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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 「世界はできるだけ多様で自由で、スキマがあった方が豊かだと思います」

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堤未果さん 11月11日 アメリカ・ニュースの裏で複数の危険法案が動いています。 RCEP、予防接種法、審議時間極少の種苗法改正、etc.
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「世界はできるだけ多様で自由で、スキマがあった方が豊かだと思います」     (フロントランナー)文化人類学者・立命館大教授、小川さやかさん  人間社会の混沌、密着する新世代 朝日新聞2020年9月19日 https://bit.ly/35kvN7M
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私が引っかかっているのは、、、集積された「情報」が「知」であると考えられている点である。 私は才能にあふれる、彼らインターネット世代の揚げ足を取りたくて、 些細なレトリックにこだわりたいのではない。 「情報」を「知」と読み替えることこそ、市場化された「現在」を特徴づけている本質なのではないかと思っ ているのである、、、
インターネットの出現とそれに続く情報の氾濫によって、確実に人間は知性的であることの意味と知に対する マナーを見失うことになるだろう、、、 情報をいくら集積しても、それは量の増大に過ぎない。 それを「知の集積」と呼んでしまうところに、テクノロジー信仰の根本的なあやうさがある、、、
「知性的であることの意味とマナー」と書いた。 噛み砕いて言えばそれは次のようなことである。
  知識は積み木のように積み上げてゆくことができるが、知性とはそのようなものではない。 むしろ、積み上げてきた思考のプロセスを、積み木崩しのように、崩すところからしか、新しい知性というも のは生まれてはこない。 私(たち)が、何度も繰り返してきたように、知性とは自分が何を知っているかではなく、自分が「何を知ら ないか知っている」というところにその本質を持っているからである。 これもまた、メタ「知」である。
しかし、それは「知」に対する「知」ではなく、「不知」に対する「知」である。 それはまた、自分がすでに知っていると思うことをもう一度相対化してみることでもある、、、
ソクラテス、デカルトの昔から、ニーチェ、マルクス、フロイト、あるいは孔子、孟子から空海、一遍、親鸞 にいたるまで、先賢の「知」の初源には、自分が何であるのかよくわからないという疑問が横たわっていたと 言えよう。 自分が何であるかよくわからないということは、すなわち、自分の知もまたよくわからないものの活動である ということである。 知はどこまで行っても、このよくわからないものに触れることはできないが、よくわからないということを深 く実感することだけはできる。 ネットの向こう側に知があり、ネットで繋がった人の輪があると考えるのは自由だが、知も、人もどこか影の 薄い情報に過ぎないと疑ってみる必要はあるのではないだろうか。 平川克美「株式会社の世界史」292p
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172 院内で「発掘」された70年前の若月先生の脚本 日経メディカル 2020年9月29日 色平哲郎 https://medical.nikkeibp.co.jp/.../iro.../202009/567334.html
先ごろ、筆者が勤める佐久総合病院の名誉総長、故・若月俊一が書いた脚本『村のうた』のガリ版刷りが出て きた。1950年に、院内劇団の公演用に書かれたものだ。ガリ版刷りといってもピンとこないかもしれないが、 「ロウ紙」と呼ばれる原紙に先が硬い鉄筆で一文字、一文字手で刻み、輪転謄写機で印刷する手法のことだ。1 960年代にコピー機が普及するまでは軽印刷の主流だった。 当時、40歳だった外科医の若月は、既に院長のポストにあり、何年か前に火事で焼け落ちた病棟の再建祝賀会 での上演に向けて『村のうた』を書き下ろしていた。若月にとって演劇は、まだ医療との縁が薄く、知識も少 なかった山村の人々に、楽しみつつ公衆衛生や保健の知識を伝える大切な手段だった。
若月は生涯で30本以上の脚本を書いたというが、著作集にも収録されていない脚本がある。『村のうた』もそ の1つだ。現役の病院劇団部員たちが、佐久総合病院本院の書庫に眠っていた『村のうた』のガリ版刷の、かす れて読めない文字などを補い、台本の形で復刻させた。 脚本のテーマは、まさにコロナ禍の今にぴったり。赤痢や腸チフスなどの伝染病=感染症がまん延している中 、いかに「伝染病棟」を建設するか、というものだ。これら細菌性の感染症は、現代の日本では大きく減った が、感染症が流行したときの人々の反応や偏見、差別の横行は70年前も現在もあまり変わらない。
脚本に凝縮された信念 あらすじはこうだ。戦前から感染者の隔離には「避病舎」が使われてきた。しかし、「近代的設備がない、荒 屋にすぎないんですからね。十分に消毒もできない中で、患者は只寝て居るだけ。一日に一回、医者が見廻り に来てブドウ糖をうってくれるだけじゃあ、どうにもならないわね」と看護婦が嘆くほど粗末なもの。そこで 院長は、病院の敷地内に「伝染病棟」を建設し、本格的な感染症治療に乗り出そうとする。 だが、村人は大反対だ。伝染病棟は感染者を集め、わざわざ災厄を呼び込むようなもの。用水路の川上に伝染 病棟ができれば、川下の自分たちに害毒が及ぶ、と憤慨する。そんな村人の中にあって、夏季脳炎にかかった 弟を避病舎に隔離されたまま亡くした井出という青年は、伝染病棟の建設に賛成する。 すると、反対の急先鋒、よろず屋の息子が「きさま、村を賣(う)るつもりか」「診療所が大切か。村が大切 か」と井出に迫り、仲間を使って殴る蹴るの暴行を加える。古い殻に覆われた村に伝染病棟は無理かと、諦め ムードが漂う。 ところが、よろず屋の一番下の子どもがジフテリアで呼吸困難に陥り、院長に気管切開をしてもらわないと命 が危うくなる。よろず屋は平身低頭、「お願いします」と院長に手術を頼む。院長は、避病舎に向かい……。 場面が変わって、伝染病棟の上棟式。よろず屋は「おめでとうごわすなあ。こんなに早く伝染病棟ができ上る なんで、まるで夢のようですな」と上機嫌だ。院長の手術で末子は助かり、すっかり近代医学の威力に心服。 伝染病棟の推進派に変わったのである。
この脚本には、若月の信念が凝縮されている。脚本の冒頭、東京からきた医師に「あーあー本当に田舎ってい やだなあー。本当に百姓の利己心にあー全く、くさらされるよ」と言わせている。 劇の観客は、当の村人たちである。反発を買っても、とにかく、医療の民主化、近代化を進めたいという思い が、こうした台詞を吐かせたのだろう。それは信念の表出だ。 https://nkbp.jp/3cHIKe2 ===================
169 目の前の古びた病院に世界的な偉人がいた 日経メディカル 2020年6月29日 色平哲郎 https://medical.nikkeibp.co.jp/.../iro.../202006/566173.html
個人的な話で恐縮だが、私の母の実家は新潟で鍼灸院を営んでいた。その実家の斜め前に「竹山病院」という 産婦人科の病院があった。子どものころ、夏休みに母の実家に行っては、そのあたりを走り回って遊んでいた が、まさか目の前のすすぼけた病院に世界的な偉人がいようとは夢にも思わなかった。母方の親戚の農家の女 性たちも竹山病院でお産をしており、あまりに身近だったからだ。
生涯を竹山病院の勤務医で通したドクトール・オギノ、荻野久作(1882ー1975)。一般には「オギノ 式」の避妊法の始祖として知られているが、彼が解き明かした人体の神秘=「排卵は次の月経が来る16日か ら12日前の5日間に起きる」は、世界の産婦人科学会に燦然と輝く金字塔なのだ。ノーベル賞ものの業績と いわれている。 今年は、荻野が排卵期に関する学説をドイツの医学誌に発表してちょうど90年になる。そこで今回は、荻野 の業績や医師としての生き方にスポットを当ててみたい。 町医者の臨床の知を最大限生かす 東京帝国大学を卒業した荻野は、養家の両親を養うために給料の高かった竹山病院に産婦人科医として赴任し た。多忙な診療の中で、荻野は「排卵と月経」の関係解明を生涯のテーマと定める。当時、排卵と月経の関係 は神秘のヴェールに包まれていた。1913年にドイツのシュレーダーが、「排卵は月経第1日目から起算し て14日から16日の3日間に起こる」という統計学的学説を発表し、これが多くの学者の賛同を得ていた。 しかし、シュレーダー説は、月経周期28日が多い欧米女性には当てはまるが、それ以外の周期の女性には該 当しない。荻野の周囲には、子どもが欲しいのに授かれない夫婦や、逆に「貧乏人の子だくさん」に苦しむ家 庭が数多くあった。排卵と月経の関係が分かれば、いずれの苦しみも解消できるだろう。 荻野は、ほぼ毎日執刀する開腹手術で卵巣と黄体を観察し、臨床データを蓄積する。夜は、新潟医学専門学校 (のちの新潟大学医学部)の病理学研究室に通って研究に打ち込む。ドイツをはじめとした欧米の論文を渉猟 する。 ある日、子宮筋腫の手術をした女性が夫を伴って竹山病院を訪ねてきた。夫婦は子宝に恵まれないと嘆き、荻 野の診察を受ける。どちらも異常はない。しかし、話をじっくり聞いているうちに女性は変わったことを口に した。 「いつも月のものが始まる2週間前に、わたしはおなかが痛くなるんです」。そういうときは、お腹にさわる と思い性行為を拒んできたという。 荻野はハタと気づく。この腹痛は排卵時の排卵痛に違いない。だとすれば、排卵時こそ性行為をすれば子ども を授かれる。拒否していたら子どもはできない。荻野は順序立てて説明し、夫婦を返した。すると翌月、女性 は妊娠したのだった。 「月経が始まる2週間前」という女性のコメントが荻野の発想をいたく刺激した。月経があって排卵が行われ るのではなく、排卵の結果として月経がある、とコペルニクス的転換をしたのである。そして自らの妻や患者 たちを巻き込んだ綿密な調査を経て、「排卵は次の月経が来る16日から12日前の5日間に起きる」という 学説を確立した。荻野はドイツ語の読み書きはできるが、しゃべれないままドイツに留学し、自説を説いてま わる。凄まじいエネルギーだ。帰国後はあちこちの大学から教授就任の要請が届くが、すべて断る。市民のた めに農民のために、90歳まで現役を貫いた。 町医者が臨床の知を最大限に生かし、研究を重ねた成果は、ローマ法王庁が唯一認めた避妊法に利用される。 ただ荻野自身は、「オギノ式乱用者に告ぐ」という文章で、「オギノ式に従う限り1日といえども安全日はな い」と述べている。子宝に恵まれない人びとのために解明した真理が、避妊目的に使われるのがつらかったの だろう。どこまでも真摯で実直な偉人である。 (本稿は、鈴木厚『世界を感動させた日本の医師』(時空出版、2006)、篠田達明『法王庁の避妊法』( 文藝春秋、1991)を参考にさせていただきました。竹山病院はその後リニューアルされ、現在も当地で運 営されています。)
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163 中村哲先生が「若月賞」受賞講演で語ったこと 日経メディカル 2019年12月27日 色平哲郎 https://medical.nikkeibp.co.jp/.../iro.../201912/563675.html
  中村先生の若月賞受賞と、記念講演の内容を伝える佐久総合病院の広報誌(2002年) アフガニスタンで長年、医療や水源確保の事業を展開してこられた中村哲先生の死は、 国際保健医療支援に携わる人びとに大きな衝撃と悲しみを与えている。 中村先生に最初にお目にかかったのは、2000年だった。 当時、私はプライマリー・ヘルスケアの手引書『Where There Is No Doctor』 (デビッド・ワーナー著、1968年)の翻訳に取り組んでいた (邦題: 『医者のいないところで』 国際保健協力市民の会)。 世界を見渡せば、医療資源の乏しい地域で、多くの子どもや母親たちがマラリアや 下痢、栄養失調、妊娠・出産の合併症やエイズなど、 予防可能な病気のために生命を落としていた。 『Where There Is No Doctor』には、そのような医者のいない地域でも可能な限り 予防し、治すための方法が記述されている。 すでに世界80カ国以上の言語に訳され、何百万人という途上国で働く 保健ボランティアや看護師、助産師、住民自身から圧倒的な支持を集めていた。 何とか日本語訳もと思い、どこへ行くにも、この本を持ち歩いていた。 初対面の中村先生にも、本を見せて、アフガニスタンでの適用について ご意見をうかがった。 中村先生は、さーっと目を通して、こうおっしゃった。 「イラストが多いのはいいですね。 ただ、このままでは難しいな。 イスラーム圏で翻訳する際には工夫が必要ですね」。 本には女性器などもしっかりイラストで描かれている。 その表現の工夫に言及された。 実際にアフガニスタンの人びとに溶けこんでいる中村先生らしい反応だった。 次にお会いしたのは2002年、ペシャワール会現地代表だった中村先生が 「若月賞」を受賞して、信州に来られたときだった。 若月賞は、佐久総合病院の名誉院長・若月俊一先生の業績を記念して 保健医療分野の「草の根」的な活動を顕彰する制度だ。 中村先生は、勤務医の職をなげうって1984年にパキスタン北西辺境州ペシャワール に赴任。 ハンセン病のコントロールを手始めに、無医地区山岳部での診療所や基地病院の 建設に邁進された。 その功績が認められ、受賞に至ったのだ。 「まず生きていなければ病気も治せない」 中村先生の受賞スピーチは、まさに医者のいないところで、赤ん坊から高齢者まで、 あらゆる病気と向き合う実践力に満ちていた (若月賞受賞記念講演「国際医療協力の18年」の内容は 佐久総合病院のウェブサイトを参照)。 戦争に翻弄され続けてきたアフガニスタンの現実をお聞きし、言葉を失う。 そこに「とてつもない大干ばつ」が襲いかかる。 飲み水がない。 「飢餓状態になってガリガリに痩せて抵抗力が落ちる。 そこでちょっとした病気で命を落とすというのが一般的な餓死の在り方です。 そのために子どもの犠牲者が多かったですね」。 「人が来なければ診療もなにもありませんし、医者がこんなことを言っては いけませんが、病気どころではない。 当たり前ですが、まず生きていなければ病気も治せない。 村人を総動員して『先ず清潔な飲料水の確保を』ということで、 2000年の7月から井戸を掘る作業を始めました」と、中村先生は述べた。 以来、先生は自ら重機を操って砂漠に水を引き灌漑施設を築き、 荒地を緑地に変えてこられた。 その業績は、NHKドキュメンタリーなどでも紹介されている。 中村先生は、故郷福岡の「五庄屋」の偉業を生き方の参考にされたのでは ないだろうか。 江戸時代中期、筑後川南岸一帯・江南原(こうなんばる)は水利に乏しく、 干害にあえいだ。 5人の庄屋が心血を注いで灌漑の道を開いた物語は、帚木蓬生氏の『水神』 (新潮社)にも描かれている。 中村先生が残された、もう1つの重要なメッセージは「戦争反対」だった。 2001年10月13日、中村先生は、米国同時多発テロ直後の国会 「国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員」 に参考人で招かれている。 政治家たちが米国と一緒にアフガン制裁を、と唱える中、次のように語った。 「テロという暴力手段を防止する道に関しましても、これは暴力に対しては力で 抑え込まないとだめだということが何か自明の理のように議論されておる。 私たち、現地におりまして、対日感情に、いろいろ話はしませんけれども、 日本に対する信頼というのは絶大なものがあるのですね。 それが、軍事行為に、報復に参加することによってだめになる可能性があります」 その後、米国はアフガニスタンに報復攻撃を行い、自衛隊はインド洋で米軍艦船に 洋上補給(給油)を行った。 中村先生の証言はどこまで生かされたのだろうか。 戦争に巻き込まれれば、病気どころではない。 改めて戦争の愚かさを痛感しつつ、合掌。 ==

コメント(1)

すーちゃんさん

「イイネ」を有り難うございます。

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