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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【孫崎享のつぶやき】 随想㊲陶芸家達 2021-03-01 08:191

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エドワード・モースは一八三八年生まれ。一八七七年来日し大森貝塚を発掘。彼の著書「日本その日その日1」には次の記述がある。
「(日光から東京へ。きたならしい町の旅籠屋で)部屋に掛けられた書き物は古典の一部であることが判った。私は米国の同じような場所の壁を飾る物―拳闘、競馬、または裸の女を思い浮かべ、我々はいずれも、日本人の方が風流の点では遥かに優れていることに同意した。この繊細な趣味の全てが、最も貧しい寒村の一つにあったのである。」
 日本の多くの人々は芸術に接してきた。それは「田舎」と位置付けられる人々の中にも浸透していた。私は石川県小松市、米つくりの村の出身であるが、農家の床の間には掛け軸があり、季節ごとに変えていた。陶器も飾ってあった。家で客が集まり酒盛りがあると、徳利や盃に「これは初代(浅蔵五十吉)のものよ」と自慢しあっていた。
 考えてみると、私の赴任地は陶芸と関係があった。最初の大使はウズベキスタンだったが、ここは陶芸の大国、ペルシアと中国の中間地にあたる。フェルガナ盆地で作る作品は色合いが九谷焼と似ている。それもあって九谷の陶芸家に来てもらって陶芸展を開いた。中心人物は浅蔵五十吉氏で、ウズベキスタンの陶芸家が、彼の家に研修に出かけた。団で最も若かった武腰一憲氏はウズベキスタンの老人を描き、日展審査委員等で活躍している。次の大使はイランであったが、ここには幻の陶芸、ラスター彩がある。これまた赴任地であったロンドンのロイヤル・アルバート博物館でラスター彩の絢爛さに感激したが、この技法はイランでは絶え、加藤卓男氏がイランでの研鑽を踏まえて「加藤ラスター彩」を編み出し、息子加藤幸兵衛氏がその技法をイランに伝授した。今数人のイラン陶工がこの手法で製作している。私は加藤幸兵衛氏とその息子加藤亮太郎氏にもお会いしている。会ったと言えばバーナード・リーチ氏に1978年頃、彼の死のニ、三年前、在英日本大使公邸でお会いしている。
 私は九谷の石川県で育ったせいか、陶芸には関心がある。なかでも「釉薬を一切使用せず、絵付けもしないという究極にシンプルな焼き物。1200〜1300度の高温で焼き、土の性質や、窯への詰め方、窯の温度の変化、焼成時の灰や炭などによって模様が生み出されます」という備前焼に惹かれる。絵付けをしないというが、1970年代後半英国勤務の時、オークションのサザビーで、出展の備前焼の中に五名位の人物が描かれたものがあったがあれは何だったのだろう。事前ビッドをしたが、最終価格は手の出ない価格になっていた。
 石川県の育ちだから、当然古九谷に関心がある。現代作家の武腰潤氏は「古九谷の線は武士の線」と言われ、自身も線を強調した作品を描かれているが、「武士の線」ならばと、宮本武蔵の「枯木鳴鵙図」と古九谷の《色絵鳳凰図平鉢》と比べると勢いは《色絵鳳凰図平鉢》の方がありそうだ。線は勢いだけでないと、別の作品「色絵布袋図平鉢」を見ると布袋を柔らかな線で描いている。近現代で色絵の代表者は藤本能道氏であろうか。古九谷と武士、古九谷と加賀藩の結びつきについては、いつか改めてここに記載することになろう。
 ただ危惧するのは生活様式の変化で床の間はない。掛け軸はない。陶器はない。個人宅の酒盛りはない。日本の古来の文化を支えた基盤が喪失されてきた。

コメント(2)

そうですね。人間が、経済性と合理性を求めると、伝統文化をどんどん追いやることになります。
その分、希少価値として、一分の高貴なお方のみのお遊び、趣味、となり、価値はあがりますが・・・
>>[1]

伝統文化、もともと日本文化は雑多な文化の混合ですね。

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