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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 IOC委員は小誌に「菅が中止を求めても案開催する」週刊文春デジタル後半

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――日本の世論調査では今夏の開催に八割が否定的だ。
「昨年三月、延期は一度と日本が述べたのだから、延期の選択肢はテーブル上に存在しない。
日本国民の多くが開催に否定的な意見であるのは、残念なこと、、、
――日本の首相が中止を決めた場合はどうするか。
「五輪は絶対に開催する。それが私たちIOCの仕事だ。
私の知る限り、日本政府は開催を支持しているが、仮に菅首相が『中止』を求めたとしても、
それはあくまで個人的な意見に過ぎない。
大会は開催される」

パレスホテルのスイートで終始滑らかな口調で、三十分間の取材をそう締め括ったIOCの重鎮、パウンド氏。
五輪開催の可否を巡って日本には一切決定権はないどころか、中止や延期を求めても無駄
だと言っているに等しいのだった。
https://bit.ly/2QYLsoS
「天皇に会わせろ」
バッハよ、何様だ 
IOC委員は小誌に「菅が中止を求めても開催する」週刊文春デジタル 
2021-05-27 05:00
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「実は、ICT教育によって学力が上がるという研究結果はほとんどありません。
IT企業が宣伝用に使っている小規模な調査データはありますが、『未来の教育はICTだ』というイメージが先行しているのが現状です。
一番信頼できるデータは、国際学習到達度調査(PISA)の調査委員会が2015年にまとめた
報告書です」
「学校でパソコンを全く使わないよりは、適度に使った生徒の方が成績はいいのですが、
使う時間が長くなればなるほど読解力も数学の学力の点数も下がっています=グラフ。
コンピューター上で答える形式のテストを受けていても、紙のテストを受けていても、同じ傾向です」

「PISAテストを中心的に担ってきたOECD(経済協力開発機構)のアンドレアス・シュライヒャー教育・スキル局長は、コンピューターは情報や知識の獲得や、浅い理解には有効だが、
その知識や情報を活用する深い思考や探究的な学びにはつながらないと解釈しています」
https://bit.ly/3fV4hlc
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戦前、私はニューヨークでヘレン・ケラー(1880 - 1968)に会った。
私が大学生であると知ると、「私は大学でたくさんのことを学んだが、そのあとたくさん、学びほぐさなければならなかった」といった。
学び(ラーン)、の ちに学びほぐす(アンラーン)。
「アンラーン」ということばは初めて聞いたが、意味はわかった。
型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して 自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された、、、大学で学ぶ知識はむろん必要だ。
しかし覚えただけでは役に立たない。
それを学びほぐした ものが血となり肉となる。
鶴見俊輔(2010)『新しい風土記へ 鶴見俊輔座談』 pp. 51、52
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人間の個人的な行動の自由の制限とその自由諸権利の減少くらい、第一次大戦以来の 世界が陥った非常に大きな退歩を、眼に見えて明らかに示すものはないであろう。
1914 年以前には、大地はすべての人間のものであった。
各人はその欲するところに赴き、欲す るだけ長くとどまった。
許可もなければ承認というようなこともなかった。
私が 1914 年 以前にインドとアメリカに旅行したときには、旅券を持っていなかったし、
あるいはおよ そかつてそのようなものを見たことがなかったのだ、
と若い人々に語り聞かせるとき、そ の年若い彼らの驚きを、私はいつも興がって眺めたものである。当時は聞くこともなければ聞かれることもなく乗ったり降りたりし、今日要求される無数の書類のうちのただのひ とつでも書き込む必要はなかったのだ。
許可証も査証も煩瑣な手続きもいらなかった。
今 日税関や警察や憲兵屯所などの、万人対万人の病的な猜疑によって鉄条網に変ってしまった
同じ国境は、当時はただ象徴的な線を意味するにすぎず、グリニッジの子午線を通り越 すのと同じように気にも留めずに越えられたものなのである。
大戦後になって初めて、国 家主義による世界の混乱が始まった。
そして最初の眼に見える現象として、このわれわれ の世界の精神的流行病は外国人嫌いを熟さしめたのである。
外国人をきらうか、あるいは 少なくとも外国人に対して不安を感じることである。
到る処で外国人に対して自己を守 り、到る処で外国人を閉めだした。

シュテファン・ツヴァイク『ツヴァイク全集 20 昨日の世界II』
原田義人訳(みすず書房、1973 年)605─606 頁
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ウティナン君の事例から考える外国人定着の問題
日経メディカル 2018/05/31 色平 哲郎(佐久総合病院)

2国間のEPA(経済連携協定)に基づく外国人看護師、介護士の受け入れが始まって10年が経った。2017年度までにインドネシア、フィリピン、そしてベトナムから看護師1203人、介護士3492人を受け入れている。
しかし、日本の国家試験合格者の数はガクンと下がる。
看護師の場合、2018年には441人が受験し、合格したのは78人(合格率17.7%)。
外国人を受け入れて、4〜5年間、医療、介護の現場で働いてもらうものの、日本人が国家試験に合格できず、帰国するというパターンが多くなっている。

この政策が導入された背景には、かつて比較的緩やかに運用していた興行ビザの問題がある
とされる。20年近く前までは、興行ビザで入国した外国人が入国管理局に申請した仕事とは異なる職に就き、不法滞在化するケースが後を絶たなかった。
そこで法務省は、興行ビザの運用を厳格化して受け入れ数を減らす一方で、EPAによる別枠を設けたといわれる。
20年の年月が経過し、以前のずさんな入管政策の問題は忘れられつつあるように見える。
だが昨年末、それを思い起こさせる出来事があった。
甲府市で暮らすウォン・ウティナン君の「在留特別許可」の取得を巡る報道だ。

ウティナン君は、2000年にタイ人の母と父の間に生まれた。
両親は離別し、不法滞在のまま働く母と、長野県内の友人宅などを転々としながら暮らした。
小学校には通わせてもらえず、テレビや漫画、街の看板を見ながら日本語を覚える。
2011年に母子は甲府市に移り、母は支援団体にウティナン君の学習支援を相談。
猛勉強が始まり、2013年に甲府市内の中学校(2年次)に編入した。

ウティナン君を支援する社会福祉法人「ぶどうの里」の山崎俊二理事長は、母親に「日本の学校に行かせるのはいいけれど、入管に出頭し、彼の国籍をちゃんと取ること」と伝えたという。
ところが、2014年に母子が入管に出頭し、在留資格の審理を申請すると「強制退去」の処分を下された。
山崎さんたちは「彼を日本に居させるのは私たち周りの大人の責任」と支援活動に力を入れる。

ウティナン君は、クラスメイトの前で「僕は在留資格がなくて退去強制命令が出た。だけど裁判に訴えてでも残りたい」と告白。
日本しか知らず、日本で暮らし続けたいとの思いを訴えた。
先生や同級生は、ウティナン君の境遇に涙し、支援を誓う。
母子は東京地裁に処分の撤回を求めて提訴した。
しかし、結果は敗訴。ウティナン君は山梨の県立高校に進み、控訴するが、母は控訴を断念しタイに帰った。母子は引き裂かれ、控訴審でも敗れる。
一方でウティナン君を応援する署名は地域だけで1万5000筆集まり、カンパも200万円を超えた。2017年に最高裁への上告を取り下げ、入管に在留資格の再審査を請求。
そして昨年末、1年間の「在留特別許可」が下りたのだった。

ウティナン君の事例は、ずさんな入管政策の影響が、日本で暮らす子どもの世代にも及んでいることを示している。
「正規」のルートであるEPAの受け入れでも今後、看護師や介護福祉士の国家資格を取得し、就労する外国人本人やその次の世代が社会と共生していけるかが課題になるだろう。
現状でも、EPAで受け入れ、国家資格を取得した人たちの3割以上は、帰国したり離職しているという。
言葉の壁や子育てなどの問題に直面し、国内の職場から離職するケースが少なくないようだ
(2016年9月18日朝日新聞による)。

こうした課題は、外国人を受け入れる他の分野でも指摘されている。外国人とどう向き合っていくのか、医療・介護業界に限らず社会全体に問い掛けられている。
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コロナ禍と五輪 
 傷にふれて、語り継げるか 
朝日新聞2021/5/27論壇時評 東京大学大学院教授・林香里

 いったい、東京五輪・パラリンピックはこのまま開催するのか、中止するのか、延期するのか。新型コロナワクチンの普及も見通せない。霧のかかったような見通しの悪さに、イラーっと来ているのは私だけではあるまい。

 精神科医の宮地尚子は、エッセイ集『傷を愛せるか』で、米国の首都ワシントンDCの中心部にあるベトナム戦没者記念碑が今日まで残されていることを一つの「奇跡」だと綴(つづ)る(〈1〉)。ベトナム戦争は米国史において、唯一「負け」に終わった戦争であり、失敗、判断ミス、欲望、身勝手さ、傲慢(ごうまん)さを象徴する「みじめな『傷跡(きずあと)』」だ。
大論争の末1982年に建てられたこの「記念碑」に、宮地自身違和感を抱いていた。
しかし、実際に訪ねてみて、傷を愛することは難しくても、傷をなかったことにはしないでいたいと、敗北の記念碑の価値を語る。

 日本に生きる私たちは、五輪のために建てられたスタジアムや選手村を、後年、どのような「記念碑」として見上げることになるだろう。
私たち市民にとって、もはやなぜ開催するのかさえわからなくなっている失敗五輪を、せめて傷として記憶し、後世に語り継ぐことができるだろうか。

 本間龍は、世界的に見て、東京五輪は税金を湯水のように使って民間企業を肥やす
「祝賀資本主義」のもっともグロテスクな完成型で、歴史に記録されるだろうという(〈2〉)。
実は、この本間の論考にはちょっぴり矛盾がある。
なぜなら、彼自身が指摘するとおり、東京五輪ではそもそも歴史の記録係が機能していない。
なんといっても、祝祭の中心にいるのは、メディアを支配する広告代理店電通と大手新聞社だ。
東京五輪では、主要報道機関がスポンサーになって、世界にも類いまれな「五輪翼賛プロパガンダ」体制ができあがっているという。
〈3〉は、新聞社が五輪開催にノーと言わないことを批判した。

 さらに、NHKも政府の拡声器となり下がっている疑いが濃い。
長井暁の論考によれば、五輪開催の是非を問うNHKスペシャルが、収録2日前にいったん中止された。また、聖火リレーの中継映像で、沿道の市民から抗議の声が聞こえた直後に音声が消えた(〈4〉)。
メディアではすでに傷跡の書き換えが行われている。26日には朝日新聞が社説で開催反対を主張した。民意を代弁したメディアが孤立しないようにと願うばかりだ。

 5月7日、相模原市は、東京パラリンピックの聖火の採火を、2016年に入所者ら45人が殺傷された障害者施設「津久井やまゆり園」で行うという決定を撤回した(〈5〉)。
「ご遺族などに寄り添う姿勢が足りていなかった」と本村賢太郎市長は釈明した。
しかし、やまゆり園での聖火の採火が問題なのは、遺族の心情への配慮や加害者の優生思想だけが理由ではない。
渡辺一史は、やまゆり園の凄惨(せいさん)な事件の後に、施設を舞台にした入所者への
「長期にわたる虐待の疑い」が明るみに出たことを取り上げている(〈6〉)。
やまゆり園とは、残虐な殺人事件の舞台であるだけでなく、障がい者の苦しみを見て見ぬふり
をする、癒えない日本社会の傷口の象徴でもある。
もし、採火が挙行されていたら、過去の傷口が五輪礼賛プロパガンダによって塗り込められ、
蓋(ふた)をされるところだった。

     *

 人間の歴史にはさまざまな傷があり、それを見なかったことにしたい欲望は常に存在する。
他方でそれを押し返そうとする力もある。

 渡辺豪は、辺野古の埋め立てに、沖縄戦の激戦地だった本島南部の土砂が使われる可能性に触れ、遺骨混じりの土砂を使うことは「人道上許されない」という沖縄の声を伝えている(〈7〉)。
埋め立てが問題になっているのは承知していたつもりだが、土砂の問題は知らなかった。
渡辺は、こんな私のような本土の人のために、東京に一人くらい沖縄のことを伝える記者
がいてもいいはずと、地元新聞社を辞め、本土への伝達者をかって出たという。渡辺のような記者がいることで伝えられたこのニュースを、私は大切にしたいと思う。

 今月は、スリランカ女性が名古屋入管に収容中に死亡した事件にも心を痛めた(〈8〉)。
しかし、この事件に関しては粘り強い調査報道が繰り広げられ(〈9〉〈10〉)、若者から著名人まで、幅広くおかしいという声がネットを介して響き合った。その後、人道的に問題含みの政府の入管法改正案は、事実上廃案となった。

 傷口への向き合い方という点でもう一つ。美学者の伊藤亜紗は、著書『手の倫理』の冒頭で、傷口に「さわる」と傷口に「ふれる」という二つの言葉から、回復のあり方を問題提起する(〈11〉)。傷口に「さわる」と言われると、痛くて反射的に防御したくなるけれども、
傷口に「ふれる」となると、相手の痛みへの配慮が含まれていて、ふれられる人も「痛いかもしれないけど、ちょっと我慢してみようかなという気になる」と。

 「さわる」と「ふれる」。
 傷は痛い。さわられても、ふれられても。けれども、「ふれる」と言ったときには、どこか、内側へと向かう信頼や、双方に共振するいたわりへの予感が呼び出され、力が蓄えられる。

 五輪ありきでコロナ対策も迷走中。
ふれあいを奪われた日本社会で、論壇は社会を分断せず、つなぐものでありたい。
伊藤が解説する日本語の言葉の妙から、少しだけ、未来へと希望をつなぐ。

     *

 〈1〉宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店、2010年刊)
 〈2〉本間龍「祝賀資本主義のグロテスクな象徴」(世界6月号)
 〈3〉「五輪スポンサーに雁首揃(がんくびそろ)える大新聞6社に『開催賛成か』直撃」
(NEWSポストセブン、5月22日)
 〈4〉長井暁「NHKと政治と世論誘導」(世界6月号)
 〈5〉「『津久井やまゆり園』でパラ聖火を採火 相模原市長が撤回表明」
(NHK NEWS WEB、5月7日)
 〈6〉渡辺一史「植松聖の『優生思想』を生んだもの」(文芸春秋6月号)
 〈7〉渡辺豪「遺骨まじりの土砂 本土が問われている」(世界6月号)
 〈8〉レジス・アルノー「『スリランカ人死亡』で再び露呈した入管の非道」
(東洋経済オンライン、5月20日)
 〈9〉「特集 入管・難民問題」(毎日新聞サイト)
〈10〉望月衣塑子「スリランカ女性、死亡時の血液検査で異常な値 
『点滴や入院必要だった』と医師」(東京新聞 TOKYO Web、4月28日)
〈11〉伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ、2020年刊)

     ◇

 はやし・かおり 1963年生まれ。専門はメディア・ジャーナリズム研究。
東京大学大学院情報学環教授。著書に『〈オンナ・コドモ〉のジャーナリズム』など。4月から東京大学理事・副学長も務める。


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日本の評価は地に落ちた

「ドイツをはじめとした欧米各国では、国民の半数近くがコロナワクチンの接種を1度は受けています。接種が完了した人には外出制限を緩めたり、マスクを外しても構わないという動きも出ている。しかし翻って日本は、ワクチンに関して信じがたいほど遅れをとっています。
きわめて困難な状況に陥っているにもかかわらず、東京五輪を強行しようとしているのは、
日本人の高いプライドのなせる業なのでしょうか」

こう語るのは、ドイツ・ボン大学国際哲学センター所長のマルクス・ガブリエル氏だ。世界的ベストセラー『なぜ世界は存在しないのか』などで著名なガブリエル氏が住むドイツでは、昨年12月26日からコロナワクチンの接種が始まった。

5月末時点で全国民の4割強、約3500万人が1回以上の接種を終え、7月中には全国民が接種を完了する見通しだ。

https://bit.ly/3hZj2Gp
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医療支援で関わったミャンマーの今を憂う
日経メディカル 2021/03/30 色平 哲郎(佐久総合病院)

 ミャンマー情勢の悪化に心を痛めている。ミャンマーの非暴力民主化運動の旗手で、ノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スー・チーさん率いる国民民主連盟(NLD)の民主的な政府が誕生して5年。総選挙でのNLD圧勝を追い風に2期目に入ろうとした今年2月、突然、何の前触れもなく、ミン・アウン・フライン総司令官が君臨する国軍がクーデターを強行。クーデター後、国軍の弾圧で3月26日までに328人が死亡している(3月27日時事通信)。スー・チーさんは拘束されたままだ。
無抵抗の市民を虐殺する連中への怒りと悲しみで胸が張り裂けそうだ。

 私自身、ミャンマーとはいささか関わりを持ってきた。京都大学医学部の学生だったころ、スー・チーさんが京都に滞在していた。1985年10月1日から翌年の6月30日までの9カ月間、当時40歳だったスー・チーさんは京都大学東南アジア研究センターに客員研究員として留学していた。研究テーマはビルマ(ミャンマーの旧称)独立運動の歴史をたどること。スー・チーさんの実父は、「ビルマ建国の父」と呼ばれたアウン・サン将軍である。
物心つく前に暗殺された父と縁の深かった日本で、旧軍関係者への聞き取りや、資料調査をしておられた。

 そのことを私たち京大生に教えてくれたのは、医学部の病理学教授だった故濱島義博先生だった。濱島先生は、1968年、医学部チームを率いて、鎖国中だったビルマの第2の都市マンダレーから南へ車で2時間ほどのポルパ山を訪ね、医療支援を開始した。驚いたことに4000人の村人全員が「目を開けられない状態」だったという。極端な水不足で洗顔や手洗いができず、トラコーマの結膜炎が慢性化して瞼が癒着していたのだ。
濱島先生は「少々の抗生物質では、どうにもならない、。患者さんを治す前に、まず水道を引かなければならない」と痛感したそうだ。

 その後も京大医学部のビルマ支援は続き、病院や医学研究センターが建設される。
しかし、何よりも軍事独裁という「大病」を治さない限り、ビルマの将来は暗かった。

濱島先生が見たスー・チーさんの演説

 1988年、生活拠点の英国オックスフォードからビルマに帰国したスー・チーさんは、
政治の激流の真っただ中に飛び込む。折しも「8888民主化運動」が燃え上がっており、戒厳令下のラングーン(旧ヤンゴン)では学生が大規模なデモを実施していた。
8月26日、スー・チーさんは50万人が集まった大集会で演説を行う。
彼女の登場を待ち受ける民衆の中に濱島先生もいた。

 「そのときの彼女の演説は、決して激しい口調ではなかった。興奮する大群衆をなだめるような優しい表現だった。『平和的手段で、すべての民族が仲良く力を合わせて、民主化を実現させよう』。説得するかのような彼女の姿に、私は非暴力主義を提唱したガンジーの姿をダブらせていた」と濱島先生は語っておられた。

 だが、国軍は民主化運動を弾圧し、多数の民衆を虐殺。クーデターを起こした。NLDの結党に加わったスー・チーさんは「国外退去」を求められたが、拒否。実に十数年に及ぶ自宅軟禁生活を強いられる。ビルマは1989年に英語呼称をミャンマーに改称した。

 ミャンマーの政治的混乱の根元には民族問題が横たわっている。全人口の68%がビルマ族で、シャン族、カレン族……と続き、実に135民族からなる。また、仏教徒主体のミャンマー政府はイスラム系少数民族のロヒギャを「不法移民」とし、民族として認めていない。
国軍はしばしば少数民族を攻撃し、「国家統一」を進めてきた。

 1991年にはロヒンギャを討ち、25万人の難民がバングラデシュへ逃げている。
ちょうど医師国家資格を取ったばかりの私は、東京都内で2人のロヒンギャの若者から健康相談を受けた。彼らの故郷は国軍に蹂躙されており、帰るに帰れない。若者2人の心理状態は半ば恐慌を来していた。支援者たちとつながって、どうにか生活を維持していた。

人々には活力がみなぎっていたが…

 2000年代に入り、経済のグローバル化が進んでミャンマーに外国資本が入るにつれて
民主化熱は一段と高まる。2007年、政府がガソリンなどの燃料価格を引き上げたのを機に反政府運動が再燃した。学生や反政府活動家に加え、数千人の僧侶も加わった。軍事政権は市民デモ隊に発砲し、日本人ジャーナリストも被弾して死亡した。非暴力民主化運動は、何度も銃弾によって粉砕され、ミャンマーの市民はその都度、立ち上がる。

 そして、2016年、ようやく総選挙でのNLDの大勝利を経て民主政府が誕生し、ミャンマーの人びとは明日への活路を見いだした。同年、私は国際協力機構(JICA)のプロジェクトで、宝石の産出で有名な東部のシャン高原を訪問した。政府系病院が住民との関係を強めるために「病院祭」を検討していた。私の勤務する佐久総合病院は長年にわたって病院祭を開催しており、そのノウハウをレクチャーするためだった。先方の国家公務員のドクターは、落ち着いた物腰で色々尋ねてきた。人々は解放感に浸り、活力がみなぎっていた。

コメント(1)

たしかに、歴史は、後世の為政者が、かってに粉飾してつくるが、今回の五輪は、その歴史の書き手の6大新聞が、すべて、翼賛者なんだから、そもそも、歴史に残らない・・・
なるほど、それでは、失敗しようが、大成功の東京五輪として、歴史に残るのか?

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