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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】「佐久総合病院の礎を築いたのは女性たちだった」

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【色平哲郎氏のご紹介】「佐久総合病院の礎を築いたのは女性たちだった」


「あれ、毛がぬけるぞ!」居合せたみんなで引っぱってみた。持っただけゴッソリぬけてくるが根がついていない、、、明日は入港だというのに、左の耳の根元から二寸ぐらい上は、みんなに引っぱられて大きくはげてしまった、、、
「さてはあの灰か?」
しかしまだ真剣に考える者もなく、若い者たちは「いいかっぷくの坊主ができるぞ」とムダ口をたたき大声で笑っている者すらあった。(絶筆)

1954年「中央公論」11月号  死の床にて==久保山愛吉

(第五福竜丸は被曝後、救難信号 (SOS) を発することなくほかの数百隻の漁船同様に自力で
焼津漁港に帰港した。これは、船員が実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈
されることを恐れていたためであるともいわれている)

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> 佐久地域の健康を守るパワーは、火付け役は若月青年医師と職員さん、動かす力は女性たち!
本当にいいお話です!命を生み出す女性は、命を守るために行動します!

> いい話ですね。私もそのビデオ是非みたい。

> よく取り上げてくださいました!絶賛!わたしたち2月には、丸岡秀子さんのDVD ひとすじの道 を観ますよ。よいお年を。

> 「納得!」のエピソードのご紹介、ありがとうございました。
日本社会の立て直しは、ここからだ、ということを改めて実感します。コロナ不況は女性不況、と言われながら、コロナ禍対策が、本当に困っている女性や子どもの使い勝手をまったく無視して進められているという現実は、「女性による女性のための相談会」などで相談を担当して一段と実感しています。

ジェンダー平等や男女平等を上滑りの耳に心地よいスローガンに終わらせないため、こうした女性たちの悩みや取り組みを真摯に報じ、共有していくことが必要なのだという力を、ご投稿からいただきました。

> 大変興味深い、また若月先生ならではのエピソード、年末に明るい話題をありがとうございました。
今回の総選挙でも女性議員当選者は9.7%と、前回を下回り、「候補者均等法」以後初の選挙結果に残念を通り越して、道遠しを実感しています。コロナ禍で可視化した「日本のジェンダー不平等」も然り。来年もジェンダー平等、女性議員を増やす活動を続けてまいりますので、またご指導方、よろしくお願いいたします。どうぞご自愛くださり、良いお年をお迎えください。

> 上からの民主化でなく、地域に住まう女性たちが、力を合わせて自分たちの地域を変えていったのは、素晴らしいですね。「責任ある自由」という言葉が印象に残りました。
責任の伴わない放逸な言葉があふれているネット空間を見ると、当時の社会がまぶしくさえ思えます。今年も残りわずかとなりました。どうぞよいお年をお迎えくださいますよう。

> 紹介ありがとうございます。素晴らしい話です。
山形映画祭で上映されたとありました。見たかった。
今見ても、そうだと頷く話では無いのか。

> 腰のまがる話 Bent with the Years
> ------------------------------
> 1949/日本語/モノクロ/ビデオ(原版:35mm)/19分
> *監督、脚本:*桑野茂、庵原周一 *撮影:*中村誠二
> *製作会社:*日本映画社 *提供:*徳島県立文書館
>
> 山深い信州で、生活改善に取り組む農協婦人部の女性たちの姿を描く劇仕立ての映画。
> ひたすら酷使される農村の女性。
> 主人公である婦人の取り組みにはじめは耳を貸さなかった夫も、次第に活動に理解を示しはじめる……。
> 戦後の民主主義社会は女性が変えるのだ!
> そんな熱い叫びがスクリーンから伝わってくる。


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187 佐久病院の礎を築いた「明るい」女性たち
日経メディカル 2021年12月29日 色平哲郎

「佐久総合病院の礎を築いたのは女性たちだった」と言うと唐突に聞こえるだろうか。
佐久病院は、戦時下の1944年1月に誕生した。翌年3月に東京大学医学部付属病院分院の外科から若月俊一先生が赴任してくる。「遅れた貧しい」農山村に降り立った若月先生は、患者の家族に手術を見せて「恐怖」を取り除いた。演劇で公衆衛生を説き、出張診療で「農民の中へ」入り、農村医療の近代化を成し遂げた、といった文脈で語られがちだ。

もちろん間違ってはいないのだが、若月先生の医療運動を支えたのは、実は村の女性たちだったことが、このほど『腰のまがる話(Bent with the Years)』というGHQ(連合国最高司令官総司令部)民間情報教育局が1949年に制作した映画の複写を見てよくわかった。提供してくださったのは徳島県立文書館(徳島市)。

戦後、日本を占領統治していたGHQは、敗戦国の民衆を「教育」する映画を盛んにつくっている。これらは、使用したNational Company製映写機の略から「ナトコ映画」と呼ばれた。
『腰のまがる話』は、19分ほどのモノクロ映画で、信州の農家が舞台だ。

ある夜、祖母が孫娘に、村のおばあさんたちの腰が曲がっているのは、「あっちにペコペコ、こっちにペコペコ」お辞儀ばかりして男に追従して生きているからだと語りかける。
しまいには「病気にまでペコリ」。ここで孫娘が大病をした場面が追想シーンとして入る。

高熱を出して横たわる孫娘。若い母親はわが子を医者に診せたい。 しかし、父親は「どこにそんな金があるんだ。女房は亭主の言うようにやればいいんだ」と拒み、祈祷師を呼ぶ。
部屋の壁に「病魔退散」の紙が貼られ、祈祷師は護摩を焚いて呪文を唱える。
父親と家族、近所の人たちも祈祷師と一緒に呪文を唱えるが、とうとう孫娘は高熱のあまり、
気を失う。若い母親は、わが子を背負うと一心不乱に駆け出した。向かった先は「佐久病院」の看板がかかった建物だ。

生前、若月先生は、GHQの「民主化」教育の意図を知り、映画づくりに協力したと語っていた。若月先生がモデルらしき男性医師は、母親と、付き添って入院のサポートをする女性たちにこう語りかける。

「こんな病気はね、初めに診てもらえばすぐに治るんだ。
それにかえって金もかからなくて済むだろう。
子どもの病気のことは男だけに任せておいてはダメ。
女がやらなきゃ。
それも女がみんな力を合わせてやらなゃ。
いつも言うように、村の農業協同組合に診療所をつくりなさい。
それまでは保健婦さんを置くんだ。
みんなペコペコしないで、、、」

やがて孫娘は全快し、女性たちが引くリヤカーに乗せられて帰っていく。村の女性たちは、農業協同組合の寄り合いを開き、「婦人部」をつくることを話し合う。ここで若い母親が言った。

「あたし、いままで意気地なしで、女はみんな意気地なしだと思っとりました。だけど、こんどは女だって一緒になりゃ、力を合わせりゃ、意気地なしでなくなることが、わかりました。
これからはけっして男の人に負けません」

農協の男性職員は不機嫌な顔つきで聞いている。
だが、目覚めた女性たちは意気軒高だ。
「田植えや稲刈りのときの共同託児所や共同炊事所をやろう」
「地域にまず保健婦さんを置いてほしい」と燃える。
ペコペコしなくなった女性たちは、歳をとってももう腰は曲がらなくなる、と祖母は孫娘に教え諭す、、、


探訪記に描かれた当時の熱気

映画には農村の「民主化」を進めたいGHQの意図が込められており、割り引いて見る必要があるが、単なるフィクションではない。実は、同じころに「佐久病院をたずねて」というルポが『科学と技術』(1948年8月1日号)に掲載されている。佐久病院で働く女性たちは、とにかく明るい。

「、、、それ(明るさ)は、ここじゃあ、男と女の差別をしないっていうところにあるんじゃないかな。おふろなんかへ入るときでも、この辺じゃ男の人がさきにはいるのがふつうなのに、院長さんにきいてみたら男だって女だってちがわないっていうんだよ」と女性の理容師。当時は、患者さんのために理容師が病院に入っていた。

「ほんとうに自由ですねえ。
自由といってもへんな意味じゃなくって、責任ある自由」と看護師。
伸び伸びとした空気の中で、佐久病院従業員が全員加入する「婦人民主同盟」は、「農村に託児所をつくれ」というスローガンを掲げ、役場を動かして実現させている。地元小学校のスペースが託児所に充てられた。
ルポはこう記す。

「60人あまりの子供たちが、紫の山々にかこまれたひろびろとした校庭の一隅、
青い葉のゆれる柿木の蔭で、がやがやとあつまっている。女子青年団や病院の同志や、保母さんたちの演ずる紙芝居である。テーブルのうえには、ふけたてのおやつのじゃがいもが、木のばけつのなかにほかほかしている」(注:旧仮名遣いは現代仮名遣いで表記)

ジェンダー平等が叫ばれる現在、『腰のまがる話』を見たり、佐久病院探訪記を読むと、少しも古さを感じない。今と全く同じテーマがそこにある。ということは、「相変わらず、男社会」ということでもあろうか。

https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202112/573367.html


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立身出世という言葉は、、、明治のころは強力な思想で、直接それを鼓吹した本に、「西国立志編」というサミュエル・スマイルズの「セルフ・ヘルプ」(1867年)の翻訳本がありますね(中村正直訳、1870年刊)、、、
あれはもとの本を読むと、第一章に強烈な民主主義論が書いてあるのですね。まず民主主義の原論から説きはじめて、民主主義はモナーキー(独裁制)と決定的に対立するものであり、セルフ・ヘルプの立場に立つものはモナーキーと力で争わなければならないと書いてある、、、
そのなかで、最初の序論をカットして、逸話の部分でも誰からも助けてもらわなかったということはカットして、ただ彼はひたすらに向上したということにして、修身の教科書にはめこむというコースをたどっている。ところが、明治初期の人はもとの翻訳をまるごと読めたわけです。
あの本はかなり長い間ベストセラーだった、、、それがだんだんもとの形で読む人が少なくなってくる。そして修身教科書の例話のイメージだけで育った世代、明治の途中で生まれた
明治後期の人たちになると、最初の議論は忘れられて、ただひたすらに努力して偉くなればいいという、われわれがふつう使う悪い意味での立身出世主義になってしまったんじゃないでしょうか。

佐藤忠男・京極純一著「学校と世間」 進学文明を超えるもの 中公新書


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日本で初めて女優が映画に出た大正7年前後に、日本で初めてバスの女車掌があらわれるし、
産児制限運動の世界的な指導者だったサンガー夫人がやってくるとか、続々とそういうことがあって、大正半ばは大きな転機ですね。

佐藤忠男・京極純一著「学校と世間」 進学文明を超えるもの 中公新書


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昭和10年を例にする。かの有名な旧制高校は全国でたった32校、全学生数は1万7895人に過ぎなかった。文字通り全国から選ばれたエリートの巣。卒業すれば、旧制大学、当時のいくつかの帝国大学にたいした競争試験もなく進学する。そして末は博士か大臣かーー高級官僚、経営者、学者など日本の指導者の椅子が保証されていた。

受験や就職の心配のない青春が楽しくなかったらおかしいし、エリートを集めた学校がすぐれた教育をできなかったら不思議な話になる。しかしその影には、ちょっと能力が足りなかったり、学資の出所がなかったために、無念の涙をのんで”特権の座”にすわれなかった青年たちがいっぱいいた。また、女子には門戸(もんこ)すら開かれていなかった。

そしてこれらの特権の座の出身者は、社会の特権の座を占めていった。そして侵略戦争を準備していった。こんな差別を公式化した旧制高校が、ほんとにすばらしかったといえるのだろうか。

「戦後の学生運動・わが独白」梁谷朗  「青春」私のアンソロジー 松田道雄・編集解説


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1945年になると佐渡鉱業所では銅採掘の実績が上がらず、朝鮮人労働者は過剰となった。

このため、同年8月に第一次挺身隊として189名を埼玉県に、第二次挺身隊として219名を福島県に、計408名を佐渡鉱山から派遣した。福島県組は福島市内の信夫山の中腹を削って、約3万3000m2の耐弾地下工場(福島工場)を・設する工事に従事した。ここで中島飛行機会社のエンジンを月300台生産する計画だった。福島工場の建設工事は「全国鉱山特別挺身隊」によって行われたという。埼玉県組は削岩機を持って行った組が多かったという。埼玉県内の地下工場は中島飛行機会社の吉松工場と日立航空機会社の八島工場の二ヶ所、軍の地下施設は四ヶ所があるが、佐渡鉱業所の朝鮮人労働者がどの工事に従事したのかは特定できない。

https://cc.nuis.ac.jp/library/files/kiyou/vol03/3_hirose.pdf
佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)


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べつにパトリオティズムというものがあるが、あやまって「愛国心」とか「愛国主義」
と訳されているこの言葉に、ほんらい「国家主義」の意味はない。パトリ patri はもともと「郷土」や「生まれ故郷」のことであり、パトリオティズムとは「郷土愛」のことにすぎない。

(注)ダメ押しをしておけば、「郷土」もまた「もうひとつの想像の共同体」にほかならない。

愛国心が郷土愛の同心円的な延長にあると見なすのは、「郷土」を「国家」と連続させたい欲望ーーもっとありていに言えば「陰謀」ーーの結果にほかならない。人為的につくられた「国家」とーー「国家」はすべて人為的につくられたものだがーー「郷土」とのあいだには断絶がある。
たとえばイタリア人のパトリオティズムとは徹頭徹尾「地方愛」であって、「愛国主義」
とのあいだには何の関係もない。彼らには「国民意識」があるかどうかさえ、あやしい。
だからこそパトリオティズムをナショナリズムへと回路づけようとするあの手この手に、
国家の側はやっきになるのだ。

上野千鶴子「ナショナリズムとジェンダー」 青土社


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コメント(2)

小さな町に、殿様を祀った神社があるが、戦前まで「軍神」として、お祭りされていた。
これなど、もともと地方の武士が殿様の先祖をお祭りしただけの氏神さんなのだが、戦前、
愛国のために、軍神として利用された典型だろう。各地に、こういう神社があり、愛国心の
高揚に利用された。
>>[1]
具体的な歴史の重みをご提示してくださって有難うございます。

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