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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【孫崎享のつぶやき】 歴史:1895年10月8日

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【孫崎享のつぶやき】
歴史:1895年10月8日三浦梧楼らの計画で宮に乱入した日本公使館守備隊らが、閔妃暗殺。ただ実行犯等については様々な見解。この状況下、現地の領事官補が友人に宛てた手紙で。自分達が「奥御殿に達し、王妃を弑し申候」と記載したものが発掘される。


A-1[外交官「王妃殺した」と手紙に 126年前の閔妃暗殺事件で新資料](朝日新聞)

1895(明治28)年10月8日、日本の軍人らが朝鮮王妃を殺害した「閔妃暗殺事件」で、実行グループの一員だった外交官が、事件翌日に郷里の親友に宛てたとみられる書簡が見つかった。「自分たちが王妃を殺した」と経緯が詳しく記されており、研究者は「事件の詳細を解き明かす貴重な資料」としている。

 書簡の差出人は、現地の領事官補だった堀口九万一(くまいち)(1865〜1945)。郷里、新潟県中通村(現・長岡市)の親友で漢学者の武石貞松に宛てた、1894年11月17日付から事件直後の95年10月18日付の計8通が見つかった。

手紙がもともと保管されていたとされる場所や記されていた内容、消印、封書の作りなどから、本人の真筆とみられる。

 8通のうち6番目の書簡は、事件翌日の同年10月9日付で、現場で自分がとった行動を詳細に記していた。王宮に押し入った者のうち「進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸(ようや)く奥御殿に達し、王妃を弑(しい)し申候(もうしそうろう)」(原文はひらがなとカタカナ交じりの旧字体。以下同)と、王宮の奥まで押し入り、閔妃を殺したことを打ち明けた。「存外容易にして、却(かえっ)てあっけに取られ申候」と、感想まで添えていた。

B: 乙未事変(いつびじへん)(ウィキペディア)

乙未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった 明成皇后(閔妃)が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本公使館守備隊[1]、公使館警察官、日本人壮士(大陸浪人)ら日本人、朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使、高宗の父である興宣大院君派ら反明成皇后朝鮮人の共同で暗殺された事件。

日清戦争は日本が勝利し、1895年4月17日、下関条約が締結された。その結果、朝鮮は清からの独立を果たしたが、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、甲午改革によって政権を追われていた閔妃とその一族はロシア公使カール・イバノビッチ・ヴェーバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、1895年7月6日に政権を奪回した[5]。下関条約からまだ3か月も経過していなかった。

日清戦争直後にロシア軍の力を背景に行った閔妃勢力のクーデターは、大院君や開化派勢力、日本との対立を決定的にした。こうした中で、日本公使三浦梧楼、軍事顧問岡本柳之助らは前年の王宮占領の再現を狙って、親露派の閔妃を排除するクーデターを実行することにしたとされる

追加;ブログより

「国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼らを召還し、裁判にかけたが、証拠不十分で無罪となった。朝鮮の金弘集内閣は日本の圧力を受け、事件の解明を行おうとしなかったために民衆の反日感情は強まり、1896年1月、王妃である閔妃の殺害に憤激して「国母復讐」を掲げ、最初の反日武装闘争である義兵闘争が起きる。日本兵を含む政府軍が義兵鎮圧に向かい、首都の防備が手薄になったすきに、親露派はクーデタを起こし、高宗をひそかにロシア公使館に移し、金弘集政権を倒して親露派政権を樹立した(2月)。閔妃暗殺事件は結局日本に有利な状況を作り出すことはできず、その後、ロシアはさらに朝鮮への影響力を強め、日本との対立が深刻化して日露戦争へと向かっていく。」


コメント(1)

文民統制ができない戦前、このようにして、結局の敗戦である、太平洋戦争まで突き進んだのですね。

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