経験
言語学者 田中克彦   朝日新聞書評 2015年5月5日

人類学がまだ土俗学と呼ばれていた頃の、黎明期日本の近代学問の開拓者となった鳥居龍蔵は、小学校に1年学んだだけで退学させられた。学校の授業が気に入らず欠席がちになったからである。

しかし家では多方面にわたって早熟な読書をし、英、独、仏など外国語の学習にも励んだ。
やがて地元徳島の考古学的遺跡の調査を行い、明治19年に東京人類学会が創立されると、
ただちにその会員になった。16歳のときである。

その後上京して、坪井正五郎教授の手引きで東京帝国大学の研究室の資料整理にかかわるようになり、生涯にわたって、樺太、シベリア、モンゴル、旧満洲など、ひろく極東の調査を行った。東京帝大助教授の職を得て勤務しながらも、意に沿わないことがあって辞職した。
このような生涯の足どりを記したのが『ある老学徒の手記』である。

・鳥居龍蔵
「ある老学徒の手記」岩波文庫

鳥居は言う。「私は学問のために学問し、生活のために学問せず」「学校卒業証書や肩書で生活しない。私は私自身を作り出したので、私一個人は私のみである」と。

学問の自立へのこのような強い信念が形成されたのは、その素質を見込んで、これを読んでみろと次々に書物を提供する市井の人たちや、徳島の自宅まで訪れて助言を与えた坪井教授のような大学人が、当時の日本にはいたからである。

今につながる洞察

鳥居とは対照的に、生涯ほとんど学校から離れず、独自にアラブ学の道を開いた前嶋信次もあげておきたい。
私は東京外国語大学の学生であった頃、この人からフランス語の手ほどきを受けた。
エミール・ゾラやシャトーブリアンの描く女たちを、先生は飄々とした調子で論じている
うちに、いつの間にかアラビアンナイトの女との比較に話が流れていくという具合であった。
先生の本業がアラブ学であると知ったのは、ずっと後のことであった。先生は東京外語でフランス語を修めた後、東京大学の東洋史に進まれ、ヨーロッパと東洋を結ぷ研究に沈潜された。
十字軍とレコンキスタを扱った『イスラムとヨーロッパ』は、いまのような時代になって突然浮かび上がったかに見える問題には深い背景があることを思い知らせてくれる。

・前嶋信次著作選
「イスラムとヨーロッパ」平凡社東洋文庫

東西にわたる深く広い学識にささえられた洞察は、目前の実利に追われる、総ビジネス化大学からは急速に失われつつある。

タコツボ化を警告

大学が企業や官庁の勤め人養成の下請け機関になりさがり、他方で研究をますます狭いこまぎれの専門領域へと分断する結果、技術はあるが、全体を見渡し考えることを放棄した人間を製造する場となる。その危険を、もう150年も前に警告しているのがJ・S・ミルの講演『大学教育について』である。

・ジョン・スチュアート・ミル
「大学教育について」岩波文庫

ミルはこの講演で「自分自身と自分の家族が裕福になることあるいは出世すること」を
「人生最高の目的」とする人たちに大学が占領されないよう、絶えざる警戒が必要であると訴えている。

今の日本の政治を担う人たちは、かつて大学生であったとしても、大学が学生に与えるべき最も大切な経験−真実という鏡の前で自らの精神のくもりに気づくという知的・心的経験を一度として味わわなかったのであろう。だからこそ、もうからない人文学を大学から追放しようという、先人の築いた日本の伝統を破壊へと導きかねない発想が表れるのであろう。

たなか・かつひこ 34年生まれ。
一橋大名誉教授。著書に『ことばと国家』など。

【鳥居龍蔵 1870-1953】人類学者・考古学者。世界各地を調査・研究した
【前嶋信次 1903-1983】東洋史学者。『アラビアン・ナイト』を原典から翻訳した


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四方田 犬彦 11月23日 21:46

全斗煥が死んだ。バファンクーロ!虚偽と私欲に凝り固まり、残酷な虐殺を平然と行なった人物だった。2000年にソウルの延喜洞で、彼の邸宅から100mのところに住んでいた。いつもSPが周囲を監視していた。韓国の政界で内輪争いがあるたびに新聞は彼の談話を載せていた。「これがあんたらのいう民主主義かね」と、彼は嘲笑的な言辞を発していた。
光州の虐殺犠牲者の最初の墓所マンウォルドンに行くと、入口に「全斗煥」とハングルで刻まれた敷石があり、それを踏んでいかないと中に入れないようになっている。光州を最初に訪問したときに建立された記念碑をただちに住民たちが破壊し、その名前の部分を地面に埋め込んだのだ。

コメント(2)

ためになるコメントばかりですね。ありがとうございます!
>>[1]

色平哲郎氏は、実に豊かな医師です。

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