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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】「16歳の若い娘の青春をダメにしておきながら、なにもなかったと言えるのか」

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「焦点」 元従軍慰安婦 悲痛な訴え 松代 

問われる地方のかかわり  信濃毎日新聞 1992年8月27日  

松代大本営地下ごう跡が残る長野市松代町で25日夜、戦時中の従軍慰安婦の体験を証言した
韓国人女性二人は26日、名古屋市で開く同様の集会に出席するため松代を後にした。
二人が松代に残した悲痛な訴えは、改めて日本の加害責任や戦後処理のあり方を問うている。
国による補償や謝罪が議論される一方で、地方からはどうかかわればいいのか。
「国の問題」として距離を置き続ける行政も含めて、大本営跡という”平和への教材”
を持つ県民が負った課題は重く、大きい。


「証言」   残る拷問の傷跡  青春を奪われ、、、

「抵抗したら、日本人経営者に電話線で両手首を縛られ、電気拷問を受けた」。
その傷跡が今も残る。
連行され行き着いた台湾の朝鮮人慰安所。
16歳で日本人軍人を相手に働かされたという李容洙(リ・ヨンス)さん(63)は
25日夜、「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳(は)せ、心に刻む集会・松代」で涙を流しながら訴えた。

「性病にかかっても経営者に殴られるのが怖くて何も言えなかった」
「戦後、実家に戻ると家族が私の葬式の準備をしていた」

松代町の朝鮮人慰安所で働かされた可能性を示唆した姜徳景(カン・ドッキョン)さん(63)。
「若過ぎて、何をされているのか分からないほどだった。
多い日は何人か分からないぐらい。
悲しくて隅っこでうずくまる癖は今もある」。
26日、記憶をたどろうと見て回った町内西条の朝鮮人慰安所跡地周辺でも、座り込む場面があった。

「私たちが犠牲にならなければ日本人女性が犠牲になった。
日本政府が誠実な謝罪、補償するよう、助けてください」。
青春を奪われ、今も背負わされた過去の重さにもがき苦しむ声が響いた。


「参加者」   平和の教材持つ  地元関心もっと

証言を前に、実行委が最も心配していたのは「地元の人が、集会にどれだけ来てくれるか」だった。
大本営地下ごう跡を持つ地元が集会をどう支えるかは、県下の取り組みを測るバロメーターともなるからだ。

集会前、実行委は松代町全域にチラシ8000枚を配った。が、反応はまったくなかった。
実行委が26日に参加者名簿を確認したところ、全体の参加者約300人のうち、松代の住民は約20人。「思ったより多くの人が来てくれた。
自分自身は母を連れてこれなかったのが残念だったけど」と、実行委員で地元に住む会社員柳沢隆夫さん(30)。

参加者の反応はー。

市内篠ノ井の農業萩原継之助さん(72)。
「慰安婦問題の裏と表をきちんと知りたいと思って参加した。
長野の人がもっといていいはずだが、、、」

高校時代を松代で過ごした更埴市の養護教員春日宏さん(33)。
「地下ごう問題を先生に聞いても何も教えてくれなかった。
集会を開いたこと自体が大きな前進だと思う。
僕らの世代が証言を生かすのは、戦争責任というより結婚など日常生活で外国人への差別をなくしていくことではないか」


「課題」   問題意識高めて  行政動かす必要

「上司に報告します」。
集会実行委員会は26日、松代の慰安所などの実態調査について行政の取り組みも求めた
25日の集会宣言を県、長野市に伝えた。応対した県、市の職員は同じ答えを返した。

慰安所の保存を含め、従軍慰安婦問題への県の姿勢は既に明確だ。
「国がまず考える問題」(3月県会答弁)。市も同様。
市民グループ側との距離は遠い。

「松代・朝鮮人慰安婦を考える会」の小池知子さん(39)=長野市在住=は「昨年末発足したが、実働会員は10人足らず。地元の問題意識を高めていきたいけど、まだまだ」と話す。

解体保存してある慰安所建物を復元するため、東京を本拠に募金活動を続ける「松代・朝鮮人『慰安婦』の家を残そう実行委員会」。
慰安所を松代で国有地に修復するのが目標だが、県も市も支援の姿勢をみせない。

元慰安婦が過去を告白した集会は、改めて日本の戦後責任を考えさせた。
一方で、栃木県足利市から訪れた大学教授、中込道夫さん(66)は「元慰安婦の気持ちにこたえるためどうすればいいのかとなると、一人の日本人としては心が重い」と戸惑いも見せた。

女性史家の鈴木裕子さんは「無責任な態度をとり続ける日本政府を変えるには、日本人一人ひとりが問題意識を高めるしかない」と指摘する。


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元従軍慰安婦 悲痛な叫び 松代の集会 韓国人二人 証言に静まる聴衆
  
朝日新聞 長野県版 1992年8月27日

「16歳の若い娘の青春をダメにしておきながら、なにもなかったと言えるのか」
「日本政府は、わたしたちが死んでから謝罪するつもりなのか」ーー。
元慰安婦の叫びに、約300人の市民で埋まった会場は水を打ったように静まり返った。
25日夜、長野市松代で開かれた集会で「従軍慰安婦」として台湾や日本で、日本軍人らの相手をさせられた経験を持つ二人の韓国人女性が、当時の様子を語った。


今回証言をしたのは、李容洙(リ・ヨンス)さん(63)と姜徳景(カン・ドッキョ)さん(63)。二人は、民族衣装のチマチョゴリに身を包んで会場のサンホールマツシロに姿を見せた。二人とも、「慰安婦生活」の影響で不自由になった体を抱えたまま、過去を周囲に隠して戦後を生きてきたが、日本政府の態度を何とかしなければ、と発言を決意したという。

李さんは「16歳のとき、母親の友人から『いい物を食べさせ、いい服を着せてくれるところに養女にいかないか』と誘われ、5人の娘たちと一緒に汽車に乗せられた。
窓から自分の家が見えたので『お母さん』といって泣きました」と、連れ出されたときの様子を語った。
その後、当時の満州の大連から船に乗せられて、台湾に向かったという。

李さんはさらに「台湾では、主に特攻隊員の相手をさせられました。
最初抵抗したところ、日本人の主人が私の手首に電線を巻いて、電気拷問をしました。
傷は今も残り、体も不自由が残っています」
「毎日3、4人、多いときは5、6人の相手をさせられました。
空襲で建物が壊れたときは、田んぼでも野原でも、所かまわず兵隊たちの相手をしなければなりませんでした。
しまいには性病にかかりましたが、断るとたたかれたり拷問されるので、それが怖くて兵隊たちの相手を続けなければなりませんでした」と証言を続けた。

最後に、涙を浮かべながら「日本政府はなぜ認めようとしないのか。まごころからの謝罪と償いを求めます」と繰り返し叫ぶと、周囲の人に抱えられながら、イスに倒れ込んだ。

一方、姜さんは「私は先生に勧められて、150人の女性とともに『天皇陛下のために勤労奉仕に行く』という決意文を読んでから、勤労挺身(ていしん)隊として、日本の富山県に連れて行かれ、初めは工場で旋盤を動かす仕事をしていました」と、日本に来たきっかけを話した。
その後、仕事の厳しさと粗末な食事に耐えかねて、鉄条網を乗り越えて逃げ出したところ、通りかかった日本軍のトラックにつかまって連れて行かれる途中に軍人から暴行を受けたという。数えで15歳の姜さんは、何をされたのか理解できなかった。

その後、慰安婦として「1日多いときは10人。土、日には何人だかわからない人たち」に犯されたという。「当時のなごりで、今も一人でいるときには部屋の隅でうずくまるようになってしまいました」と姜さんは話す。
場所については「松の字のつく地名だったが、松代だったかどうかははっきり分からない」
という。

姜さんは「私は日本の国民のみなさんに恨みを持っていません。
ただ、日本に償ってもらいたい。もし私たちが犠牲にならなかったら、若いみなさんのお母さん、おばあさんが犠牲にならなかったとだれが言えるでしょうか」と、話を締めくくった。


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コメント(1)

日本政府は、彼女たちの証言を、嘘だ!と言いとおすのだろうか???

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