ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 「それだけの長期にわたる地層の安定を確認するには、今の科学技術では限界がある」❷

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
世界史のなかの台湾植民地支配 台南長老教中学校からの視座 駒込武 岩波書店 2015
序章   帝国のはざまから考える
1 歴史のなかの夢を問うこと   研究の対象と課題
本書の課題は、帝国日本による台湾植民地支配の歴史的意味を世界史的な脈絡のなかで問い直すことである。
清代に中華帝国の周縁に組み込まれていた台湾は、アヘン戦争後に大英帝国の影響力の強く及ぶ地域となり、さらに日清戦争の結果として帝国日本の植民地とされた。これら三つの帝国の影響力が重なり合う空間のひとつとして、本書ではイングランド長老教会宣教師が設立した台南長老教中学校(現在の長榮高級中学)に着目する。
この学校は、日本による植民地支配下に「台湾人の学校」としていくのだという宣言書を発したものの、帝国日本の支配秩序からするならば、周縁的な位置づけの、一私立学校に過ぎないともいえる。
しかし、このミクロな空間に視座を定位することにより、英国人・日本人・台湾人のあいだに働いた権力関係を浮き彫りにすることができるはずである。
さらには、この学校の歴史を窓として、英国と日本が相互に角逐しながらもいわば垂直に折り重なる暴力を構成した局面と、これに対峙した「台湾人」という集合的な主体の姿を見定めることが可能であるという展望を抱いている。
あらためて述べるまでもなく、近代世界において帝国は単独で存在したわけではない。
複数の帝国が相互に交渉を 重ね、ときには対立しながら、全体としてグローバルな帝国主義体制を維持していた。
パクス・ブリタニカの時代ともいうべき一九世紀なかばから世紀末においては、英国が公式・非公式の帝国の範囲を超えて国際関係の枠組みと基本的な「ゲームのルール」を決定する実力を持つヘゲモニー国家としての地位を占めた。
日本という「極東」の島国 は、日清戦争、治外法権撤廃、日英同盟、日露戦争という一連の歴史的なプロセスを通じてこの「ゲームのルール」 に必死に習熟しつつ、新興の植民地帝国として成り上がったといえる。
他方、中華帝国の周縁に位置した台湾は、天津条約に基づいて安平、淡水、打狗(のちに高雄)、鶏籠(のちに基隆)が 相次いで開港場とされた。
一八六〇年にはジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)が打狗に支店を設けたことを始め として、樟脳・茶・アヘンなどを取り扱う洋行が活動を始めた。
これと歩調を揃えるようにしてイングランド長老教 会の宣教師が六五年に打狗に上陸し、台湾府(のちに台南)に宣教の拠点を定めた。
七一年には当時英国の自治領植民地だったカナダからも宣教師が来台、カナダ長老教会がイングランド長老教会との協力関係のもとで北部台湾で宣教事業を展開することになった。
台湾は、大英帝国による「非公式の帝国」の一部に組み込まれたといえる。
日本による植民地化以降、台湾総督府の手厚い保護を受けた日本資本が進出することにより、英国系洋行は次第に 台湾から駆逐されていった。
他方で、英国人宣教師の設けた学校や病院は、今日にいたるまで存在し続けている。
こ の違いは、現地住民とのかかわり方の差異によるところが大きい。
英国系洋行の場合には少数の住民が傭人としてか かわるのにとどまったのに対して、宣教師の経営する学校や病院は、現地住民とのあいだに幅広いインターフェイス を構築していた。
現地人の改宗者が教師や医師としてかかわったばかりでなく、キリスト教の信者でない者も生徒や 患者としてこれらの施設を利用した。
プラットの表現を借りるならば、宣教師の設立した学校や病院は、地理的にも歴史的にもそれまで分離されてきた人びとの軌道が交差する「コンタクト・ゾーン」であり、「権力の根本的な非対称的関係」のなかで「圧制、根本的な不平等、手に負えない葛藤」に満ちた相互交渉が繰り広げられる舞台となった。
本書において着目する台南長老教中学校も、歴史的背景を異にする主体の出会う「コンタクト・ゾーン」であった。
しかも、複数の帝国の影響力が交錯する領域であるばかりでなく、当初はもっぱら宣教される/支配される対象であ った人びとが「台湾人」という集合的な主体を立ち上げた過程が浮かび上がってくる場でもあった。
この点について、 あらかじめひとつの史料に即して、イメージを明確化しておくことにしたい。
一九二八年一一月に「台南長老教中学後援会」の名前で漢文による「宣言書」が公表された。
冒頭、やや大仰な口調で「本校、英才を教育すること四十年、久しからずと為さず」と多くの「英才」を養ってきたことを誇りながら、教育体制の整備のために寄附金を募って基本財産を蓄積することが必要だと語り、次のように協力を呼びかけている。
・・
後援は英人、宗旨は基督教と雖も、実体は純全たる台湾民衆の教育機関に非ざるは無きなり。
而して、一簣の功を以て勉めざれば、目的を貫徹し使命に到達する能わず。智者と謂うべけんや。
吾が台人士に深望す。
群に策し群に力め、急起直追せんことを。
冀わくば名実ともに台湾人の学校たるを備えんのみ。
・・
宣言の主体である「台南長老教中学後援会」は学校関係者の呼びかけに応えて募金した人びとの構成する組織であ り、林獻堂(一八八一―一九五六)や蔡培火(一八八九―一九八三)のように著名な抗日運動関係者も参加していた。
宣言書を掲載した『台湾民報』も抗日運動系の新聞であり、「台湾人唯一之言論機関」というように「台湾人」の運営する メディアであることを強調していた。
「台湾人の学校」という言葉も、この文脈では、台湾人が管理運営に携わる施設という意味合いと解される。
「台湾人」とは誰を指すのか。
それは、自明なことではなかった。日本による領有以前からの在来の住民は、日本統治期の公式文書では「本島人」と呼ばれることが多かった。
エスニシティーとしては漢族系住民と台湾先住少数民族を包含しており、漢族系住民はさらに福建省から移住した・南人(あるいは福・人)と広東省に多く居住していた客家系の人びとに分かれ、先住少数民族は生活様式における漢化の度合いにより「熟蕃」(のちに平埔族)、「生蕃」(のちに 高砂族)と呼称されていた。
この宣言書で「台湾人」として主に想定していたのは、漢族系の人びとだったと思われる。
さらに、当時の中学校とは経済的に一定の余裕のある中・上流家庭の男子にとって進学可能なエリート・コース であったことを考えるならば、「台湾人の学校」とはいっても、実質的な指示対象は曖昧であり、しかも限定的だっ たといえる。
それにしても、この宣言は、「台湾人の学校」とはかけ離れた学校ばかりが存在した現実を指し示している点で重 要である。
どのような現実が示唆されているのか。ひとつには、「後援は英人」という文言が示すように、英国人宣 教師の運営するミッション・スクールとの対比が意識されている。
由来としてはそうだったものの、現状では性格が 異なることが強調されている。
もうひとつは、明言こそされていないものの、台湾総督府の監督下に地方官庁の運営する公立学校との違いが意識されていたと思われる。
公立学校は「台湾人の学校」ではない、この学校こそがわたし たちにとって公共的な学校なのだというメッセージを含んでいると見ることができる。
すなわち、「台湾人の学校」 という言葉は「英国人の学校」や「日本人の学校」と対比しての言明であり、少なくともそのかぎりで、一定のリア リティと説得力を備えていたものと思われる。
「台湾人の学校」という言葉に照応する仕組みがつくられてもいた。
一九二二年になされた認可申請では、「設立 者」として宣教師ばかりではなく、台湾人が名を連ねていた。それは当たり前のことのようでありながら、当時の台 湾では唯一の事例であった。
日本人、あるいは英国人を設立者とする私立学校しか認可されていなかったからである。
また、寄附金の呼びかけに応じた者は後援会員となり、後援会員は選挙により理事・評議員を選出し、学校の管理運 営体制に参与することができた。
そこには、ヴォランタリズムの原理に基づいた、自治的な運営体制を見出すことができる。
さらに、この自治的空間は「台湾人の学校」という言葉をより実質的なものとしながら、台湾における公教育制度全体を再編していくための橋頭堡としての意味合いを託されてもいた。
台湾人の、台湾人による、台湾人のための学校......。
それは、当たり前のことのようでありながら、植民地支配下の状況では大きな壁に直面せざるをえない夢ともいうべきものであった。
台湾植民地支配の歴史について考えるとき、こうした夢の次元に着目することが重要な意味を持つ。
たとえば同じく帝国日本の植民地支配下にあった朝鮮と私立学校数を比較してみよう。
一九二〇年時点で朝鮮には七〇〇校あまりの私立学校が存在したのに対して、台湾は二〇校あまりにとどまった。
五対一程度という人口規模の違いを考慮に入れたとしても、大きな落差である。
朝鮮では日清戦争さなかの甲午改革において科挙が廃止されて、 愛国啓蒙運動の一環として各地に自主的な私立学校が創設されたのに対して、台湾の場合、日清戦争の終結とともに植民地化されたために、自主的な学校設立の余地が早い段階で閉ざされた事情がそこには介在している。
朝鮮で「不 穏思想の揺籃」として私立学校を抑圧する際にはすでに成長した大木をなぎ倒していくような措置がとられたのに対 して、台湾の場合にはいまだ萌芽の内に蓋をしてしまう措置がとられたと評することもできる。
どちらが「より苛 酷」な植民地支配だったかを問うても意味はない。
ただし、台湾の場合には、潜在的な可能性のうちに存在した夢の 次元を射程に入れなければ、植民地主義をめぐる攻防が見えにくいという事情が存在する。
歴史のなかの夢への着眼は、かならずしも目新しいものではない。
戦後台湾における脱植民地化をめぐる願いとその挫折について論じた呉密察の論文の表題は、「台湾人の夢と二・ 二八事件」である。
実際に実現されたことを事後的な観点から論じるのではこぼれ落ちてしまう領域が、夢という言 葉のうちに示唆されている。
あるいは、冨山一郎が伊波普猷(一八七六―一九四七)における「暴力の予感」について語 るときに、その予感は「出郷者の夢」と背中合わせとされる。
すなわち、「未来へと継続する今の危機」を感じるからこそ「未来を別物として措定する好機」としての夢もまた常に求められる。
そうした潜在的な可能態の次元における出来事をネグレクトした歴史叙述は、すでに「鎮圧の歴史あるいは統治の歴史」にほかならないと冨山は述べる。
本書における夢という言葉は、このような用例の延長線上にある。
さらに、教育という対象にまつわる独自性がある。
教育には、子どもや孫たちの世代の未来にかかわる夢がしばし ば賭けられてきた。
教育の効果はすぐにはわからず、費用対効果に基づく計算を立ててはみても、あてが外れること も多い。
あるいは、「子どもの可能性は無限大」という類いの言明が楽観的だと感じられたとしても、そこにいくば くかの真実味を見出したいという思いを捨てきれない現実が存在する。
差別や抑圧のもとにあるマイノリティにとっ てはなおさらそうである。
だからこそ、夢という可能性の領域の占める比重が大きくなる。
これに対して、そもそも 近代学校という形式を通じてなされる教育に夢を託す啓蒙主義的姿勢が問題なのだと批判することもできる。
しかし、 サイードが「抵抗にまつわる悲劇」として述べたように、「抵抗は、帝国文化によってすでに樹立された諸形式、あるいはすくなくとも帝国文化の影響をうけ、帝国文化にどっぷりつかった諸形式、それらを再発見し利用することを、どうしても余儀なくされる」。
近代学校という枠組みも、そうした形式のひとつである。
「日本帝国主義打倒」を目指した政治運動に比するならば、「台湾人の学校」を目標とした運動は、あまりにもささ やかな夢ともいえる。しかし、――――結論的なことを先取りするならば――――そのささやかな夢も実現困難どころか、暴力的な手法により打ち砕かれた。
米国における公民権運動の指導者キング牧師の「わたしには夢がある」“I have a dream” という著名な演説を持ち出すまでもなく、現実において多くの苦難を背負わされた構造的弱者たちの夢は、 それ自体として重要である。
なぜ、またどのようにして、「台湾人の学校」という夢が集団的に共有されるものとな ったのか。
その夢は現実とどのように照応し、あるいはズレを抱えていたのか。
そして、いかなる結末を迎えるのか......。
本書では、その夢の跡を辿ってみることとしたい。
台南長老教中学校において「台湾人の学校」という夢の中核的な担い手となったのは、林茂生(一八八七―一九四七) という人物である。
林茂生は、台南で儒者の家庭に生まれ、キリスト教に改宗した父に従って洗礼を受けた。
台南長老教中学校で学ん だのちに内地に留学して東京帝国大学で哲学を専攻した。
台湾人として初めて文学士の学位をえて一九一六年に帰台、 母校台南長老教中学校の教頭となり、のちに官立高等商業学校教授を兼務した。行政官ではなかったものの、教育職 において台湾人として初めて高等官としての官等を取得したことになる。
二七年から二九年にかけてニューヨークに 滞在して、コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジで博士の学位を取得した。
当時から全島的によく名前を知られ た知識人であった。
「台湾人の歴史」を、その内部における多元性や葛藤を見据えながら描こうとするならば、林茂生にスポットライ トをあてることで生じる死角は大きい。
台湾人として初めての文学士......、あるいは台湾人として教育職で初めての 高等官......
という形容は、林茂生のキャリアがまぎれもなく例外的なものであったことを物語る。
ただし、植民地主義という観点からするならば、その歩みは独特の典型性を備えているともいえる。
なぜそのようにいえるのか。
たとえば、台湾農民組合のリーダーとして知られる簡吉(一九〇三―五一)に視点をすえるならば、林茂生という対 象からは捉えにくい問題群が浮かび上がる。鋭い風刺に満ちた農民組合の運動手法、台湾共産党への加入、法廷での 闘争、長期間にわたる獄中経験、戦後における武装闘争への参与などである。
ただし、簡吉も台南師範学校を卒業したエリートであり、当初は教師としてホワイトカラーの道を歩んでいた。
農民組合運動のさなかにもヴァイオリンを手放さないというハイカラさも持ち合わせていた。
簡吉の場合は、教育の普及というプロジェクトに早々に見切りを 付けたという違いはあるものの、そこには、いかに「左翼的」であったかという次元の差異を越えて、共通して直面 した壁が存在するのではないか。
林茂生の足跡は、帝国の辺境出身の無数のエリートたちの足跡を想起させる。すなわち、辺境に生まれながら、帝 国の中枢で高等教育を受け、自らが「同胞」として意識した人びとを「啓蒙」し「救済」しようとする強烈な使命感 に駆られた者たちである。
ここで「帝国」とは、英国の歴史家ホブズボームにならって、
「一定の辺境(諸)地域が、その地域の支配者あるいは住民の利害を代表していないと考えられる、およそ隔絶した中央により支配されている」体制と定義しておこう。
辺境出身のエリートの試みは、「中央」と「辺境」をめぐるヒエラルキーのもとでしばしば焼け石に水的なものに終わった。
そのことに直面して政治運動に転身する、あるいはその必要性を自覚しながら失意の内に没する事態もしばしば生じた。
たとえば、ロンドンで法律学を学んだガンディー、リヨンで精神医学を学んだフランツ・ファノン、東京で言語学を学んだ伊波普猷......。
それぞれの足跡はもとよりユニークであるものの、そこに通底する経験も存在 したのではないか。
なぜなら、個々の帝国の秩序は世界的な帝国主義体制の一部だからであり、「原住民」に対する ときの帝国のやり口は、実のところたぶんに似通っていると考えられるからである。
外来の支配者に直面してから政治的抵抗の主体としての「わたしたち」を見出すまでのあいだには時間的な遅延が 存在する。
ナショナリスティックな歴史叙述は、この遅延を存在すべきではないもの、短ければ短いほどよいものと みなしがちである。
しかし、ガンディーにしても、「哲学者、詩人の国、文明の中心」と憧れるロンドンに留学し、「立身出世」を図るべく勉強していた時代が存在した。ガンディーがインド産の綿製品を着て糸車を廻し始めるのは、洋服を着てロンドンの街を歩いていた時代から、実に三〇年あまりを経たあとのことであった。
林茂生の足跡についても、同様の時間的な遅延が見出されることになるだろう。
この場合の遅延は、かならずしも マイナスの意味ではない。
急速に政治化したわけではないからこそ見出される思想・運動の深まりや広がりもありう るからである。
そしてまた、この遅延された時間のなかでの夢や願いに着目しつつ、それが失望や幻滅に終わらざるをえなかった文脈において、植民地主義の意味するところもまたくっきりと浮かび上がるはずである。
https://www.iwanami.co.jp/files/tachiyomi/pdfs/0610730.pdf
==
一八八五年,英国の宣教師が台湾に設立した台南長老教中学校は,複数の帝国間の角逐のなかで折り重なる暴力にさらされながら,「台湾人」という集合的主体のよりどころとなっていく.
自治をもとめて帝国主義と幾重にも対峙したその軌跡をたどり,
帝国日本による台湾植民地支配の歴史的意味を世界史的な脈絡において問い直す.
■著者からのメッセージ
台湾人による,台湾人のための学校という夢…….
「打倒日本帝国主義」という課題に比するならば,ささやかとも思える願いでありながらも,その実現は分厚い壁に阻まれ続けた.
キリスト教宣教の手がかりとして台南長老教中学校を創設した英国人宣教師,植民地統治者として教育制度の骨格を形作った日本人,戦後に「祖国光復」の担い手として登場した中国国民党と
「西側陣営」の盟主としてこれを支える米国人,それぞれの国家を後ろ盾としてもつ人びとは,時には夢の実現に向けての伴走者であるかのように振る舞いながら,決定的な局面で裏切り,願いを踏みしだく.諸帝国が複雑に交錯しながら折り重なるように暴力を行使する事態において,植民地とは……,人種主義とは,同化とは……,自治とは……,全体主義とは……,という問題群が浮かび上がる.これらの問題群を,帝国日本の歴史をめぐる具体性に即して,しかも世界史に通じる普遍性を持つものとして〈定義〉し直すこと.あるいは,「台湾人の学校」という夢の中核的な担い手であった林茂生(1887-1947)自身が,諸帝国と対峙する経験のなかで自らおこなった〈定義〉を浮かび上がらせること.本書は,日本史・東洋史・西洋史という制度や,批判的文化理論と「実証的」歴史研究とのあいだの垣根を横断しながら,この〈定義〉をめぐる困難な課題に取り組もうとした記録である.
==

コメント(1)

すーちゃんさん

「イイネ」にお礼申し上げます。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見 更新情報

孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。