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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 「飢え、焼け野原の、この国の未来に光をさしたのが日本国憲法でした」

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人間復権の旅路 証言  ハンセン病・沖縄 差別との闘い

上田の作家・伊波敏男さん 朝日新聞長野県版 2019年5月4日

 法の下の平等や基本的人権の尊重をうたう日本国憲法は3日、施行から72年を迎え
た。しかし、その憲法下で強制隔離や断種といったハンセン病患者の人権を蹂躙(じゅ
うりん)し続けてきた法律が、20年余り前まで存在した。ハンセン病回復者で作家の
伊波(いは)敏男(76)=上田市=は、「人権問題」としてのハンセン病とともに、
出身地・沖縄の問題や戦争の不条理を告発してきた。今秋、長野を去る伊波のメッセー
ジを、ここで伝えたい。

沖縄のこと、憲法のことを話す伊波敏男さん=佐久市

 抑制のきいた、それでいて力のこもった言説で、伊波はハンセン病によって自身が受
けてきた差別と、闘争の歴史を語った。

 4月20日、北陸新幹線の佐久平駅に近い会議室に若い研修医や教師たち15人が集
まった。県厚生連・佐久総合病院の医師、色平哲郎(59)らが企画した連続講演会の
2回目。ことし11月に19年ほど暮らした上田市を離れ、故郷・沖縄へ住まいを移す
伊波の最後のメッセージを心にとどめようと昨年末から始めた。8月が最終回となる。

 「国民の無関心が、国の過ちをこんなにも長く続かせた。二度と同じことを繰り返さ
ないためにも、皆さんがこの負の歴史を伝えていく力になってほしい」

 出席者とのやり取りも含め約4時間に及んだ会を伊波は、そう締めくくった。

   □ ■ □

 沖縄戦時、1歳数カ月だった伊波は、母から野いちごを口に含ませてもらいながら戦
火を生き延びた。

 「しかし、本当の不幸は戦後に待っていた」

 食べ物も住むところもない。不衛生な環境下でマラリアや結核が蔓延(まんえん)し
、医師不足が追い打ちをかけた。資料によると、1947年のハンセン病患者罹患(り
かん)率は本土の約2倍、49年は3倍超に達していた。これは、沖縄の医療が崩壊し
ていたことを物語っている。

 伊波は14歳で発症した。後遺症でひじから下の痛みなどの感覚が失われ、両手の指
は手のひら側に曲がり込むように変形した。「なぜ、こんなに重篤になるまで発見でき
なかったのか。沖縄の医療は何をしていたんだ」。日本政府が派遣した専門医が真っ赤
な顔をして、机をたたきながら怒声を発した。

 長く心に残っていたこの医師の言葉は、のちにフィリピンなどで医師や看護師、助産
師を目指す学生を支援する奨学金の創設につながる。

 2001年、日本のハンセン病患者に対する国の隔離政策を司法が厳しく断じた。人
権侵害で差別と偏見を助長したなどとして、熊本地裁が「違憲」の判決を下したのだ。
政府は政策の過ちを認め、元患者らに賠償金が支払われた。

 伊波は受け取った1200万円のうち900万円を原資に03年、奨学金のための基
金を創設した。フィリピンの医師から聞いた同国のハンセン病や地方の貧困の現状が、
戦後の沖縄と重なったためだ。

 「身近に医療があり、医師がいることの大切さ」を身をもって知る伊波の奨学金を受
け、これまでに20人近くがフィリピンの地域医療などに携わっている。伊波が同国を
訪れた際、ミンダナオ島で働く助産師がどうしてもお礼を言いたいと、船を3日乗り継
いで会いに来てくれたこともあった。基金は今も続く。


■ 「治る病気」への根強い偏見

 「琉球住民 伊波敏男」。米軍政下の1960年3月、伊波が沖縄・那覇港から海を
わたり鹿児島に向かった「パスポート」には、そう記されている。

 31年制定の「癩(らい)予防法」はすべてのハンセン病患者を隔離の対象とし、戦
後の53年にできた「らい予防法」でも強制隔離は継続された。特効薬が普及し、56
年の国際学会で「治る病気で社会復帰推進を」との決議がされた後もそれは続いた。同
法が廃止されたのは、40年も先の96年だった。

 症状が皮膚など体の表面に出てくるために醜く恐ろしい病とされ、宗教とも関連づけ
られた。「前世の報いで現れるとの認識が社会に染みつき、日本で一番忌み嫌われ、徹
底的に排除された病気」と伊波は言う。

 中学2年でハンセン病発症を宣告された伊波は、法により沖縄県北部の療養所へ。親
戚縁者へ累が及ばないようにと、偽名を与えられた。中学校で使っていた机といすは、
校庭で焼かれたと聞かされた。

   □ ■ □

 この療養所を訪問し、伊波の作文を見た川端康成から「いっぱい書きなさい」と激励
された。もっと学びたいという欲求は強まり、国内唯一のハンセン病患者だけの高校が
ある岡山県行きを決意する。家族の手を借りて療養所を「脱走」。用意したパスポート
を手に父と2人、決死の覚悟で海を渡った。ハンセン病と知られないようコートで後遺
症の指を隠し続けた。

 鹿児島の療養所で1年過ごして入学試験に合格。岡山へ向かう旅路は、同じ学校に進
学する仲間らと共に「伝染病患者輸送中」と貼り紙をされた郵便車両の中だった。岡山
で完治した伊波は東京の専門学校へ。68年にハンセン病回復者であることを明かし、
約12年の療養所生活を終えた。

 しかし、障害者らが働く東京の社会福祉施設に入った後も差別は続いた。寮で伊波の
使う食器にだけ印が付けられたり、一緒のふろを使わなくなったり。最初の結婚で子ど
もができた後もアパート住人からの退去要求や保育所入所拒否……。一方で「隠さない
で生きるなら全力で支える」という福祉法人幹部らの励ましもあり、職場討議を重ねる
などして偏見と向き合い、最終的には福祉法人の常務理事を務めた。

 沖縄、鹿児島、岡山、東京。「どうやって生きていこうかを突き詰め、人間復権のた
めの旅路」だったと伊波は振り返る。


■ 憲法は人権・平和守る柱

 2000年、妻の故郷の上田市に移住した伊波は、創作活動とあわせ、県内の中学校
を中心に270回以上、ハンセン病問題の講演をしてきた。

 先月行った高校では、生徒たちが「薬害エイズ」を知らないことに驚いた。「社会で
起きた過ちが、いとも簡単に風化してしまう」。ハンセン病も沖縄問題も戦争責任も同
じで、「不都合なことは隠し、早く忘れさせようとする国の体質そのものの現れ」と伊
波は考える。

 だからこそ、子どもたちに話す。「無関心でいると、同じことが起きる」と。

   □ ■ □    

 今年2月、伊波は、塾長を務め、15年近く沖縄の歴史や課題を学んできた信州沖縄
塾を閉じた。「涸(か)れることのない涙で見送った、数え切れないほどの我が肉親た
ちの命、そして飢え、焼け野原の、この国の未来に光をさしたのが日本国憲法でした」
と、閉塾のあいさつをした。

 幾度も民意が明らかにされながら、政府が基地移設を強行する沖縄を「日本で戦場に
一番近く、憲法から一番遠い島」と呼び、「本土の国民よりも沖縄県民が憲法に託して
いることは大きい」と訴える。

 戦争と沖縄、そしてハンセン病――。すべてに当事者として関わり、確信しているこ
とがある。

 日本国憲法は、戦争という過ち、犠牲から得た明確なビジョンであるということ。国
の現状と憲法の理想とのギャップを見せつけられながらも、やはり人権や平和を守る柱
はこの憲法しかないということ。

 年齢とともに執筆活動が衰えてきたという一方、「沖縄で新しいテーマを見つけて書
きたい」。そんな望みも出てきている。

=敬称略(北沢祐生)

https://www.asahi.com/articles/ASM513SX9M51UOOB004.html

コメント(1)

伊波さんの、人生をとしての戦いに敬意を表します。
今の、日本国憲法は、戦争の犠牲の下にでき、いまだに、理想と現実のギャップはありますが、われわれは、その現実を理想に近づける努力をすべきであり、憲法を、現実に引き下げるべきいではありません。

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