孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【孫崎享のつぶやき】随想⑱　後遺症 2020-10-12 08:33

　私は１９６６年に外務省に入り、ロシア語の習得を命じられて、１９６６年秋から６７年夏まで英国陸軍教育学校、６７年ロンドン大学スラブ語学部（School）で学んだ。後者の授業は私には合わず、家で『戦争と平和』を読んでいた。
　ただロシア文学のゼミには出かけた。ここでは、英国人と結婚したきれいなルーマニア人女性と英国人女子学生の三人だけが参加していた。英国人女学生は一メートル七〇センチメートル位あったであろうか、飛び切り美人ではないが好感の持てる方であった。父は英国外務省高官という。
　この当時、夏や冬、春の休暇に私はパリ近郊の町ムドンのロシア人学校寄宿舎に行くことにしていた。この学校は休暇中一般の泊まり込みロシア語講座を開講していて、フランス人学生が集まる、そのほとんどがフランスの女性学生である。こんな素敵な環境はない。
　ロンドン大学を去る時、その年の夏もムドンの夏期講座に出かけることを言うと、英国人学生も自分も行きたいという。ということで１９６８年夏私はムドンにいて、英国人学生も一時期一緒にいた。何かがある訳もなかったが、十分に近しい学生である。
　１９７６年私は英国大使館に勤務した。大使館員にとっては如何に多く、現地の人々と知り合いになるかが重要である。私は、この英国人学生の父が外務省高官だったということを聞いていたので、手帳に書いてあった彼女の家に電話をした。やや年配風の女性の声がした。
　多分彼女の母だったのだろう。私は自分の名前を告げ、彼女に会えないかと尋ねた。母親らしい人が「多分無理でしょう」という。私は自分が不審な人物だと思われたのかと思って、「自分は大使館に赴任してきた。昔ロンドン大学で一緒だった者だ」と伝えた。母親らしき人は「申し訳ないが娘は今、誰とも会わないことにしています」と不思議な台詞を言われる。
　私は何がなんだかわからなくて「そうなんですか」と残念そうに述べたのだろう、母親は「会わないことにしていますが、彼女はどう言うか聞いてみます」という。しばらくして母親は「娘に聞いたら会うと言ってます」と意外そうに言う。それで私が伺う日時を設定した。電話を切ろうとすると、母親が「一寸待ってください。会う前に説明しておいた方がいいでしょう。実は彼女は二年前スイスにスキー旅行に行ったんです。友達達と一緒でした。そこで友達から強姦にあったのです。それ以降彼女は放心状態のような状況が続いているのです。だから会ってもびっくりしないでください」
　私はケンシントンの一角にあるマンションを訪れた。ケンシントンがバッキンガム宮殿の側に位置し、ケンシントン・パレス・ガーデンには日本大使公邸やロシア大使公邸が並ぶ高級住宅通りがある。家を訪れるとすぐ二階にとおされた。そこには女性が一人座っていた。私の知っている女性である。かつては社交的な女性であったが、その片鱗すらなく全くの無表情、能面の様である。私は名前を名乗ったが反応はない。ロンドン大学で一緒だったこと、ムドンのロシア語講習会で一緒だったこと、そこでは晩になると温めた赤ワインを飲んで、皆でダンスをしていたこと、チェーホフを語り合っていたこと等を述べたが無表情である。
　しばらくして私はその家を去った。強姦という現象がかくも深刻な影響を一人の女性に与えるものなのか、衝撃をうけすぐに家に帰る気になれずハイドパークを歩いた。