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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 125年前の大検疫が日本の医療革新の転機だった

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【医療の裏側】新型肺炎で思い出す後藤新平の125年前の「大検疫」山岡淳一郎(作家)

新型コロナウイルスが猛威をふるっている。2月11日現在、中国本土での死者は1000人を、感染患者数は4万人を突破した。武漢では1000人の患者の受け入れ可能な病院が10日間の突貫工事で建てられたが、焼け石に水で医療体制が追いつかない状況だ。

感染症を抑えこむのは並大抵のことではない。突貫工事で病院が建設されている映像を見て、ふと、日本の伝染病対策史に金字塔のようにそびえる「大検疫事業」を思い出した。

いまから125年前、日清戦争が終わり、コレラやチフスが荒れ狂う中国大陸から帰還する兵士23万人余をわずか3カ月あまりで検疫した壮大な水際作戦だ。

当時、コレラは、コッホによるコレラ菌発見から日も浅く、「死病」と恐れられていた。明治時代のコレラによる日本人の死者総数は37万人に上り、日清・日露の戦争による死者(約13万1500人)の3倍ちかくだ。明治末年の日本の全人口が2800万人程度だから、いかにコレラ禍が凄まじかったかおわかりいだけるだろう。

そのコレラを防ぐために帰還兵23万人余の大検疫を行った人物こそ、医師にして臨時陸軍検疫部事務官長・後藤新平(1857〜1929)であった。後藤に課せられた任務は「速やかに検疫遂行せよ」。しかしながら世界中の近代国家で、これほど大規模な軍隊の帰還を経験したところは過去になかった。手本はない。前代未聞の水際作戦に後藤は挑むことになる。

そもそも検疫業務は、凱旋兵を乗せた輸送船が沖合に見えたところから始まる。沖に停めた船に検査官が乗り込み、感染症患者や死者の有無を「臨検」する。患者は運搬船で「避病院(隔離病舎)」、遺体は屍室に送り、船内の消毒を行う。患者の所持品は、「消毒」「焼却」の目録を作らせて分類。焼却物は値段を定めたうえで処分し、あとで補償をする。臨検が終わると人員荷物の陸揚げに移る。

健康な兵員は艀(はしけ)で本船から島の検疫所に送られ、すぐに沐浴で身体を消毒する。入浴中に衣類や携行品は蒸気消毒汽缶(大ボイラー)で熱気消毒、もしくは薬品消毒に回される。入浴時間は20分程度。原則的に健康体で物品消毒が終われば、検疫所を出て帰還を許されるが、輸送船内に一人でも感染者がいたら、一時的に「停留舎」に入る。

停留の日数は5日。その間に発病者が出れば、避病院に隔離し、他の者も4日間停留が延長される。これらの検疫にかかわる医官や下士官、兵卒は常に自身が感染しないよう細心の注意を払い、消毒をくり返す。

おそらく、現代の感染症の検疫作業も基本的な流れは同じだろう。

後藤は、一連の検疫チャートを脳裏に描き、壮大な施設を瀬戸内海の3つの島に夜を日に継いで建設させる。広島沖の「似島(にのしま)」の敷地2万3000坪には消毒部14棟、停留舎24棟、避病院16棟、さらに事務所、兵舎、炊事場、トイレなど139棟を建てる。下関にちかい「彦島」は全153棟、大阪近郊の「桜島」は109棟。建設に与えられた期間は、わずか3か月だった。後藤の女婿、鶴見祐輔は『後藤新平』にこう記している。

「その間、海を埋め、樹を切り払い、地ならしをし、家を建て、屋根を葺き、諸道具一切を運びこみ、電信、電話、電灯の設備をなし、(略)まったく類例なき大消毒缶を製造して備えつけるというのだから、まさに太閤の一夜城にも比すべき大工事であった」

後藤は、修羅場の陣頭指揮を振るい、気がつけば43日間連続して寝床に入っていなかったという。感染症の最前線は死にもの狂いだ。「もう一つの戦争」といわれるゆえんである。

後藤はハードの整備のみならず、ソフトの「人使い」でも傑出していた。陸軍の検疫事業でありながら、森林太郎(鴎外・1862〜1922)ら思考が硬直した東大閥の軍医ではなく、コッホの薫陶を受けた北里柴三郎に消毒汽缶の効能試験を依頼している。

森と北里は犬猿の仲だ。森が脚気の原因を「細菌」と主張し続けたのに対し、北里は海軍の軍医総監・高木兼寛の「ビタミンB不足」説を推した。すると森は北里を手厳しく非難する文章を発表した。北里は「学問にうとい者が学問を人情とすりかえてごまかすのはいかがかと思う」と痛烈にやり返す。海軍が麦飯を取り入れて脚気の死者を防いだのに対し、陸軍は対応が遅れ、大勢の兵隊が脚気で命を落としている。

後藤は、軍部と衝突しながら権威主義的な軍医を遠ざけ、北里に協力を求めた。北里は炭疽菌の芽胞系を汽缶のなかに差し込んで消毒効果を確かめる。準備は整った。

ここで後藤は、大PR作戦を敢行する。いつの時代も感染症関係の建物は「迷惑施設」とみられがちだ。後藤が整備した施設に対しても、世間では予算が過大、凱旋兵を迎える作法ではない、運輸や通信上の支障をきたすと批判が高まった。検疫を軽んじる風潮も強かった。

そこで、後藤は、オープンの前日、似島検疫所を一般公開してしまう。招待状を送付しておいた人たちを宇品港から4キロ沖合の似島まで、小汽船と艀でひっきりなしに送り届け、内部を案内する。ボイラーも試運転し、その効用や消毒の安全性を解説。地元の名士を「ビール菓子」でもてなした。スタッフの予行演習も兼ねていた。

「おおーっ大したもんじゃ。これでコレラも心配ないわい」と参加者は驚嘆する。

1日で1800人が見学。世間の偏見も幾分、解消されたのだった。

ほぼ3か月で大検疫事業は終わった。その間に検疫を通過した帰還兵の数は23万2346人、検疫船舶数687隻、そのうち患者を乗せてきた船258隻。真性コレラの患者は369人、疑似コレラ313人、腸チフス126人……と記録が残っている。

この年、日本のコレラ患者数は5万5144人で、4万154人が亡くなっている。やはり日清戦争がコレラを流行らせたようだ。ただ、この5年前には平時でありながら3万5227人がコレラで亡くなっており、もしも大検疫事業が実施されていなかったら、死者数はどこまで増えていたか想像もつかない。翌年からコレラ死者数は数百人台に激減している。

大検疫事業を完遂した後藤は、水際作戦の限界を知った。根本的に病原菌の蔓延を防ぐには、街の衛生環境、上下水道や道路、家屋の設計などが重要だと思い至り、都市づくりへとのめり込んでいく。医療保険の大切さも力説し、「国民皆保険」への布石を打った。

さて、現代の新型コロナウィルス対策の苦闘は、医療政策をどう変革させていくだろうか。後藤のような「国手」はどこかに必ずいるはずだ。

2/14(金) 11:33配信 ニュースソクラ 

■山岡淳一郎(作家)

1959年愛媛県生まれ。作家。「人と時代」「21世紀の公と私」をテーマに近現代史、政治、経済、医療など旺盛に執筆。時事番組の司会、コメンテーターも務める。著書は、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『田中角栄の資源戦争』(草思社)、『気骨 経営者 土光敏夫の闘い』(平凡社)、『逆境を越えて 宅急便の父 小倉昌男伝』(KADOKAWA)、『原発と権力』『長生きしても報われない社会 在宅医療・介護の真実』(ちくま
新書)、『勝海舟 歴史を動かす交渉力』(草思社)、『木下サーカス四代記』(東洋経済新報社)、『生きのびるマンション <二つの老い>をこえて』(岩波新書)。2020年1月に『ゴッドドクター 徳田虎雄』(小学館文庫)刊行。

コメント(1)

昔は、後藤新平のような、気骨のある、まさに、国士のような政治家がいた。
今は?「今だけ、金だけ、自分だけ」の政治家ばかり。。。。情けない。

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