ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】8月に2発、9月、10月、11月に3発ずつ、さらに必要なら12月に7発

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加



トルーマンがポツダム入りした日、チャーチルもまたスペイン経由でポツダムに
入っていた。
翌16日にはスターリン一行が到着した。
そしてその日の午後、ニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験が成功した。
・・・
「今朝手術を実施。
診断は未了なるも、結果は満足すべきものと思われ、すでに予想を上回っている」
・・・
7月17日正午から、スターリン、モロトフとの第1回会談が開かれた。
・・・
(当時米国は)ヤルタの約束通り、ソ中友好同盟条約が結ばれ、それを条件に
対日参戦に踏み切るという合意を、ソ連側が遵守することを期待していた。
米国にとって、対日参戦に関するロシアの最終合意を取りつけることこそが、
喫緊の外交戦略課題だったのである。
・・・
だがこの頃、原爆実験成功の第2報が入った前後から、米国側の政策に微妙な、
しかし確かな変化があらわれていた。
・・・
ソ連参戦によってでなく、原爆投下によって日本の降伏を、それも無条件降伏を、
引き出すことができる。
であるなら逆に米国は、日本降伏に対するソ連関与を可能なかぎり回避し、
ソ連参戦前ーー8月15日以前ーーに日本を、原爆によって降伏させるべきだ。
それによって、日本占領へのソ連の介入を回避し、
米国による日本単独占領の道を、いっそう確実なものにできるだろう。

米国の軍事外交戦略の明らかな転換である。
・・・
原爆投下日程が最初に決められた。
次いで対日最後通牒への中国の参加の同意と、蒋の署名とを得る。
その後ただちにーー可能なかぎり最も早くーー対日最後通牒すなわちポツダム宣言
を発出する。
それも、ソ連に知らせずにだ。
・・・
その日大統領は、日本を無条件降伏させるために原爆をたてつづけに使用する
ことを決断した。
8月に2発、9月、10月、11月に3発ずつ、さらに必要なら12月に7発
の原爆を日本に投下するという、軍部の計画にひそかな承認を与えていた。

そして2日後の26日、蒋から同意と署名がポツダムに送られてきたのを待って
夜7時、解禁時間午後9時20分の指定で、宣言文コピーが報道陣に配布された。
ポツダム宣言の発出である。
・・・
自らの力への過剰ともいえる自信、つまりは過信は、ソ連に対する米国側の協調的な
態度を放棄させた。
そして対決的政策への転換を、三様の領域で促した。
第一に、ドイツ問題。
第二に、東欧承認問題。
そして第三に、満州と朝鮮と中心とする極東問題である。

そしてそのいずれの領域にあってもそれは、ソ連の膨張を、「押し止める」
という意味での「封じ込め」政策を越えて、ソ連の攻勢を「巻き返し」
ていくことを志向し始めていた。
すなわち、ソ連勢力圏下に組み込まれた東欧諸国を「自由主義化」し、
その体制転換によって「門戸開放」を進めることを、志向し始めていたのである。

いうまでもなくその変化は、ヤルタを支えた対ソ共生路線から、
対ソ対決路線への転換を意味していた。

(第10章 ポツダムの神話 「戦後の原像」228p 進藤榮一 1999 岩波書店)

コメント(1)

8月に2発、だけで終わったのが、幸いだったが、アメリカの対ソ戦略で、日本が犠牲になったのは残念。
でも、北海道がソ連領にならなくてよかったとも・・・歴史は皮肉ですね。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見 更新情報

孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング