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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏からのご紹介】 「東大には総長が二人いると言われた。夜の総長@工学部82番教室」

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【色平哲郎氏からのご紹介】
「東大には総長が二人いると言われた。夜の総長@工学部82番教室」


共同通信 【2006.12.23】
自主講座「公害原論」で市民運動の種をまいた元東大助手の宇井純さん 11月11日、74歳で死去    
水俣病に深入りするきっかけは、東大工学部を卒業して化学会社で働いていた時の体験にあった。実験が終わると水銀塩をそのまま流して処理するのが日常だった。
「水俣病の原因が有機水銀と知り、衝撃を受けた。その後被害側に身を置く姿勢は現代の田中正造と呼ぶにふさわしい」
写真家の桑原史成(しせい)さん(70)は一九六二年に水俣を一緒に歩き、ネコの実験で有機水銀が疑わしいとのデータを入手した当時の思い出を語る。
この時の取材を基に合化労連の機関紙にペンネームで水俣病告発の連載を始めたが、まもなく新潟水俣病が発生。
実名で書かなければインパクトは伝わらない。生後一カ月の長女を抱いた妻紀子さん(66)に「出世の道は閉ざされるが、どうする」と涙を見せながら話したという。
「見合い結婚だったので将来、東大教授になる人と思っていたのに」。夫人は脅迫にもひるまず、持ち前の明るさで三人の子供を育てながら万年助手の夫を支え続けた。
一九七〇年代、東大には総長が二人いると言われた。夜の総長の自主講座「公害原論」には、千人以上が教室に詰め掛けたことも。栃木県で市民講座「田中正造大学」を主宰する坂原辰男さん(54)は「東京にいるより田舎へ帰り地域を良くし、日本を変えていくことが大事だと教わった」。
五十四歳で沖縄大へ教授に迎えられたが、体調を崩した。昨秋に心臓手術を受けてからは入退院の繰り返し。
「四十二年間ありがとうね」と紀子夫人と言葉を交わし一カ月後に旅立って行った。
アスベスト(石綿)汚染など公害は今も続く。自主講座に影響を受けた学生らの多くは団塊の世代という。「定年後もあの時代を思い起こし活躍してほしい」と願っているに違いない。(共同通信記者 上野敏彦)

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・共有します。

・シェアさせていただきます。

・宇井純さん。ご健在なら90歳ですね。
『公害原論』(亜紀書房)は大学の経済地理学のテキストでした。関根さんという講師の先生が毎回熱い講義をやり、200人入る大教室はいつも満員でした。
卒業してからまだ遊水池の側にあった旧谷中村跡地を、坂原さんに案内していただき、見ることができたのは一生の宝です。

・懐かしいです。若い頃自主講座に通ってました。尊敬する方です。投稿感謝申し上げます。

・自主講座のお陰で高校1年生で東大(の教室)にはいれました。全共闘運動は過激な暴力革命を目指した面が誇張されますが、学問とは何か、大学とは何かを追求し大学解体を議論し、それが自主講座運動に継承されたと自分は思います。講師は荒畑寒村氏、羽仁五郎氏、都留重人氏、飛鳥田一雄氏、戒能通孝氏、田尻宗昭氏、山崎圭次氏、川本輝夫氏、戸村一作氏、山本義隆氏ほか毎週著名な顔ぶれでした。

・「公害の政治学」(三省堂新書)を高校生くらいの時に読んで、公害原論とか読ませてもらった。

・自主講座 思い出深いたくさんのことを教わり、考えました。今につながっています。

・残念です。懐かしいです。シェアさせていただきます。

・シェアさせて頂きます。

・沖縄時代に取材しました。

・とても、とても、とても、大事必読

・ネコの実験…。

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1957年5月、猫に水俣工場廃液を与える実験を開始。1959年10月6日、廃液を投与され続けた「猫400号」が運動失調の症状を示すことを確認し、工場責任者に報告した。細川は水俣病の原因は工場廃液と確信するが、会社の説得によってこれを公表できなかった。1962年、新日本窒素肥料を辞め、愛媛県に帰郷。

1969年春、合化労連新日窒労組執行委員長の岡本達明は、新潟水俣病訴訟弁護団幹事長の坂東克彦にメーデーの挨拶を依頼。ほどなくして坂東は石牟礼道子から、「水俣に来る途中、愛媛の細川先生のところに立ち寄って、先生の手元にある猫実験のノートの内容を確認してほしい。今それができるのは坂東さんしかいない」との葉書を受け取る。4月末、坂東の訪問を受けた細川は、「猫400号実験」に関するノートを坂東に見せた。
1970年5月、肺ガンのため癌研究所附属病院(東京都豊島区)に入院。

水俣病裁判弁護団は、裁判長、弁護士が共に入院先の病室に赴いて尋問する臨床尋問をおこなうことを決定。
細川の体調を鑑みて、病院側からは、一度きりの尋問しか許可されなかった。

同年7月4日午前10時20分から2時間、臨床尋問を受ける。「猫400号実験」について会社側(技術部)も知っていたと証言。10月13日、肺癌のため死去。69歳没。

死後
1973年3月20日、熊本地方裁判所で患者側勝訴の判決が出る。「チッソは水俣病の原因が有機水銀と認識しながら工場排水をながしていたという過失責任がある」とし、また、裁判官は、細川の証言について言及、「発症状況を報告するのは極めて自然であり、細川に事実を曲げる必要性が毛頭ないこと。それが意味する重大性から、細川の記憶違いはない」と断定した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/細川一

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1959年7月22日、熊本大学水俣病研究班が「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」と発表
。この発表に強い衝撃を受ける。同年、日本ゼオンを退職。

1960年3月30日、新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場を訪問。事件解明を決意。同年4月、東京大学大学院応用化学専攻修士課程に入学。

1962年8月11日、宇井は、アマチュアの写真家の桑原史成を誘い、水俣工場附属病院の医師小嶋照和に取材。小嶋が中座した際に書類を接写レンズで桑原に撮影させた。それは「ネコ400号」実験の結果に基づき、酢酸工程の水銀廃液を濃度別に多数のネコに与え、水俣病になるまでの日数の違いまでも確認した追試の記録だった。

1963年3月、現代技術史研究会の『技術史研究』に富田八郎(とんだやろう)のペンネームで「水俣病」の連載を開始。連載は1967年8月の第38号まで13回にわたった。

1964年3月1日、宇井と桑原は、郷里の愛媛県大洲市に引退した水俣工場附属病院長の細川一を訪問。チッソに奉職してきた細川を困らせる気は二人にはなかった。宇井は言った。「私たちが実験データを一方的に述べますから、細川先生は黙ったままで結構です。私たちが間違っていたら『違う』とだけ言ってくださいませんか」。

二人を自宅に泊めた細川が「ネコ400号」の実験を口にしたのは翌朝だった。追試実験が終わった時点より2年も前に会社が発病を知っていたことが明かされた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/宇井純

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コメント(1)

こういう献身的な科学者のおかげで、日本の公害問題もずいぶん解決をみてきました。
国土の広い大陸の国ならともかく、日本には、自然を壊したり、人間を毒にすることはとくに許されません。これが、世界の環境問題、に低通しているのですね。

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