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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 謹賀新年、平成31年も宜しくお願い申し上げます、近況、ご笑覧を 151 研修医の固定観念を崩したフィリピンでの経験

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日経メディカル 2018年12月28日 色平哲郎

https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201812/559242.html

フィリピン・レイテ島のフィリピン国立大学医学部レイテ分校(SHS;School of Healt
h Sciences)を10日間の国際保健海外研修で訪問していた佐久総合病院の医師が、12月
上旬に帰国した。参加していたのは、2年次研修医6人と研修教育責任者の内科医師だ。

研修医のSHSへの定期派遣は今年が3年目。研修医たちは、SHS出身の元WHO医務官、スマ
ナ・バルア博士の案内でレイテ島の集落を訪ねた。各集落では、SHSの学生たちが保健
師と一緒に地域のプライマリ・ヘルス・ケア(PHC)を実践する現場に触れてきた。学
生が簡単な診察や予防接種、投薬も行っているのを見て、研修医たちは「医療とは何か
」を改めて自問した様子だ。


住民に認めてもらった学生が看護師、医師の道へ

SHSについては、このコラムでも何度か書いてきたが、改めて紹介しておきたい。

佐久の研修医たちは訪問前に、レイテ島の歴史を勉強したという。レイテは太平洋戦争
の激戦地だった。侵攻した日本軍は上陸してきた米軍と壮絶な戦闘を繰り広げた。レイ
テ島での太平洋戦争中の死亡者は、日本軍約8万人、米軍約3500人、島民5万4000人と推
計される。これほど多くの島民が命を落としたことを忘れてはなるまい。

そのレイテ島のパロという小さな町に、学生数150人足らずのSHSはある。学生たちは、
生まれ育った町や村の推薦を受け、フィリピン全土の島や山から集まってくる。学費は
奨学金で賄われる。入学すると、まず助産師資格を持つコミュニティ・ヘルス・ワーカ
ー(地域健康指導員)を目指す。真っ先に助産師資格を取るのは、それだけお産が多い
からだ。

学生は、週の半分は島の各地の集落に張り付き、先輩に付いてお産や保健指導、予防接
種などのノウハウを学ぶ。約2年間、勉強して助産師資格を取る。助産師国家試験の合
格率は国内平均で50%ほどであるのに対し、SHSでは8割近いという。

さらに看護師、医師を目指して勉強を続けたい学生は、自分が受け持った集落の人びと
に「認めて」もらえれば看護師養成コースへ進む。看護師を経て、医師を志望する学生
は、改めて受け持ち地域の住民の承認を得られればステップアップ。医師の国家資格を
取るまで10年近い歳月がかかる。前述のバルア博士も、こうして医師となり、WHOの医
務官となった。

日本の、一般入試で選別し、医学知識を詰め込んで専門分化していく医師教育からは想
像もつかないシステムだろう。しかし、「人間として人間のお世話をする」という広義
の医療の原点に立てば、住民とじかに接しながら、ニーズに応じてキャリアを積んでい
くSHSの方法は合理的ともいえる。健康不安を抱える住民が何を求めており、何をすべ
きか、早い段階で、1人の人間として向き合わざるを得ないからだ。そこから医師を目
指すモチベーションもまた育まれる。


「当たり前だと思っていたことが、そうではない」

SHSを訪問した研修医たちが、佐久に帰ってきて、どのような「感想」を漏らしたか。
以下、箇条書きでご紹介しておきたい。

・当初のイメージと異なって、医学校というよりヘルス・ワーカーの養成所だった。

・住民の中に入って、学生が散髪をしたり、マニキュアを塗ったり、アメを配ったりし
ているのを見て、PHCを見直す、いい機会になった。

・終戦後、佐久病院の若月俊一医師たちが堅い健康講話の代わりに「紙芝居」を携え、
「楽しさ」を伴って信州の村々を回ったことを彷彿させた。

・日本のスタンダードが世界標準ではないことを知る、そんな機会となった。

・学びは「視野を広げること」、どちらか一方が正解、などという単純な話ではなかっ
た。

・佐久病院の中堅以上の医師にとって「佐久が行ってきたPHC活動を見つめ直す機会」
となろう。

・SHSの医学生たちは、4つの村で24時間頼りにされていた。村人から信頼されているこ
とに驚いた。

・なぜ、医者になろうと思ったの? と、日本の感覚で尋ねてから恥ずかしくなった。S
HSの学生は偏差値で簡単に志望校を決めて医師を目指せるような状況ではなかった。15
人の学生のうち14人は極貧層から地元の期待を背負ってレイテ島に来ていた。進学でき
たことを奇跡的と感じている学生一人ひとりを、たくさんの住民が支えていた。

・普通の会話の中で「僕のお祖母さんは日本軍に殺されたんだ」と言われてハッとした
。日本人を恨んでそう言ったのではなかった。淡々と重い話題が伝えられた。許してく
れているのは、フィリピンの人たちがカトリック教徒だからだろうか。

・後輩たちにもぜひ、訪問してほしい。当たり前だと思っていたことが、そうではない
。私は医療過疎地の出身なので故郷に帰って診療をしたいが、数年間は佐久で必死にや
りたい。

・むしろ、無自覚に医師を目指す日本のシステムの方がヤバイのではと感じてしまった


これらは、研修医が漏らした感想のごく一部だ。「自分の思い込みに気付いた」「固定
観念が崩れた」という気付きに引き続いて、では、いったい日本の医療はどう捉えたら
よいのだろうとのディスカッションに。若手医師の内面が伝わってくる、そんな帰国報
告会となった。


==


150 外国人労働者受け入れ拡大で蘇る「苦い記憶」

日経メディカル 2018年11月30日 色平哲郎

https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201811/558825.html

外国人労働者の受け入れ拡大に向けた出入国管理法改正案が国会で審議されている。政
府は、今後5年間で最大約34万5000人の外国人労働者を受け入れるという。2017年末現
在、外国人労働者は約128万人。そのうち、低賃金の労働で失踪者が7000人超(2017年
)といわれる技能実習生が約25万8000人を占めている。

「人手不足」を理由に、外国人労働者を受け入れる扉が大急ぎで開けられようとしてい
る。しかし、海を越えてやってくるのは働くロボットではなく、「人間」だ。若くて頑
強な人ばかりではない。体の弱い人もいる。いや、来日して低賃金で苛酷な労働を強い
られ、重篤な病になる人もいる。日本の医療は、彼らを受け入れる準備ができているの
だろうか。かつて、重い病気に罹った外国人の患者さんを支援したときの苦い記憶がよ
みがえる。

1990年代初頭、法務省入国管理局は「興行ビザ」や「観光ビザ」を気前よく発給し、外
国人をどんどん受け入れた。当時、研修医だった私の活動範囲(長野県の佐久・小諸地
域)にはタイ出身の労働者が大勢いた。

支援者と一緒に、タイ人青年が数人で生活していたアパートに行くと、後ろ手に縛られ
て大小便を垂れ流している男性がいた。統合失調症で、幻覚、妄想が激しく、いわゆる
「座敷牢」に入れられた状態だった。仲間は工事現場で働かなくてはならないので、そ
の人をアパートに残して出かけていた。一人にしておくと何をするか分からないので、
縛っていた。

日本の法律では、保健所長に届けて入院の措置を取らねばならなかったが、タイ人患者
を受け入れる病院はなく、支援者がお金を出し合って帰国させた。

HIVに感染した、タイ北部出身の女性たちのお世話もした。患者さんを私の勤務先の病
院に連れて行ったことがあるが、病棟の他の患者さんに説明がつかないと、ひんしゅく
を買った。修行中の研修医が、医療保険にも入っていない外国人患者を引っ張り込み、
「趣味的なこと」で病院に多大な迷惑をかけていると非難された。批判されても仕方な
いけれど、非難されたのはつらく、目の前の患者さんの命を救えないのはもっとつらか
った。

外国人の診療で、医療通訳は極めて重要な役割を担う。「医師から本人にHIV感染を告
知してくれと頼まれても、患者さんとの人間関係ができていなければ、それは待ったほ
うがいい」と、仲間の医療通訳から有益なアドバイスを受けたこともあった。だが、医
療通訳は不足しており、ある病院では大使館を介してタイ人女性にHIV感染を告知した
ところ、彼女は受話器を置き、住んでいたマンションから飛び降りて亡くなったという


「あと何年生きられますか」と訊かれるのが、支援する側として一番苦しかった。最終
的に、「もう医療費のことは心配しなくていい、国に帰ろう。家族の待つ家に帰ろう」
と患者さんを説得した。必死にお金を送って支えた、愛する家族のもとへ生きているう
ちに帰そうとあれこれ手を尽くした。

現在も、生活が困窮した外国人が数万人単位で国内に居住しているとされる。東京都の
公立小学校に勤務する若い友人の話では、無国籍の子ども(不法滞在の女性に日本人男
性が生ませたまま責任放棄)が多数いて、病気やケガをして病院にかかると医療費は全
額自己負担。当然、払えず、請求が小学校にきて教師が対応するのだという。

はたして、このまま門戸だけ開いて、どんどん外国人労働者を受け入れて大丈夫だろう
か。


==


149 幻に終わった農村医科大学構想

日経メディカル 2018年10月31日 色平哲郎

https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201810/558417.html

今年は、「すべての人にとっての健康」を目指すアルマアタ宣言から40周年に当たる。
1978年9月に国際会議で採択された同宣言は、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)の基本
的活動項目として、健康教育、水供給と生活環境、栄養改善、母子保健と家族計画、予
防接種、感染症対策、簡単な病気やケガの手当て、基本医薬品の供給などを挙げている


先進国の日本で暮らしていると、これらはとうに達成されたと感じるかもしれない。し
かし、「すべての人」が対象となれば、日本でもいまだ道半ばといえようか。PHCは、
理想の高みを追い続ける活動であり、強いモチベーションを持った医療者の教育が重要
な鍵を握る。

PHCの思想と実践を先取りしていた佐久総合病院の故若月俊一名誉総長は、自負と共感
をもって農村で働く医師養成のための「農村医科大学構想」を抱いていた。慢性的に医
師不足だった農村で自前の医師を育て、不足を解消しようというプランだった。

筆者の先輩医師によれば、1964年末には若月院長(当時)の提案で、全国厚生農業協同
組合連合会に農村医科大学の設立準備委員会が設置されており、1970年の全国農協大会
でも佐久を候補地として医科大学をつくる決議がなされたという。

ところが、1970年に第三次佐藤栄作内閣の秋田大助自治大臣が、へき地医療従事者養成
のための医学専門学校構想を表明。雲行きが怪しくなる。1972年、各都道府県が共同で
自治医科大学を設立し、若月先生の農村医科大学構想は幻に終わった。


「恩に報いる」ため故郷に戻る医師たち

日本では実現しなかった農村医科大学だが、実はフィリピン共和国で具現化している。
本コラムでも何度か触れた、フィリピン国立大学医学部のレイテ分校(通称SHS)だ。S
HSの学生たちは生まれ育った町や村の推薦を受けて、フィリピン全土からレイテ島に集
まり、学費は奨学金で賄われる。

入学した学生は、まず助産師資格を持つコミュニティ・ヘルス・ワーカーを目指す。週
の前半は教室で授業を受け、後半はグループでレイテ島やサマール島の村々に張りつき
、有資格者の先輩の指導の下、お産や保健指導、予防接種などのノウハウを身につける
。2年勉強して助産師資格を取る。

さらに勉強を続けて看護師、医師を目指す学生の場合は、出身地域の基礎自治体の人々
に認められれば、看護師養成コースに進める。その後、入学者の全員ではないが、正規
看護師、医師へとステップアップ。卒業したら、自分を送り出してくれた故郷へ帰る。
医師の頭脳流出が激しいフィリピンで、SHS卒業生の9割以上が国内の島や山といった、
経済的に恵まれない地域に留まっている。

近年は、佐久総合病院の研修医たちも毎年、SHSに足を運び、地域で鍛えられる医学生
たちに強い刺激を受けて帰ってきている。使命感を呼び覚まされるようだ。

それにしても、SHSの卒業生は、なぜ海外や大都会に行かず、貧しい国内に留まってい
るのか。SHSを詳しく取材している山岡淳一郎氏の著書、『医療のこと、もっと知って
ほしい』(岩波ジュニア新書126ページ)には、こう記されている。 


「フィリピンの現地語で『ウータン・ナローブ』という言葉があります。日本語で『恩
に報いる』という意味です。フィリピン社会は、ごく少数の豊かな人と圧倒的多数の貧
しい人びとから成り立っています。みんなでお金を出しあって公的なしくみをつくるの
が難しい社会です。と、なると個人的に受けた恩には必ず報いるという暗黙のルールで
支えあうしかありません。これに反すると『ワランヒア(恥知らず、人でなし)』と批
判されます。奨学金を出してくれた地元の恩に報いるために学生たちは、故郷に戻るの
です」


日本では、地域や診療科による医師の偏在が著しい。医療過疎地、社会的へき地は、今
も厳然とある。豊かな日本では、好きな場所で医者になれる。その代償として偏在が進
む。「ウータン・ナローブ」に代わるモチベーションを、日本の医師教育は見つけられ
ていない。


==

コメント(1)

すーちゃんさん

重ねて感謝申し上げます。

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