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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 「痛哭の記  中村哲医師のこと」  澤地久枝

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【岩波書店「世界」2020年2月号】

二〇一九年十二月四日、午後三時すぎ。

新聞社から電話があり、

「アフガニスタンで、中村先生が・・・」

ケガされたとつづいた。わたしは、ショックを受け、状
況をもっとくわしく聞こうとした。先方もデータを横から
つぎつぎに手渡されていたのであろう。

「・・・いや。お亡くなりになったそうです」

中村哲先生の死。まったく不意打ちだった。足の爪さき
からふるえはじめ、全身にふるえがひろがった。

先生の講演を最後に聞いたのは、九月九日だった。川崎
市の会場で、この日にかぎって、わたしはお目にかからな
かった。

演壇に立たれた先生が、また痩せられて、ふけてみえる
と感じた。お会いすれば言わずにいられないおのれ自身を
思ってのことだ。

「お会いにならないのですか」

と顔見知りのスタッフに声をかけられて、返事ができな
かった。

国民の八五パーセントが農民というアフガニスタンは、
かつてない異常気象による大干ばつに見舞われ、多くが生
地を離れ、難民になった。

福岡県大牟田(おおむた)の勤務医であった中村先生に、「日本キリ
スト教海外医療協力会」から、パキスタン勤務の話をもち
かけられたのは、一九八二年のこと。このとき先生は三十
代半ば。妻は七歳年下で、二歳と零歳の子どもがあった。

一九八三年九月、中村医師のパキスタンでの医療活動支
援の目的で、「ペシャワール会」結成。

「中村先生の奥様というのは、肝っ玉の大きい人よ」

とかつて公務でペシャワールに駐在した喜多悦子医師が
語ったことがある。

八四年に先生が単身でペシャワールへ入り、翌八五年、
夫人は二人の幼な子を連れて、夫のもとに行っている。長
女と長男である。

中村先生はご自身のことを語らない。

共著をつくったとき、印刷所へまわす直前のゲラで、三
十頁以上のカットがあった。夫妻とも、自分たちを、その
苦労を語ることをよしとしない。

家族がペシャワールにそろった年のクリスマス、ハリマ
というハンセン病の女性が痛みに泣き叫んだ。つぎに咽頭
浮腫で息ができなくなる。気管切開をして楽になった。だ
が、先生は医師として非常な無力感に打たれる。

「あまりに絶望的な状態で、人間に関する一切の楽天的
な確信と断定を、ほとんど信じ難くした。(自分は)患者と
ともにうろたえ、汚泥にまみれて生きていく、ただの卑し
い人間の一人にすぎなかった。泣き叫ぶハリマと同じ平面、
一生涯忘れることのできない暗いクリスマスだった」

と書いている。先生の人生で、二つの断面があると思う
が、人間としてのこの絶望感から、家族を日本へかえし、
自身はそれまで属した協力会からはなれて、ペシャワール
会として医療をつづける決心をされた。

先生に、前途が見えていたわけではない。患者はハンセン
病を中心に、あらゆる病いがある。助けられない命を救
うため、いや難民を救う手段(てだて)として、水、井戸の開削がは
じまる。

掘った井戸は千六百。

アフガニスタンの人びとと協力して、井戸は掘られたが、
砂漠化した農地へ難民をかえす道はなかった。井戸の水も
枯れてくる。

一人の土木技師もいない現場で、設計図をひき、用水路
をひらく先頭に立つのは中村先生だった。

三千メートル級の高地に住む人びとのもとへ、歩いてま
たは乗馬でたずねてゆく。パシュトゥ語も、ウルドゥ語も、
ペルシャ語も、現地で使われる言葉をよく学んでいる。英
語の習得のため、一時、留学もした。

精神科の医師として出発しながら、外科も他の医療科目
も麻酔もまなんだ上の現地医療。アフガン難民がおもな患
者であり、連れてこられ、診察を待つ間に命たえる子もあ
った。

はじめて中村先生に会ったのは、二〇〇八年八月十一日。
そして二十六日、職員の伊藤和也氏が殺される。先生はア
フガンへ帰る途中のバンコクで知った。遺体とともに日本
へ帰り、マスコミも世論もアフガニスタン憎悪の一色にな
るとき、単身、アフガンへ帰っている。

単身とは一人、とわかったのは、おなじ年の十一月、証
人として参議院に招かれたときだった。

まず参議院外交防衛委員会の先生の発言をたどりたい
(二〇〇八年十一月五日、国会議事録から要約)。

ーーおとといまで、ジャララバード北部の干ばつ地
帯作業場で土木作業をやっていました。アフガニスタ
ンを襲っている最大の脅威は大干ばつ。みんなが食べ
ていけないということです。今年の冬、生きて冬を越
せる人がどれくらいいるのか。私たちは一人でも二人
でも命を救おうと力を尽くしている。そのために用水路
の建設がこの冬の勝負のしどころで、なんとか完成し
ようと力を尽くしている。

私たちは医療団体ではあるが、医療行為をしていて
非常にむなしい。水と清潔な飲料水と十分な食べもの
さえあれば、おそらく八、九割の人は命を落とさずに済
んだという苦い体験から、干ばつ対策にとりくんでい
る。

この干ばつに加え、アフガニスタンをむしばんでい
るのは暴力主義。アフガン人の暴力があり、外国軍に
よる暴力があり、治安はひどく悪い。

アフガニスタンの治安悪化の一方、武力衝突は隣接
するパキスタン西北辺境州までまきこみ、膨大な数の
人々が死んでいる。

「干ばつとともに、いわゆる対テロ戦争という名前
で行われる外国軍の空爆、これが治安悪化に非常は拍
車をかけておるということは、私は是非伝える義務が
あると思います」

アフガン土着の反抗勢力を見ると、基本的にアフガ
ンの伝統文化に根差した保守的な国粋主義運動の色彩
が非常に強い。切っても切っても血がにじむように出
てくる。ある特定の、旧タリバン政権の指令ひとつで
動いているわけではない。諸党派が乱立し、それぞれ
が外国軍に抵抗している状態。かつてなく欧米諸国に
対する憎悪が民衆の間に拡大している。これは私たち
が水路現場で一般の農民と接しての実感である。

いろんな反抗勢力の中には、私たちの職員の一人伊
藤(和也)君が犠牲になったような、とんでもない無
頼漢もいるが、各地で自発的な抵抗運動がおこなわれ、
それだけ根が深い。八百万人のパシュトゥン民族農民
を抹殺しない限り、戦争は終らないだろう。これは私
ではなく、地元の人々、カルザイ政権も含めた人たち
の意見である。武装勢力といっても、兵農未分化な社
会で、すべてのアフガン農民は武装勢力といえないこ
とはない。

アフガン農村では、復讐というのは絶対の掟(おきて)である。
一人の外国兵死亡に対し、アフガン人の犠牲はその百
倍と考えていい。日々、自爆要員、いわゆるテロリス
トとして拡大再生産される状態にあることは是非伝え
るべきだと私は思う。・・・

民主党の犬塚直史(ただし)委員の質問に、

「外国の軍事面の援助は一切不要でございます」

と中村医師は言いきっている。

この証言の翌日、わたしは都内で二度目のインタビュー
をしている。早く帰宅するようにと妻に求められながら、
一冊の本にしたいという希望にこたえてくれたのだと思う。

三回目のインタビューは、長男の結婚のため帰国した二
〇〇九年二月八日(この長男が、喪主の中村健氏)。福岡へ会い
に行った。

先生はじつに用心深い方だったと思う。「現地代表中村
哲」といっても、実質は中村先生ひとりがアフガン現地に
いた。医療から水路建設にかかわり、水路計画の進行中、
九州の川を見て歩き、むかしの人の知恵をそっくり受けつ
いだ。御自身で跡をつぐ人はいないと言われたのは十年前
のことだ。

この十年間に、アフガンのスタッフはベテランになり、
としをとってゆく先生にかわる人を育てる必要が生じた。
七十代の人生とは、「長命」である。生きているかぎり、
アフガニスタンとの縁の切れないことを、先生は自覚され
る。現地のベテランたちを日本へ招き、参考にした九州の
山田堰を実地に見せた。

今回、先生に同行して亡くなった五人のアフガニスタン
人は、先生をつぐべき人びとではないだろうか。ペシャワ
ール会は、先生の事業をひきつぐと発言している。

先生の死にショックを受け、わたしは一週間の上、声を
失っていた。なにも言うなという啓示のような日々が過ぎ
た。

いま思うのは、先生は、楽(らく)になられた、ということ。生
きている限り、アフガンの現地にいなければならなかった
のだから。

「言いだしっぺ」と先生は言われている。その責任。九
月のあの痩せ方と衰え方は、先生の命が危機状態にあるこ
とを語っていたのではないか。

地球規模の天候異変とあいまって、アフガン農村の試練
はさらにつづくと思われる。

川沿いの肥沃な穀倉地帯がつぎつぎに干上がって、砂漠
化してゆく。「近くの村々の取水口修復を手当たり次第支援
している状態」だった。「大きな動き」を先生は予想して
いたと思う。アフガンの国内か国際的にか。

『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』の共著のタ
イトルは、先生の話からわたしが思いをくみあげた。

アフガンにいる方が自然で快適であり、日本へ帰って来
ると異和感があると、日本の現状に批判的だった。

農民と生活を共にしているアフガンの生活になじめば、
日本の社会はこの数十年の間にじつに変貌した。なかにい
れば気づかずに過ぎてゆく。

先生の訃に接して、しみじみ思う気持がゆきつくのは、
アフガンでの死それ自体は、先生のお望みだったのではな
いか、ということ。

いつかは死ぬ者として、アフガンの現地で人生の最期を
むかえたいーー待っている自然死のあり方として、心血を
注いできたアフガンの地で人生を終えるーーそれが先生の
「胸中の願望」だったのではないかと思える。

一九九一年四月一日に生れ、八歳で発病、二〇〇二年十
二月に十歳で亡くなった次男は「親に似ず優しい聡明な子
であった」と先生は書かれている。

二度の開頭手術で運動神経の切断は避けがたく、左半分
の完全麻痺が起きたという。脳の神経腫瘍だった。

なにか作るのが好きで、片手で器用に机を作ったり本箱
を作ったり、プラモデルの組立てなどもやり、父親と二人
で大工仕事をすることもあった。

苦しいとか痛いとか言わず、世話をしてくれる人に気を
遣う。「人間は、いっぺんは死ぬから」と言ったという。

小さい子を喪うことは耐えがたい。むかし、わが子をむ
ざむざと病死させた母親は、終生その痛みをかかえている。
彼女たちは「特に小さい子を喪うのは耐えられないこと」
を知っている。わたしの母親世代までが経験した、病む児
に打つ手のない試練である。

かつての「母親たち」がかかえていた子を喪う悲しみを、
中村医師自らが体験された。

「翌朝、庭を眺めると、冬枯れの木立の中に一本、小春
日の陽光を浴び、輝くような青葉の肉桂の樹が屹立してい
る。死んだ子と同じ樹齢で、生れた頃、野鳥が運んで自生
したものらしい。常々、『お前と同じ歳だ』と言ってきた
のを思い出して、初めて涙があふれてきた」

「バカたれが、親より先に逝く不幸者があるか。見とれ、
おまえの弔いはわしが命がけでやる。あの世で待っとれ」
(『医者、用水路を拓く』)

その空白に茫然と日々を過ごしたという。子どもは父親の
夢枕にあらわれつづけた。背後を刀で刺される思いであっ
たと痛苦を語っている。

一日も休めないアフガンの現場である。そこから逃れる
道を自ら遮断して、医師のいう「弔い」とはなんなのか。

日本がアメリカに追随し、戦争参加の名目として、集団
的自衛権などと、憲法を骨ぬきにしようとするぎりぎりの
時点で、中村医師は武力不要(無用、有害)、丸腰の貢献こ
そという、アフガン平和復興のモデルを一つ作りあげた。
「いのちの水」でよみがえる「復興アフガン」である。

干ばつと大洪水あいつぐアフガンの気候は、地球の未来
の予言のようでもある。乾いて喪われた大地を蘇らせるこ
とは、ささやかな人間の意思表明かも知れない。

人は生きるべく生れてくる。何年か前の一日、ペシャワ
ール会から糖蜜が送られてきた。子どもの拳(こぶし)ほどの茶色の
ボールは、復原されたアフガンの大地で収穫された砂糖大
根からしぼられた。強烈に甘いと思った。

アフガンの人たちの一部は、異国軍の暴力に対して、テ
ロ行為による報復をおこなった。ソ連軍に対して、米英軍
兵士に対して、あるいは異国軍の加担者であるとみなした
人たちに対して。

厄除けめいて日の丸を車のボディに描いていた医師は、
日の丸が危険防止の方法たり得ない状況に立ちいたったと
き、日の丸とJAPANの文字を消した。

練馬区の講演会で、青年からなぜいまの仕事をつづけて
いるのかと問われ、「運命、さだめのようなものを感じて
います」と答えたのは、何年前の夏だったろう。

中村先生を狙った銃の持ち手、さらにその背後にいる人
たちは、二十一世紀の人間の夢と希望、豊穣と可能性を射
ったことを知るといい。

無知であることのこわさを、天下に示すといい。悔いて
もかなわないことを。

あなたが狙った命は、かけがえのないひとりの人間だっ
た。

さわち・ひさえ 一九三〇年生まれ。ノンフィクション作家。
中村哲医師との共著に『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』
(岩波書店)がある。単著に『妻たちの二・二六事件』
『密約ーー外務省機密漏洩事件』『14歳〈フォーティーン〉
ーー満州開拓村からの帰還』『昭和と私』など

【岩波書店「世界」2020年2月号】

コメント(1)

中村医師こそ、国民栄誉賞に値する。

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