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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの 【色平哲郎氏からのご紹介】(岩波書店の前社長による池明観先生追悼文)

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(以下の文章は、《色平哲郎氏のオレのものはみんなのもの、みんなのものはオレのもの……。》の一節です。mixiでは長文は掲載量に制限が設定されているため、現在は長文になるものは、他の場所に転載しています。きょうはその一節に深い感銘をうけたので、こちらにその個所を掲載します。)

写真:順に色平哲郎氏・池明観氏・安江良介氏

(岩波書店の前社長による池明観先生追悼文)
【色平哲郎氏からのご紹介】

池明観先生と「世界」 

岡本厚      「世界」22年3月号

本年1月1日、池明観(チミヨングアン)・
元韓国翰林(ハルリム)大学日本学研究所長が97歳で亡くなった。氏は、本誌「世界」で1973年から88年の15年間にわたり、匿名で「韓国からの通信」を執筆し韓国の民主化に会書に大きな役割を果たしたほか、金大中(キムデジユン)政権時代には日韓関係の改善に大きく寄与した。韓国現代史の激動そのままに、激動の人生を送った。

「知識人の時代」というものがあり、それは物言えぬ民衆の代弁者として知識人が先頭に立って権力の不正や暴虐を暴き、追及し、戦う時代であったとすれば、池明観氏はそのもっとも知識人らしい知識人であった、、、

先生は歴史から考え、物事は直線的に進むものではなく、悲劇が新しい展開を準備し、逆によいと思われたことが次には悪い結果になるという歴史の逆説を説いた。たとえば、金大中氏拉致事件は、韓国の軍事政権が隣国の主権を侵しても政敵を抹殺しようとした異常な事件だが、それが日本社会に大きなインパクトを与え、日本の大衆レベルの韓国認識を大きく転換させたということなどがそれに当たる。

また1980年の光州事件は、軍が民衆に銃を向け多くを虐殺した悲劇だが、その衝撃が韓国社会の底流を変え、その後の民主化をもたらした、と先生は考えた、、、

先生は1960年代、日韓条約反対の論陣を張るなどして大学を追われ、雑誌「思想界」
主幹として軍政に抗い戦ったが、それに疲れ果てて1972年、亡命に近い形で来日された、、、

1972年は、当時の朴正煕(パクチヨンヒ)大統領が非常戒厳令を宣布し、維新体制を宣言、独裁体制を強化したときである。「韓国からの通信」は、1973年5月号から始まった、、、

韓国内においては、打ち倒されても打ち倒されても立ち上がる人びとがおり、日々、まさに息詰まるような時代であった。通信は、こうした日々を追いかけて書いた。

どのようにこの「通信」が書かれたか、長く秘密になっていたが、2003年、民主化運動の成果として成立した金大中政権が終わるのを契機に、(「世界」)編集長として私が先生にインタビューし、「世界」9月号でその実像を明らかにした、、、

(連載は)15年間続いた。
毎月50枚から60枚の原稿を書き続けた情熱にも感嘆するが、その間、多数がかかわり、
何度も危機に見舞われながら、秘密が保たれたことにも驚く。韓国軍事政権は血眼になって筆者を探していた、、、

その頃、韓国では、「世界」は禁書の扱いを受け、持っているだけで捕まるような危険な雑誌だった。しかし様々なルートで秘密に持ち込まれ、コピーにコピーを重ねて多くの人の手に渡り、読まれた。
民主化運動の一翼を担っていたある牧師は、後に「(通信は)暗闇の中の一筋の光のようだった」と語った。
「誰かが見てくれていると思うだけで救われた」と。
「通信」を読むために日本語を学び始めた学生もいた、、、

韓国から「世界」に掲載してほしいという論文や詩が届くと、載せれば必ず逮捕され拷問されると、軽々に掲載しなかった。
(編集長の)安江氏の強い責任感と池先生のヒューマニズムが堅く結ばれて「通信」は続いた、、、

「安江さんはそう言って日本人をだらしがないと言われるけれども、これだけ日本人がかかわっていて(「通信」の)秘密が漏れないということは、日本人は信義に厚いということではないですか」と言って安江氏を苦笑させたこともあった。

池先生は、1924年、平安北道定州(現在、朝鮮民主主義人民共和国)に生まれた。
成人になるまで日本の統治下だったことになる。父親が早く亡くなり、極貧といえるほどの環境で育った。貧困と強まる日本の軍国主義教育に苦しんだ。
教会と若い牧師の愛情だけだ救いだったと自伝で述べている(「境界線を超える旅」)。
「通信」は巧みな日本語で書かれているが、それはこうした事情による。日本人としては申し訳ない気持ちだが、T・K生の時代はまだ植民地支配下で育った人が多く、コミュニケーションは日本語で行なわれた。1945年の解放は小学校教師として迎えた。
1947年、自由な体制を求めて南に越境、1948年にソウル大学宗教学科に入学した。
1950年の朝鮮戦争では陸軍に徴兵され、通訳将校などとして1955年まで従軍した。
同族が殺し合う残虐な場面と、その中でも発揮されるヒューマニズムの双方を戦場で見た。

こうした現実の中で苦しみながら、アドルノ、アレント、ベンヤミン、トインビーなどを学ぶ故だろうか、先生の中で哲学者たちの言葉は、厳しい現実を解釈し直し、人びとを励まし、現実を生きていけるように導く言葉となるのである。

先生は家族を韓国内に残したまま、帰国することがかなわなくなった。それは20年に及んだ。1987年に大規模な民衆の蜂起が起き、ついに軍政が退き、直接大統領選挙が復活した。
民主化と自由化が徐々に達成されていき、それを見て先生は1993年に帰国を決断された、、、

1995年、、、「日韓シンポジウム 敗戦50年と解放50年」をソウルと東京で開催したことがある、、、それまで直接会うことのできなかった人びとが初めて会って議論しあう場となった、、、

一人がシンポジウムの中で、「自分は日本人とは和解できないと考えてきたが、70年代、80年代に韓国民主化の運動に連帯しようとする日本人がいることを知り、和解できる相手だと考えを変えた」と述べた、、、

死刑囚であった金大中氏が韓国大統領に就任したのだから、ある意味で韓国には「革命」が起こったと言っても過言ではないだろう。先生は、その「革命」の立役者の一人とも言いうる。日韓関係において新しい局面を開いた人でもある。
しかし、帰国後、とりわけ金大中政権以降、晩年の先生は深い孤独の中におられたように思う。成功したといえる民主化運動についても、「自分は現場にいなかった」という罪責感に苛まれていた。

そして知識人の時代は終わりを告げていた。民主化の後、むしろ大衆消費社会の大きな波が民主化のために戦った人びとを飲み込み、たちまち見えなくしてしまった、、、

2003年に北朝鮮を訪ね、その実態を見た衝撃もあった。偶然から、定められたルートを外れ農村に車が迷い込んだという。そこでは飢えた人びとが「ガリガリに痩せた幽鬼のような姿で」彷徨(さまよ)い歩いていた、と私に話してくれた。
あまりのショックに「ホテルに帰って倒れてしまった」と。「日本植民地支配下でもこれほど悲惨なことはなかった」と。
北朝鮮政府批判を始めた先生は、民主化グループからも孤立せざるを得なかった、、、

先生は日本の中に希望を見ようともした。柳宗悦、安倍能成、南原繁など、いかに彼らの言葉に自分が勇気づけられ、生きる糧としてきたかを語った。そして三木清を引用して、
「対象に対する強い関心、そして愛なくしては相手を知ることができない」と述べた、、、

先生には、日本への強い関心と愛があったのである。振り返って、私たち日本人には、韓国朝鮮への強い関心と愛があるであろうか。先生の生涯を追いながら、しきりに思われたのである。

コメント(2)

池先生、存じ上げませんでした。立派な親日の先生がおられたのですね。
>>[1]

私も知りませんでした。
だから「T.K生」による「韓国からの通信」を雑誌『世界』の連載で読み続け韓国の知識人か日本人かなあと思っていました。

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