孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【孫崎享のつぶやき】随想⑲　退屈な話 2020-10-19 08:173

チェーホフの真骨頂は男女の愛を巡る心理描写にある。これに引かれ、多くのチェーホフフアンがいる。だが、チェーホフ」の作品を読んでいくと、人生の無常をテーマとした作品が極めて多いのに気づく。

　チェーホフに「退屈な話」という中編小説がある。１９８９年、チェーホフ２９歳の作品である。ロシア語で５９頁。文字通り、まったく退屈な話なのである。主人公は６３歳。不眠症で自他ともあと半年位で死ぬとみている。医学部教授で、ドイツで経歴が紹介される位著名で、帝政ロシア時代の高官の位も得ている。しかし死を前にして、主人公はタイトルや業績が何の意味を持たないことを知る。かつて夢中になった今の妻は太り（チェーホフは女性の魅力を語る時、腰の細さをしばしば指摘）魅力を失っている。娘は気取るが定職もない男と結婚しようとしている。

　チェーホフには死を扱う作品が多い。１８９０年には、これもさして評判の高い作品ではないが「グーセフ」という作品を書き、ここで極東から黒海に帰る軍艦に乗った二人の傷病兵を描き、途中二人を水葬している。兵士の一人は死ぬ前、しばしば故郷の冬景色を回想する。また、直接死と関係はないが、鉄道建設の技師が「自分の仕事は千年もすれば跡かたなく消えている。仕事に何の意義があろうか」と語る場面もある。

　確かに、我々が真剣に追い求めた組織の中のポストも、退職して１０年もたてば、日々の生活と何の関係もない。私はここ数年、大学の同級生（教養学部時代の約５０名）の年一回の会合の幹事をしている。元国連大使、元NHK解説委員長、元一部上場企業社長（死亡）、元特捜部判事、警察庁、大蔵省、自治省などの要職を占めた人物がいるが、集まれば病気の話がほとんどである。まさにチェーホフの「退屈な話」で時を過ごす。

　チェーホフが死を語る時、宗教は出てこない。当時のロシア社会において、宗教抜きの死生観は多くの人の攻撃の対象になり、「退屈な話」も同様である。

　チェーホフの死に直面し無常を感ずる描写は、日本人の感覚に近い。日本人の宗教観は「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」であろう。［独生　独死　独去　独来］である。西行の「ねかはくは花のしたにて春しなん」の願いの何とささやかなことか。これは良寛の辞世の句とされる「形見とて　何か残さむ　春は花　山ほととぎす　秋はもみじ葉」に通ずる。

　結局、人生の生き方は良寛の「生涯懶立身　騰々任天真　曩中三升米　炉辺一束薪　誰問迷悟跡　何知名利塵　夜雨草庵裡　双脚等閑伸」につきるのでないか。米があり、暖をとる薪を持ち、足をのばすスペースがあればそれでいいのではないか。そして生を享受する。周りの美を愛でる。

　西行は、「花のしたにて春しなん」を究極の贅沢とした。そして良寛は「春は花　山ほととぎす　秋はもみじ葉」をあり続けて欲しい美とした。私は人生で美は味わいたいとは思っている。「朝焼け」「夕焼け」、はかないものではあるが、その美を味わいたい。