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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 伝(染病)研(究所)騒動:「医局講座制」の権威主義が、医学界をおおい尽くし

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1914年12月15日の衆院本会議では政友会の代議士で医師の若杉喜三郎が賛同者31名とともに提出した「質問主意書」の説明を行った。若杉自身、東京帝国大学医科大学の卒業生である。
「青山学長は私情をもって公事を犠牲にし、医科大学長として衛生行政の運用と伝染病の研究を著しく阻害した。その他の教授も平然として後任者を送り込み、反省するどころか、学閥をつくって地位の安泰を図っている。伝研には世界的な発見があるのに大学教授には業績がなく嫉妬心を持っているだけである。配下の助教授、助手は教授の鼻息をうかがっている。こういう薫陶を受けた学生が社会に出ることを考えると、大学は広く世道人心に悪影響を及ぼしているといえる。なぜ政府は大学の教授に対して懲戒を加えないのか」
この問責への政府の回答は、「質問のごとき事実なし」の一行であった。
しかし、若杉の質問は、医学界のパターナリズムの弊害を鋭くえぐっていた。世界の研究所は、コッホ、パスツール、北里のような強力なリーダーを頂点に部下が総力を結集している。かたや東京帝大医科大学では、内科や外科の講座ごとの教授は同格同等
で、それぞれの教授の下に助教授、助手の序列ができ、「教授の鼻息」が過大視された。
いわゆる「医局講座制」の権威主義が、医学界をおおい尽くしていた。明治の初め、お雇い外国人の教官に師事した日本人学生は、卒業後、ドイツを中心に海外へ留学した。かれらが帰国すると、次第に外国人教官にとってかわる。明治中期、帝国大学は、20の医学講座を設け、16人の教授を就任させた。教授たちは附属病院では各診療科のトップに収まり、助教授、助手を従えて「医局」を束ねる。こうして診療と、教育の講座が重なり、どちらも医局単位で行われて、医局講座制ができあがった。
医局講座制は効率よく医学を浸透させるメリットを持つが、結果的に閉鎖的で家父長主義に染まった医師集団を生んだ。教授の胸三寸で、配下の働き先や序列が決まり、忠誠心が試される。若杉の青山糾弾には、私情で左右される医学界への怒りがこもっている。
伝研の文部省、東京帝大への移管は、別の見方をすれば、総合研究が医局講座制に呑み込まれたといえるだろう。教授が診療と教育を支配する医学界の強権的体質は、やがて軍靴の音の高まりとともに日本の伝染病研究を、戦慄の人体実験へとねじ曲げる。
第一次世界大戦中、戦火が及ばない日本は連合国側で「大戦景気」を謳歌した。開戦後わずか5年間で日本の国内総生産は約3倍に増え、工業生産高は5倍増を記録する。「輸出」が成長の原動力だった。産業界は欧州に軍需品を送り、生産体制が崩れたイギリスに代わってアジア諸国に綿製品を売る。日露戦争の戦費調達で借金まみれだった日本は、一躍、債権国に変わった。「世界のなかの日本」「一等国の仲間入り」と民草は喜んだ。
だが、またしても戦争から平和への時代の変わり目に恐るべき伝染病がパンデミックを起こし、世界は震え上がる。史上最悪のインフルエンザ、「スペイン風邪」が襲来した。
【ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎、102p】
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