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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏からのご紹介】「打抱不平」

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【色平哲郎氏からのご紹介】「打抱不平」


「敵意に満ちている」社会の中から何ゆえ、「打富済貧」を掲げる緑林の好漢や、理想社会の実現を目指す共産主義者が出現したのかについて答えるべきだろう。

中国人の指導者を何人かピックアップすれば、どこから選んでも、彼らは衆に抜きんでている
ことを特徴とする。どこかに傑出したものを持たなければ指導者ではない。そこが日本における指導者がおしなべて調停者タイプであるここと好対照をなす。

彼が素寒貧であっても、金持ちであっても、地位があろうとなかろうと、誰にも開かれている衆に抜きんでるチャンスがある。それは「打抱不平」であること、つまり他人が不公平に扱われることに我慢ができず、あれこれ世話を焼くことである。それには勇気があるか、肝っ玉が太ければ十分である。

安穏に暮らしたい家人にとって「打抱不平」な人間ほど迷惑な存在はない。なけなしの金をはたいて隣人を助けたり、顔役から言いがかりをつけられた友達に加勢したり、もめ事続きで家の者は生きた心地がしないであろう。が、それにもかかわらず、中国人の間に、この「打抱不平」な人間に対する強い憧れを見ることができる。

あなたがもし「打抱不平」な人間であり、収穫した米なり、落花生なり、大豆なりを金に換えようと市に持っていったとする。市では場所代、手数料、諸税の取り立て、秤(はかり)のごまかし、地回りの嫌がらせなど数々の困難が待ち受けている。同じように収穫物を持ち込んだ貧しい農民が、買い手に難癖をつけられひどく低い値を言われ、売るに売れず困っている。
そばで見ていた正直そうな農民が一言、二言口を挟んでも無駄であった。「打抱不平」なあなたは見て見ぬ振りはできず、思わず声をかけ、結局彼の肩を持ち、仲買人とひとしきり口論し、周りの農民たちも、そうだそうだと応援し、買い手はしぶしぶまっとうな値段をつけて引き取り一件落着となる。そのためには勿論、あなたは少しばかり議論に強くなくてはならないだろうし、相手の迫力に負けないぐらいの気迫と腕っ節が必要である。


市の帰り、あなたがた三人は居酒屋で一杯引っかけながら話し込むうちに、隣村に住み年もそれほど離れていない各々が、わずかな土地しかなく、頼る親戚もないことを知る。そこで、改めて一席設け、同じ日に生まれなかったけれども死ぬ時は一緒に、、、と誓うことになる。

これは二十年前、あるギルド論のなかで、関羽が商業の神であり、財神であることを読んで以来の疑問に答えようと、本書を書いている途中、ふと思いついた筋立てである(もっと説得的な筋立てがあるのかもしれない)。問題は市の公正さに関わっている。やはり信頼とか信用の問題なのである。市に頼り、市との取り引き、市との関わりのなかで生きていかざるをえない農民、手工業者、荷担ぎたちが、関羽をおしたて、絆を強めることによって、より公正な扱いを市から期待することができただろうからである。また、市の側が関羽を祀ることは、市に出入りする商人や農民の期待が報われるであろうことを示唆するものであった。
少なくとも、そのような期待に応える振りをしてみせることになった。

敵意や不信に満ちた世界だからこそ、「打抱不平」な人間が一目置かれたり、高い声望を勝ち得ることができる。それゆえ、少ないながらも、そのような人間に育つ輩が確実に出てくる。
現実には、周囲から迷惑がられたり、なりそこねた者たちが嘲笑されたりしても、「打抱不平」な人間の価値は失われない。

清代の会党を支えていたのは、このような「打抱不平」な人間たちであろう。民国期の共産主義者、とくに最も地下闘争の困難な時期に党に加わった農民の多くがこの種の人々であった。
皮肉なことに新中国三十年の「理想社会」はこの種の人々を一掃した。もう首が回らないほど金に困った男が党の口利きで借りようとしたところ、党はその必要なしと判断した。

困りはてた男に金を貸した元資本家は、党の政策に反対し、資本主義の復活を企てたとして批判されてしまう。また、小学校教師となった青年が誰に対しても一生懸命教えて評判となった。その結果、党と大衆の支持を争っているとして恫喝を受けた。このような話は数え切れないほどである。

国家や党中央が、飯の手当と引き替えに、個々人の心の中まで支配しようとしたシステムは破綻した。飯は自分で見つけるかわりに、善意をどう使おうとそれぞれの勝手となった。人が「打抱不平」な人間になり得る社会が少しずつ戻ってきている。が、たとえそのような社会が戻ってきたとしても、「打抱不平」な人々が明清期や民国期のように重要な役割を果たすことができるのかどうか、今のところ何とも言いようがない。もし風通しのよい社会がつくられれば、歴史という舞台における彼らの役割は相対的に小さなものになるに違いない。逆にもし、不公平で抑圧的な社会が続くとすれば、相変わらず彼らの活躍する余地が存在し続けるということになろう。

「中国革命を駆け抜けたアウトローたち 土匪と流氓の世界」


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1960年にケネディが大統領になってから、1965年2月の北爆開始まで、南ヴェトナムには2つのタイプの戦争が共存していたんです。

1つは、南ヴェトナムの山岳地帯に住む200万人にのぼる、石器時代のような生活を
している山岳部族が、平地に住んでいるいわゆる1200万人のヴェトナム人と仲が悪い
のを利用してアメリカが考えだした”特殊作戦”だった。これは対ゲリラ戦用に特別に教育された緑のベレーをかぶったアメリカ兵が、山岳部族に「ヴェトコンというのは、お前たちのきらいなヴェトナム人のことだ」と教え、武器・弾薬・食糧・お金などを援助して、アメリカ兵の代わりにたたかわせる戦争なんだ。核時代になれば、核兵器を使う戦争よりも、未来はゲリラ戦になるとケネディは考え、南ヴェトナムを大実験場として選び、実験をはじめたんです。

ゲリラ戦というのは、そこの国の人間でなければできない戦争だから、民族独立運動が起これば、それに不満をもっている人間を、アメリカの特殊部隊と呼ばれる緑のベレーをかぶった兵士が援助し、反ゲリラに育て、たたかわせるのだ。

これをやるためには、世界じゅうの民族の独立運動を起こしそうな国に派遣できる対ゲリラ戦用の部隊を、ふだんから養成しておき、民族独立運動に不満をもっているその国の連中を、アメリカが援助しようという、こういう戦争のことを”特殊戦争”というのだ。だから、簡単に言えば、アジア・アフリカ・中南米の中で、まだ独立していない国や、半植民地で、しいたげられてきた人間どうしの差別の傷を逆利用し、民族独立を押え、それによって世界の平和を保つという作戦です。これが核時代にもっともふさわしい戦争だと押し進めたのが、ケネディ大統領だった。この特殊戦争を実験するために、世界でいちばんよい条件のところが、アジアの中の南ヴェトナムだった、、、

おまけに、この山岳部族の人たちは、国勢調査で人数や名前がわかっているわけではない。
何名死んでもわからないし、世界の輿論(よろん)の批判を受ける恐れはないのだ。ここに目をつけたケネディは、ローマン・カトリック教徒だった。ぼくは、世界じゅうのキリスト教徒が、ヴェトナムでのナパーム弾や黄燐(おうりん)爆弾の使用に反対する前に、南ヴェトナムではアメリカが、共産主義者とたたかうためだといって、南ヴェトナムの山岳部族に「ヴェトコンはヴェトナム人だ」と教え、殺した死体と引き換えに、アメリカの10ドル分のヴェトナムの金を支払っていた、この事実になぜ抗議してやめさせないのか、理解に苦しむんですよ。

この特殊戦争と並行して行なわれていた平地のヴェトナム人地域でのいま一つの戦争も、アメリカの巨大な新しい核戦略体系をつくりあげるために、米軍がもう使用しなくなった1945年製までの武器の捨て場として行なわれた、ということを知っておく必要がある。これは核戦略体系の予算を国会に請求するためのカラクリで、旧式で重量が重く、対ゲリラ戦には米軍が使用しない武器を、南ヴェトナムに持ち込み、新品の価格の3分の1の値段で、対外軍事援助費に計上したのだから、ケネディ大統領はフルに南ヴェトナムを活用したと言えますね。

おまけにケネディが大統領になったとき、南ヴェトナムには、アメリカに亡命中、アイルランド系アメリカ人社会がめんどうをみていたゴ=ジン=ジェム大統領がいたのですから、彼にとってはまさに理想の軍事・政治の実験場でした。この実験の極東におけるかなめを沖縄にしたんです。

野心家のケネディとしては、アジアなら人間の命の値段も安いから、核時代のアメリカ防衛
の実験場にしたかったんでしょうね。その尻ぬぐいを、とつぜんのケネディの死によって、ジョンソン大統領がしているんだというのがぼくの考えです。


(むの)そういう特殊戦争に力を入れた大国アメリカが、どうして50万に達する兵隊を本国から小さな農業国のヴェトナムに送らなければならなくなったのか。そこに私たち日本人がくみとらなければならない大きな教訓がありそうですね。


北爆と海兵隊

ケネディのとつぜんの死によって、ヴェトナム戦争を処理する責任者となったジョンソン大統領は、おそらく北爆をすれば一気に、政治交渉にホー=チ=ミンを引き出せるとふんだから
北爆したんだ、とぼくは思います、、、
1965年2月、北爆が開始されたきっかけは、南ヴェトナム戦争にとって大きな質の転換を
意味しました。

それは北爆のことではありませんよ。北爆のきっかけの話ですよ。それはプレクー(Pleiku)という基地の飛行場が民族戦線の攻撃で壊滅状態になったからです。そのいきさつはこうです。
プレクーには、アメリカの特殊部隊の重要な基地があり、南ヴェトナムのジャングル地帯に
網の目のような情報網を張りめぐらしていたのです。そのジャングル地帯こそ、ケネディの自慢の特殊戦争の大実験場でした。

ところが民族戦線のゲリラは、、、(1965年2月7日早朝)キャンプ・ホロウェイ
(Camp Holloway)という基地と飛行場を壊滅させてしまったんです、、、この敗北は4年間にわたって行なってきたアメリカの特殊部隊の誇る特殊戦争が、民族戦線には効果がないことを実証したことだとぼくは思います。

アメリカは、1つは特殊戦争の敗北から目をそらさすために、1つは機会をねらっていた北爆
を実行して、一気に北ヴェトナムを和平交渉の舞台にひきずりだすために、エスカレートしたのだと思います、、、
たとえて言えば弟とけんかしているアメリカが、いきなり北ヴェトナムというにいさんの頭をたたき、「弟を連れて話をつけにこい。さもないと家をみんな焼いちゃうぞ」と言ったようなものです。そして、北ヴェトナムの軍隊が南に援助にはいれないように、17度線の南の艦砲射撃で援護できる地域に、海兵隊の大軍を送り込んだ。これはアメリカの政策がケネディのときよりも一歩後退したことを意味します。


核戦争時代の花形は特殊部隊で、海兵隊はその誇りある椅子(いす)を特殊部隊に譲りわたしたと考えられていました。しかし、差別を利用し、同国人同士でたたかわせるというケネディのお得意の特殊戦争では、民族独立戦争が弾圧できないとわかると、アメリカは悪名高い海兵隊を登場させたのです。日本では海兵隊というと、陸戦隊くらいにしか思っていないが、海兵隊こそ、アメリカの権力のシンボルであり、アメリカの歴史を切り開いてきたのはすべて海兵隊だったのです。海兵隊の本には、このアメリカの海兵隊のことを「アメリカ外交のカミソリの刃だ」と書いてあります。また宣戦布告しないで大統領が使える、最強の軍隊です。

ところが、北爆をすれば必ずホー=チ=ミンが出てきて、「家が焼かれては困るから、弟を連れて交渉にきました」とでも言うと思っていたら、「こんな不当なことをするんなら、兄弟いっしょに死ぬまでたたかう」ということになったので、アメリカは当てがはずれ、なんとかして和平交渉にひきずりだそうと「指を3本切るぞ、耳をそぐぞ」「目玉をえぐるぞ、鼻を切り落とすぞ」というようにわざと残虐な方法をとり、パイナップル爆弾を使ったり、ボール爆弾を使ったりしていじめました。

もし本気で北ヴェトナムを爆撃する気なら、アメリカは10時間もかからないで地上にある建造物は全部こわしてしまう力を持っています。だが、目的は和平交渉ですから、少しずついじめていく方法をとったんです。でも、効果がありませんでした。それよりも逆に重大なことが起こりました。北ヴェトナム軍と民族戦線の部隊は17度線の南の米海兵隊を専門に攻撃しはじめたんです。

海兵隊というのは、上陸作戦用の軍隊ですから陣地戦に弱い。おまけにアメリカ兵は1年間の期限できている連中です。この米海兵隊員は、自分が世界で最強だと信じています。これは裏返せば大きな欠点で、北ヴェトナムと民族戦線は、この誇り高き退却することをしない海兵隊を艦砲射撃のとどかない、ケサン(Khe Sanh)基地のようなラオス国境地帯にひきずりこみました。この幾つかの弱点が徹底してねらわれ、アメリカの海兵隊の歴史はじまって以来、はじめて大きな敗北をする結果となったんです。

アメリカでは、これが大問題になった。
なぜなら、「アメリカには不可能なことはない」とアメリカ人に信じこませていた、その
精神の背骨は、じつは海兵隊だったからです。海兵隊にも負ける戦争があるんだということがわかったとき、はじめてアメリカは和平に一歩近づかざるをえなくなるというのが、民民族戦線の考えかたのようです。アメリカの海兵隊がひとり死ぬことは、他のアメリカ兵が3名死ぬのと同じだけの軍事上の損失です。彼らがやられれば、戦術核兵器しかない、、、


(むの)侵略者はいろいろちがったことをやっているようにみえて、しょせん過去のどうどう
めぐりです。ヴェトナム戦争の経過をみつめるとき、あの太平洋戦争における日本軍のたどった道を知っている者なら、だれでもアメリカがいま大日本帝国と同じわだちのなかでもがいている、その不思議な一致に胸をえぐられるはずだ、、、

(むの)ヴェトナムの民衆の、アメリカ海兵隊に対する集中的な攻撃の意味をいま知って、
私はギリシャ神話を思い出しました、、、ヴェトナムの民衆が自分とは比較にならぬほどの巨大な破壊力を持った敵のアキレス腱がどこであるかを知り、そこにあやまたず矢を射こむことができるのはなぜか、、、


人類が核時代という未知の時代に立ちむかったとき、世界で最初に核エネルギーを開発した
アメリカという国の大統領として、ケネディがしたことは、世界のまだ独立していない民族内部のあらゆる差別を全部利用し、それによってアメリカ中心の世界平和をつくろうという、
ひどく矛盾したものでした。ケネディ自身が自分は世界の消防夫だと言っているが、マッチ・ポンプという手口では、新しい世界を切り開くことにはなり得ようはずがなかった。

ケネディが考え出した差別による世界平和というおかしげな特殊戦争は、アジアの民族解放
のたたかいの前にくずれさった。核時代の未来はもはや差別をいかにしてなくすか、という人類の大問題にかかってきたのだ。

「1968年」 むのたけじ・岡村昭彦


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釜山ではソウルからのテレビは受像できない。写るのは日本のテレビばかりだ。それをみるときだけ、S君は日本語を忘れずにおけばよかった、と思うという。
彼も昔は日本語ができた。しかし、忘れよう、忘れよう、と一生懸命に努力して、やっと忘れてしまうことができたと語った。日本人は一つでも外国語を覚えようと一生懸命になっている。だが、それとは反対に、一つの外国語を忘れようとして苦悶している民族もあるのだ、、、

「わたしは16の年から日本人に、いつもゲンコ、ゲンコで使われてきたのよ。
船長の免許は日本でとったんだが、日本では底曳のもうけが大きいから、ぜったいに朝鮮人にはやらせなかったものよ」

「今年、1月15日のことよ。
この小黒山島にちかい万歳島の内側の禁漁区で、日本の漁船が2隻、網を入れているのを、このわたしがみつけたよ。その1隻の船名はこの船の航海日誌にもつけてあるが、この禁漁区は、たとえ韓国船でも警備艇につかまえられてしまうところよ。
時間もまだ午後の明るいときときている。あまりにあつかましいから、禁漁区をでろといってやった。すみませんと答えたよ。だけど、答えただけ。反対におなじ仲間の日本漁船が10隻も入ってきて、このわたしの目のまえで、平気で網を入れるじゃないか。こうまでバカにされて、だまって見逃しできるかね」

「たとえ昼のあいだだけは李ラインの外で網をひいていても、夜になると、いっせいに電気を消し、航海灯もつけずに禁漁区に入ってくるのさ。日本の船団はレーダーが完備しておるし、禁漁区で漁をすれば、とれるにきまっているよ」

「こんなことをあんたみたいな若い者にいうのは気の毒だが、あんたたちがいまに日本の国をまかなうようになるのだから、よーくきいておきなさいよ」

「日本が朝鮮を思うままにしておったころのことよ。日本は世界中の国と戦争をして、どんどん旗色が悪くなってくる。そこで朝鮮の娘たちも、20歳になると、報国隊になってでることになった。ところが、このたくさんの娘たちは、日本の工場で働くのではなくて、じっさいには満州や南方につれてゆかれ、むりやり日本軍のパンパンにさせられたのよ。戦争がおわって、どうやらまあぶじに生きて帰ってきた者もたくさんあるが、もう二度としあわせはとりもどせない」

「そのころのことは、忘れろといっても、忘れられないことがいっぱいあるよ。こんなことは、いまの年とった日本の政治家は、よく知っていることよ。自分の手でやったことだからね」

「もう、ほんとうに魚がとれなくなってしまいましたよ。わたしも、もう今年きりで船乗りはやめますよ」

「日本船だよーう!トロール船が2隻、底曳船が16隻以上いるよーう!」

「あれだからかなわないよ。日本船はこちらの真正面から網を曳いてくる。やつらは潮にさからって、平気で網が曳けるんだ」

「どけどけ!
ここは韓国の海だ!
平和線のそとにでろ!」

「南ヴェトナム戦争従軍記」岡村昭彦

コメント(1)

今の日本の政治家、とくに、自民党の中に、「打抱不平」で肝っ玉の据わった政治家って、いるかな?
村上誠一郎くらいか・・・野党の若手にはいるだろうが、、、

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